一昨日、内田百閒の「阿房列車」を読み終わった。
巻末には、「雑俎」と題して、本編に「ヒマラヤ山系君」として登場する百閒の門人、平山三郎氏本人の解説がついていて、それがまた面白かった。
阿房列車全体も、ところどころ爆笑してしまうくらい面白かった。
しかも、さすがは明治生まれの文人で、語彙が豊富だ。そのため、こちらの語彙も増えたように思う。
言葉「的皪と」
「的皪と光る」という言葉が出てきた。
「阿房列車」(内田百閒集成1、筑摩書房、平成14年(2002)10月9日)p.365より
こちらの障子を開けると、しんとした静けさの中に、杏子の花が咲いている。花盛りの枝が、池の縁から乗り出して、音のしない雨の中に的皪と光った。
……というふうに使われていた。基本的に面白い本なのに、こういうところの描写がさりげなく光る。百閒の本領だと思う。
「的」「皪」どちらの字も、「白い」「明るい」「鮮やか」という意味があり、「的皪」とは白く鮮やかに光る様子を言う。「的皪と光る」というふうに用いるわけだから、用言修飾ということで、副詞だ。
竹取物語
阿房列車を読み終わってしまったので、他に何か読むものを、と思い、図書館へ行った。
岩波の「竹取物語」が目についたので、それを借りた。文語体のものだ。その時、同じ書架で別の竹取物語も見つけた。川端康成による現代語訳で、河出書房から出ている。なんとなくそれも同時に借りた。
川端康成訳のほうから読み始め、先ほど読み終わった。この本は物語より川端康成自身による解説の方が長い。丁寧な解説で、しかも川端康成の国文学に対する通天の程が窺われる、相当に学問的なものだ。この本の目的はどちらかと言うとそっちのほうにあるのだろう。
岩波の文語体の方を読み始める。