引き続き60年近く前の古書、平凡社の世界教養全集第3「愛と認識との出発/無心ということ/侏儒の言葉/人生論ノート/愛の無常について」を読んでいる。
第1巻から延々と西洋哲学を読んできて、この第3巻でやっと日本人の著作に来たと思ったら、よりにもよって最初が倉田百三である。
ドイツ哲学へドップリ傾倒しつつなぜかプロテスタンティズムへも我が身をなすり込んで慟哭し、しまいには親鸞に
そこへ、やっと来ました、鈴木大拙師の「無心と言うこと」。
心に沁みる。疲労がたまりにたまっていたところへ、温かい茶を一服のむような安らいだ感じがする。この達観、達意。どうだろう。
この「平凡社世界教養全集」、38巻あるうちのまだ3巻目に手を付けたにしか過ぎないが、当時の編集陣による配列の妙に驚嘆せざるを得ない。
言葉
一竹葉堦を掃って塵動かず
本書の文中には
よく禅宗の人の言う句にこういうのがある。
「
一竹葉 堦 を掃 って塵 動かず、月 潭底 を穿 ちて水に痕 なし」
……というふうに書かれているが、どうも「一竹葉」というところなどが「……?」と思えなくもない。
検索してみると、「竹影掃堦塵不動、月穿潭底水無痕」(
意義は読んで字のごとく、竹の影が石の
この泰然自若、この不動、不変。自称「改革派」などに聞かせてやりたいと思う。
止揚
そういえばこの言葉、以前にどこかで見たなと思った。開高健の「最後の晩餐」で読んだのだった。
ドイツ語の「
……今の哲学者の言葉で言うと、揚棄するとか、止揚するとでもするか。
応無所住、而生其心
「まさに住する所なくしてその心を生ずべし」と
ところが無住ということが『金剛経』の中にある、『般若経』はどれでもそういう思想だが、ことに禅宗の人はよく「応無所住、而生其心」と申します。よほど面白いと思うのです。
で、この言葉の意味よりも、「応」という字は確か漢文では「再読文字」なのだが、忘れてしまっていて、パッと
これは「まさに~べし」である。
漢文を読んでいると、この「応(まさに~べし)」もよく出てくるが、他に、
- 「将」(まさに~んとす)
- 「且」(まさに~んとす)
- 「当」(まさに~べし)
- 「須」(すべからく~べし)
- 「宜」(よろしく~べし)
- 「未」(いまだ~ず)
- 「蓋」(なんぞ~ざる)
- 「猶」(なお~がごとし、なお~の
- 「由」(なお~がごとし、なお~のごとし)
ごとし)
……なんてのがあって、覚えておきたいが、……いや、忘れる(笑)。忘れるからここに書いとく。
兮
これもなんだっけ、再読なんだったっけどうだったっけ、……と少し考えてから、ああ、「而」なんかと同じ「置き字」だった、……と思い出す。それほど気にして読まなくてもいい字だ。音読は「兮(ケイ・ゲ)」である。同じ置き字でも、「而」などは「て」とか「して」と
本文中には
大道寂兮無相、万像窃兮無名。
……とあった。
表詮
ネットではこの語の意味はわからず、手元の三省堂広辞林を引いても見当たらず、同じく手元の「仏教語辞典」を引いてもわからなかった。
但し、「表」は見た通り「
……道元禅師が静止の状態を道破したとすれば、この方は活躍の様子を
表詮 しているといってよかろうと思います。
肯綮
「腱」のことのようである。転じて、ものごとのポイント、そのものずばりの急所のことを「肯綮」と言うそうな。
- 肯綮に当たる(ことわざ図書館)
……また甲と乙と同じ世界だ、自他あるいは自と非自というものが一つになった、それが実在の世界だといっても、どうも
肯綮 に当たらぬのです。
箭 新羅 を過ぐ
これがまた、検索してもサッパリわからない単語である。
……動くものが見えるときには、対立の世界がおのずから消えてゆく、すなわちこの世界は
箭 新羅 を過ぎて作り上げたものになってしまう。
唯一、このサイトに解らしきものがあった。
- 箭新羅(丁福保: 佛學大辭典)
(譬喻)新羅遠在支那東方,若放矢遠過新羅去,則誰知其落處,以喻物之落著難知。
「(
……とでも
そうすると「この世界は箭新羅を過ぎて作り上げたものになってしまう」という文は、この世界は目標や着地点がまったくわからないまま作り上げられたものになってしまう、……という意味になろうか。
本書中では「
只麼 にいる
これもまた、実に難しい言葉である。
……独坐大雄峰とは、ここにこうしている、ただ何となくいる、
只麼 にいるということ、これが一番不思議なのだ。
蹉過 了
「
- 蹉過(コトバンク)
してみると、「蹉過了」というのは「蹉過し
……これほど摩訶不思議なことはないのだ。こうしているというと、もうすでに蹉過了というべきだが、しかしそういわぬと、人間としてはまた仕方がない。