読書

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 鈴木大拙の「無心ということ」を読み終わる。平凡社の60年前の古書「世界教養全集第3」に収められている。

 「こういう風にしたい」「こういうふうにあるべきだ」という分別・差別・区分、あるいは(とら)われ、(こだわ)り、妄執、我執、相対論、企み、(はから)い、そういったものから超越すること、そういうことが「無心」ということであろうかと読みとった。

 また、大拙師はそれを概念・観念として捉えたり理解しようとしたりすることを戒めている。曰く「宗教とは論理的把握ではなく体験である」と。自ら境地を体験するのでなければならないと言うのである。

 この著作を読むに先立ち、ウィル・デュラントの「哲学物語」、モンテーニュの「随想録」、ロシュフコーの「箴言と省察」、パスカルの「パンセ」、サント・ブーヴの「覚書と随想」、そして日本人ではあるが倉田百三の「愛と認識との出発」という順序と組み立てで西洋哲学を速習してきた。実は、これらにはウンザリした。馴染(なじ)めないし、読むほどに鬱勃(うつぼつ)たる抵抗を覚えざるを得なかったからだ。

 だが、鈴木大拙師の説く「無心」は、スッと心に入る気がした。

言葉
抛向(ほうこう)
(太線囲み引用(Blockquoteタグ)は鈴木大拙著「無心と言うこと」(平凡社世界教養全集第3)から。以下、他の引用も同じ。ただし、ルビについては佐藤俊夫が増補している。)

 これを南無阿弥陀仏の一句子にまとめて、我らの面前に抛向したのが……

 文字(づら)のみの意味から言えば、(なげう)ち、向ける、ということであるから、目の前に放り出す、提示する、とでもいう意味になる。

 だが、この「抛向」というのは禅宗でよく使う言葉らしく、単に「放り投げる」というだけの意味には使わないようだ。

 検索すると「(ぜん)知識(ちしき)は是れ(さかい)なることを弁得(べんとく)し、把得(はとく)して坑裏(こうり)抛向(ほうこう)す」などという使い方がなされている。

 「提示する」と言うと丁寧過ぎるから、ありのまま、更に言うならぶっきらぼうに、弟子や他の人の目の前に放り出して見せ、相手が自身の力で真実を掴むように仕向ける、そういう宗教体験の伝達のようなことを指して「抛向」と言っているのでもあろうか。

闡明(せんめい)

 まことに難しい字(づら)である。ものごとをハッキリさせ、明らかにすることだ。

 次に心学の祖である石田梅巌の『都鄙(とひ)問答』中にある、南無阿彌陀仏観を紹介してみましょう。これにもまた往生はこの土での往生、往くことなくして往くところの往生だとの義を闡明しています。

(みた)らず

 無心の働きということは、実際無心の境地を何かの方面で体得したものでないと、いくら説いても画餅飢えに充らずということになるのでしょうか。

 特段難しい言葉というわけではないが、読んでいて、ハテ、「アタらず」だろうか、「ミタらず」だろうか、とひっかかった。

 「絵に描いた餅では空腹を満たすことはできない」という意味であって、意味さえ判っておれば()み方に(こだわ)るところではないと思うが……。

 「()ちる」の文語体の活用はタ行の上二段活用で、「ミちず・ミちたり・ミつ・ミつるとき・ミつれども・ミちよ」か、あるいは「ミタさず・ミタしたり・ミタす・ミタすとき・ミタせども・ミタせ」のサ行四段活用だと思う。「画餅飢えを充たさず」などと言うのがどうも正しいのではないか。「ミたる」という活用がなければ「ミたらず」という訓み方もないはずだ。しかし、「アたらず」では、訓み方は正しくても、意味が遠くなってしまう。

 ここは闊達な口述の講義録を編集したという本著作の性格から言って、「ミたらず」と()んでおくのが無難であろうか。

(いか)でか

 そこで雪竇(せっちょう)()わく、「(いか)でか()かん独り虚窓の下に坐せんには」と。

 「アラソイでか」ではなく、「イカでか」である。「争でか如かん」とは「なんでそのようになるだろうか」というほどの意味だ。だから、「争でか如かん独り虚窓の下に坐せんには」というのは「孤独に虚窓の下に坐している者に、どうしてそのようなことがあろうか」という意味になる。

江戸する

 心学というものが、徳川時代の末ごろに江戸したものですが、……

 これがまた、聞いたことも見たこともない表現だ。検索してもわからない。だが、前後のコンテキストから判断するに、どうやら「都会で取り上げられて、盛り上がりを見せてきた」というような意味で「江戸した」と言っているように思う。

 しかし、注意が必要なのは、当時、物でも文化でも、上方から東海道を経て江戸に入ってくるものは「(くだ)りもの」と言っていたことだ。江戸がいかに徳川大将軍の御膝下(おひざもと)とは言え、工業・工芸、あるいは文化、どのようなものであろうと、どうしても「上方」の水準の後追いをせざるを得ぬ。もしかするとこの「江戸したものであった」という表現は、「ようやく江戸でも取りざたされ、名実ともに公式となった」というような、江戸を「下」に見るが如き、微妙な意味合いを含めているものかもしれない。

(はる)かに

……「雲門室中に垂語して人を接す、汝等(なんじら)諸人脚跟(きゃっこん)下に各〻(おのおの)一段の光明あり、今古(こんこ)輝騰(きとう)して、逈かに見知を絶す。(しか)も光明ありと(いえど)も、……

 普通に「はるかに」というそのままの意味でよいようだ。

什麼(じゅうま)

……若し明暗を坐断せば、(しばら)()え是箇の什麼ぞ

 なんとまあ難しい言葉だこと。こんな言葉は聞いたことも見たこともない。

 禅語でよく使われる言葉のようで、「じゅうま」も「いんも」も、どちらも同じ意味のようだ。「什麽ぞ」というのは、「なんぞ」「いかにぞ」と()んでもよく、つまり「いったいどういうことであろうか?」という疑問語、問いかけの意味である。

掀翻(きんぽん)

 ところが概念の世界もそのもとは体験の世界なので、体験を離れて概念はないのである。概念の世界は地図の世界で、この世界も天文も一目の下に見ることは誠に結構だが、それは実際に踏んだ山や川、そのものではないのである。それ故概念の世界だけなら、天地を一呑みに呑みほしてしまうともいわれ得る。何でもないことだ。だが、宗教の世界では、つまり体験の世界では、むやみにそういうことはいわれない。が、宗教の世界でも天地を掀翻する、そういうこともいう。しかし概念的掀翻と体験的掀翻との間には大いなる差異がある。これを知らなくてはならぬ。

 平たく言えば「ひっくり返してしまうこと」だ。

 だが、もう少し深いところを言っているようにも思う。西洋哲学で言う「止揚・揚棄(アウフヘーベン)」に近い意味のことを言っているのではないだろうか。「体験的なアウフヘーベン」と言うと、少し深味が増す。

 ところで、引用の部分は、本著作の中ほどの「熱い……」ところにある。大拙師が「仏教は概念や知識ではなく体験である」ということを、手を変え品を変え、切々と説いているところであり、本著作中の重要部分の一つであると私は思う。

逕庭(けいてい)

……自分らが今いわんと欲するところの見性体験と、大いに逕庭あるを覚ゆるのもやむを得ぬ。

 「隔たりがある」という意味である。

封疆(ほうきょう)

 これがまた難しい言葉で、聞いたこともない。特に「封疆」の「疆」の字の(へん)は、よく見ると弓偏(ゆみへん)ではなく、下のところに小さい「土」がついている。しかも部首はこの偏ではなく、「田」だそうな。

……恵寂は恵寂で、どこへでも流用せらるべき名ではないのだ。各自その封疆を守るべきである。

 さかいめ、国境、仕切りのことを「封疆」というそうな。

錦上(きんじょう)に花を()

……この呵呵大笑が大なる曲者だ。この一条の問答は、この一句の点破により、無限の妙趣を添え来たるのである。錦上に花を鋪くというべきであろう。

 「錦上に花を添える」という言葉は聞いたことがある。二つの意味があり、一つは「より美しくする」、もう一つは「わざわざ余計なものを付け加える」だ。(すなわ)ちポジティブ・ネガティブ両面の意味がある。

 「錦上(きんじょう)鋪花(ほか)」というふうにも書き、これも検索すると禅宗関連のサイトによくヒットするので、禅語ではよく出てくるもののようである。

 上の引用の通り、本著作中では「よりよくする」という方の意味で使っている。

火を(はら)って浮漚(うたかた)(もと)むるが如し

 これもまたサッパリわからない、難しい言葉である。検索すると禅宗関係のサイトがよくヒットするから、禅宗ではよく使う言葉なのであろう。

道を見て(はじめ)に道を修する、
見ざれば()た何をか修せん。
道の性は虚空の如し、
虚空に何の所修かあらん。
(あまね)く道を修するものを観るに、
火を(はら)って浮漚(うたかた)(もと)むるが如し。
但〻(ただただ)傀儡(かいらい)を弄するものを()よ、
線断ずるとき一時に休する

 全体としては「ゴールに到達するための正しい道すじなんてものは存在しない、道なんかない」というふうに突き放したようなことを言っていて、このコンテキストから意味を(おしはか)るに、「修行している者を見ていると、ただただ降ってくる火の粉を払い、溺れて(わら)(すが)ろうとしているようなもので、無暗矢鱈にもがいているだけであって、そこに『目標』や『体系』なんか、あるはずもない」というようなことを言っている。

 私自身のことであるが、こうした言葉に非常に救われるように思う。近頃、「意志の力」だなどとヒトラーみたいなことを言ってみたり、あるいはまた、体系だ仕組みだ改革だ目標だというようなことを言い立てて他人を苦しめ、実際には我執(がしゅう)を追っているだけである(やから)が多すぎるように感じる。そうした無明迷妄の(ともがら)のことを、最近は「意識が高い人々」などと呼んでいるようだが、それは実は「到達の程度が低い」ということでもあろう。

 「世界教養全集第3」。鈴木大拙の「無心と言うこと」の次に収載されている著作は、ぐっと色が変わって、芥川龍之介の「侏儒の言葉」である。これは小学生の頃に読んだことがある。なかなか皮肉な文章のオンパレードであったように記憶している。反権力、反道徳、アナーキズム風の味わいだけが胸底に残っていて、細部の記憶は消えている。あまり剛直・単純な強者の言葉、質朴・正直な箴言とも思えなかったように記憶しており、今となっては嫌な感じもするが、反面、数十年ぶりの再読は楽しみでもある。

Today’s drinking and snacks 今日の酒肴・新玉葱と明太子の和え物

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 先週ラ・ロシュフコーの「箴言と省察」を読みながら、新玉葱と明太子の和え物を作って一杯やり、動画に撮った。

 編集してYouTubeに上げた。

 動画の中で飲んでいる酒は、いつもと同じ「会津ほまれ からくち米だけの酒 純米酒」である。

 動画の中で読んでいる本は、「平凡社 世界教養全集第2 随想録/箴言と省察/パンセ/覚書と随想」から、ラ・ロシュフコーの「箴言と省察」である。

読書

投稿日:

 引き続き「平凡社 世界教養全集第2 随想録/箴言と省察/パンセ/覚書と随想」から、ラ・ロシュフコーの「箴言と省察」を読んでいる。

 解説(平岡昇(明治37年(1904)~昭和60年(1985)、仏文学者)によると、モンテーニュの随想録や、パスカルのパンセなどに比べると、「内容の深さにおいて劣ることは否めない」(同)と評されるものだそうである。

 しかし、箴言の一つ一つは短くわかりやすい。

気になった言葉――箴言集より――
箴言
【22】 哲学は過ぎ去つた不幸と来るべき不幸には容易に打ち勝つ、しかし現在の不幸は哲学に勝つ。

【23】 死を知つてゐる者は少い。人は普通の場合決意にによつて死を堪へ忍ぶのではなく、愚昧と習慣による、そして大部分の人間は、死なざるを得ないから死ぬのである。

【26】 太陽も死も凝視することはできない。

【38】 我々は期待によつて約束をし、恐怖によつてそれを守る。

【73】 色恋沙汰を一度も経験したことのない女はいくらもゐるが、たつた一度しか色恋したことのないといふ女は、めつたに見つからない。

【79】 沈黙は、自信のない人間の最も確実な方策だ。

【90】 我々が生活上の交際で人の気に入るのは、我々の長所よりも欠点による方が多い。

【251】 欠点が似つかわしい人もあれば、長所と凡そ不釣合な人もある。

【264】 憐れみの情とは、他人の不幸を介して自分自身の不幸を顧る気持ちであることが多い。我々が将来陥るかも知れない不幸に対する巧妙な先見の明なのだ。我々が他人に救ひの手をさしのべるのは、我々が同じやうな不幸にあつた場合に、我々にもさうしてくれることを彼らに覚悟させておくためである。だから、我々が彼らに捧げるこのやうな奉仕は、本来から言へば、我々があらかじめ自身のために利益を図つたことになる。

【266】 野心や恋愛のやうな激しい情念でなければ、他の情念に打ち勝てるものではないと思ひこむのは、考へ違ひである。怠惰は、どんなにだらしがなくても、しばしば情念を制御せずにはおかない。即ち、怠惰は人生のあらゆる計画とあらゆる行為を(むしば)み、知らず知らずのうちに情念と美徳を破壊し、根絶やししてしまふ。

【270】 既得の名誉は、これから獲得すべき名誉の保証である。

【276】 相手がゐなくなれば、月並みな情熱は()め、大きな情熱はつのる、風が吹けば蝋燭が消え、焚火が燃えるやうに。

【277】 女は、愛してゐないのに愛してゐると思つてゐることがよくある。つまり、或る恋のたくらみにいつぱいな胸、言ひ寄られて起きた気の高ぶり、愛される楽しさに自づと引きこまれる心、それに、愛を退ける心苦しさ、かうしたことから、彼女らは唯媚態を演じてゐるにすぎないのに、恋情に燃えてゐると思ひこんでしまふ。

【282】 あまり巧妙に真理を仮装してゐるので、それに騙されなければ却つて判断を誤つたことにされさうな仮面をつけた虚偽がある。

【287】 同一の事柄について方策を幾つも思ひつかせるのは、精神の豊かさよりもむしろ明智の欠如である。この欠如のために我々は想像に浮ぶものすべてに気を取られ、まづ、何が最もよいのかの見分けがつかなくなるのだ。

【301】 財宝を軽蔑する人は相当に多い。しかし、それを与へ方を知つてゐる人は殆どゐない。

【308】 人は節制を一つの美徳としたが、それは偉人の野心を制限するためであり、又、凡庸な人々が幸運や才能に恵まれないのを慰めるためであつた。

【342】 人が生れた国の訛りは、言葉ばかりでなく、精神や心情の中にも残つてゐる。

【354】 欠点によつては、巧みに用ひれば美徳そのものよりも光り輝くものがある。

【372】 大多数の青年は、洗練されもせず、粗野であるにすぎないのに、気取らない人間だと思ひこんでゐる。

【414】 馬鹿と気違ひは、自分の気紛れを通してしかものを見ない。

【427】 大部分の友人は人を友愛嫌ひにさせ、大部分の信心家は人を信心嫌ひにさせる。

【436】 人間一般を知ることは、個々の人間を知ることよりも容易である。

【458】 我々の敵は、我々に対する評価においては、我々自身よりもずつと真実に近づくものだ。

【571】 自分自身の中に安心が見出せない場合は、他にそれを探しても無駄である。

【610】 人間のすることでは、極端になれば善も悪もない。

【611】 大きな罪を犯す能力のない人々は、他人がそれを犯しても容易には感づかない。

【612】 葬式の華やかさは、死者の名誉よりも生者の虚栄にかかはる方が多い。

【618】 人真似は常にうまくゆかないものだ。すべてまがひものは、実物の時は人を魅惑するものでも、人を不快にする。

【622】 自分は人に好かれてゐるといふ自信は、しばしば、間違ひなく人に嫌はれる道である。

様々な省察
〇 大抵の子供が人に好かれるのは、彼らが持つて生れた様子や態度からまだぬけ出さないためであり、それ以外の様子や態度を知らないためである。

〇 つまるところ、人が生れつきどんな長所なり欠点なりを授かつてゐようとも、自分の身分と容貌にふさはしい様子や口調や態度や感情を持ち続けてゐる程度に応じて、他人に好かれるものであり、それらから人が遠ざかつてゐる程度に応じて他人に嫌はれるものである。

〇 雄弁な沈黙といふものがある。それは時として是認することにも、非難することにも役立つ。人をあざ笑ふ沈黙もある。(うやうや)しい沈黙もある。 

Today’s drinking and snacks 今日の酒肴・えのき茸と茗荷の酒肴

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 えのき茸と茗荷と梅肉で酒肴を作って一杯やった。

 例によって動画に撮り、YouTubeに上げた。

 動画の中で飲んでいる酒は、「会津ほまれ からくち米だけの酒 純米酒」である。

 動画の中で読んでいる本は「平凡社 世界教養全集第2 随想録/箴言と省察/パンセ/覚書と随想」から、モンテーニュの「随想録」である。

読書

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 先だってより、平凡社の「世界教養全集第2 随想録/箴言と省察/パンセ/覚書と随想」に収められている「随想録」を読んでいた。モンテーニュの思想的著作である。

 私などの無学者には本来馴染まない、哲学・思想の世界的大著であるので、なかなかスラスラとは読み進まず、しかも通勤電車の中などでの読書であるから、去る5月3日の金曜日、憲法記念日から読み始めて、今日まで約1か月かかった。

 しかもなお、十分に理解して読み進めたかと言うと恥ずかしいことだが実はそうではなく、ざっと3割もわかったと言えばそれでも不遜すぎる自己評価かもしれない。

 モンテーニュという人がどういう人で、何をした人か、ということは、フランスの「宗教戦争」、あるいは「ナントの勅令」あたりで検索すればだいたいわかる。

 そして、彼がどういう思想のもとにヨーロッパ史に残る見事な調停を成しえたかが、この本を読めばわかるわけである。

 さて、次に、この本収載著作の二つ目、「箴言と省察」を読む。ラ・ロシュフコー著、市原豊太・平岡昇 訳、である。モンテーニュは名前ぐらいは知っていたが、このラ・ロシュフコーについては名前も知らない。とにかく読んでみよう。

言葉ノート

 この本を読む上で出てくる、すぐには思い出せないような言葉をノートしておきたい。

ピロニスム  懐疑主義
ストア主義  厳格主義、禁欲主義。むしろ、ストア学派等と言うよりも、「ストイック」「ストイシズム」と言った方が通りが良いかもしれない。
スコラ学者  昔のヨーロッパの「学校」を基盤とした学術主義の学者。
エピクロス主義  「快楽主義」。「エピキュリアン」という言葉があるが、それから考えるとピンと来る。
Que sais-je?  「ク・セ・ジュ?」。フランス語である。「我何をか知る」という言葉であり、前記ピロニスムに関連して、この「随想録」及びモンテーニュを一言で表せとなれば、この「ク・セ・ジュ?」である、ということにもなろう。英語で言えば「What do I know?」である。

読書

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 先日手に入った60年前の古書、平凡社の「世界教養全集」。先々月、1巻の哲学物語から読みはじめた。

 ちょうど先ほど、読み終わった。

 この本は戦前にアメリカで出版され、空前のベストセラーとなったものだ。哲学を一般の人にわかりやすく、しかも的確に紹介した名著である。

 原題は「The story of philosophy, The lives and opinions of the greatest philosophers 哲学物語 ~偉大な哲学者たちの人生と示唆~」という。文字通り、哲学のみならず、哲学者の人生について触れ、その人間的魅力を味わうことができるように書かれており、それが面白さを際立たせる。

 ソクラテスから語り始められ、プラトン、アリストテレスが語られる。時代は飛び、フランシス・ベイコン、スピノーザ、ヴォルテール、カント、ヘーゲルが語られ、ショーペンハウエル、スペンサー、ニーチェが語られる。最後に近代ヨーロッパの哲学者、ベルクソン、クローチェ、ラッセルの3人と、近代アメリカの哲学者、サンタヤーナ、ジェイムズ、デューイの3人が語られる。

 浩瀚(こうかん)で、読むのになかなか歯応えがあった。去る3月16日から読んでいるので、読むのに2カ月弱ほどかかった計算になる。

 引き続き第2巻、「随想録/箴言と省察/パンセ/覚書と随想」を読み始める。それぞれモンテーニュ、ロシュフコー、パスカル、ブーヴの著作である。