湿度が高く、光の散る晴れ方の朝だ。このところ、近所の家々の紫陽花はすっかり萎れたが、いれかわりに百日紅の花が鮮やかに咲きはじめた。
旧暦六月十五日。十五夜だが天文観測上の望月は明後日だという。新暦7月の和名は文月だが、本来の旧暦なら名前ばかりの水無月である。実際は梅雨の最中で、「水あり月」だ。
そろそろ梅雨明けかな、という雰囲気もあるが、あらためて天気図を見ると、列島はまだまだ長く伸びた梅雨前線の水蛇にとりまかれており、もう少し我慢というところか。
関東に住んでいると、今年は空梅雨なのかな、という感じがするが、さにあらず、先日は千葉で冠水騒ぎだったし、関西・東北ではむしろよく降っているという。
梅雨は「ばいう」とも読むが、この音読で「黴雨」の字を当てる場合もある。高い湿度で黴臭くなるというほどの意味だ。
思いついて手元の歳時記を繰ると、見出し・傍題含めて、雨に関してはたくさんの季語がある。試みに書き出してみよう。
夏の雨 緑雨 卯の花腐し 卯の花くだし 梅雨 黴雨 荒梅雨 男梅雨 長梅雨 梅雨湿り 走り梅雨 迎へ梅雨 送り梅雨 戻り梅雨 青梅雨 梅雨の月 梅雨の星 梅雨雲 梅雨の雷 梅雨曇り 梅雨夕焼け 空梅雨 旱梅雨 五月雨 五月雨 虎が雨 虎が涙雨 夕立 ゆだち 白雨 驟雨 夕立雲 夕立風 喜雨 雨喜び
日本は高温多湿、雨が多く、四季のはっきりした風土なのだなあと改めて感じるのである。とりわけ、梅雨に関する言葉の多さときたら。
また、「雨喜び」などという季語には、本当に農民の心が表れているな、と思う。
「驟雨」という言葉には品と格があり、心に響く。それに比べて、最近「ゲリラ豪雨」という言葉が報道などで使われるが、これはまったく品もへったくれもない言葉だ。「ゲリラ」で「豪雨」だよ?いや、勿論、人的被害が出ているようなときに驟雨などと言って澄まし返っているわけにはいかないが、場面場面にちょうどよい言葉を使ってもらいたいものだ。
テレビで美しいアナウンサーが、その美しさとはうらはらに「凄いゲリラ豪雨になる可能性がアリマス!」などと言い放つと、本当にがっかりする。「凄い」もどうかと思う。まあ、被害が出るような場面での「ゲリラ豪雨」は仕方がないが、「可能性」という言葉をここで選んではいけない。せめて「強い雨が降る恐れがあります」と言うべきだ。
可能という漢語は「能う可く…」する時、つまり積極的な方向性があるときに用いるもので、被害が出るような場面で使ってはいけない。しかし、例えばゲストの大学の先生あたりが学術的な語として「梅雨前線の停滞で豪雨被害が出る可能性もある」というふうな使い方をするのは、これは学究の言葉であるから、まず構わないだろう。
こう書いて来るとまるで爺ィの繰り言だ。オッサンから爺ィになってきた。
言葉は時と人により変化していくものなのだから、あまり偏屈な繰り言は言うまい。
何か雨の面白いものは、と検索すると、Youtubeにジーン・ケリーの「雨に唄えば」があった。
名作だなあ。これでも見て、繰り言は休題にしよう。