姪孫(てっそん)あれこれ

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 年始で、妻方の(めい)と久しぶりに会った。彼女の結婚式以来である。美しい姪は「おめでた」で、8ヶ月の大きなお腹を抱え、優しい旦那さんと一緒に幸せそうに年始の挨拶を言ってくれた。

 ところで、姪の子のことを姪孫(てっそん)と言うそうな。面白いのは、字面は「(めい)の孫」でも、(おい)の子、姪の子にかかわらず、どちらも「姪孫」と言うそうである。

 しかし、姪孫はやや難しい言い方で、又甥(またおい)又姪(まためい)という呼び方もまた別にあって、このほうが親しみやすいと思う。

 このあたりのことは、行政書士の勉強をすると、「民法基本」あたりで出てくる。

 法律上の「親族」を一口で言うと「血族6親等、姻族3親等」である。妻方の血族は私にとっての姻族で、妻方の姪は3親等だから私の親族である。妻方の姪孫は、私と妻の両方からみて4親等であるが、同じ4親等でも、妻にとっては親族だが、私にとっては親族ではない。つまり、私にとっては「姻族ではあるが血族でなく」、妻にとっては「親族かつ血族である」からである。

 面白いことに、私と妻方の姪孫は親族関係にないが、私の娘は姪と「従兄弟姉妹(いとこ)」であるから血族であって、そのため、続柄は5親等離れるにもかかわらず、「親族」となるのである。

 細かな話だが、「妻方の姪の旦那さん」は、親等で言えば私から見て3親等に入るが、私にとっての姻族ではなく、従って親族ではない。しかし、妻にとっては3親等内の姻族なので、すなわち親族である。

 ただ、これらのことは「法律はそうなっている」ということであって、どれもみな「大事な『親戚』」であることに違いはない。親族と違って、「親戚」というのは広く認められた一般用語で、法律の用語ではない。

読書

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 春から以来(このかた)、定年後の就職の便(よすが)にと思い、通信講座で行政書士の勉強をしていたため、法律の教科書以外の本を読んでいなかった。

 勉強はしたにもかかわらず肝心の本番試験の願書を出しそびれ、受験が見送りになるというなんとも締まらぬ()ッぽこなことになってしまったが、通信講座そのものは終了し、修了証が出た。

 ともかくも、また読みたい本が読める。市立図書館の南部分室へ行き、3冊ほど借り出してきた。

 1冊目は入り口近くのディスプレイでふと目に留まった本。片岡義男の「豆大福と珈琲」。

 パラッと(めく)ってみるだけのつもりで手に取ったのだが、1ページ目の書き出しで吸い付けられてしまったので借り出した。短編集だ。

 表題作の「豆大福と珈琲」は、情の希薄な学者の両親の代わりに祖父母に育てられた主人公が、自分なりに再定義・再構築した家族愛に目覚めていく、というものだ。ただ、こう書くと主人公は冷酷漢のような感じがするが、決してそうではなく、暖かくのびのびと育てられた善人である。

 片岡義男独特の端正な文章がよく合う内容だ。

 2冊目は、好きな作家である吉村昭の「雪の花」。

 江戸時代に種痘を普及しようと奮闘した福井県の町医者、笠原良策の物語である。

 最後に、「絵でみる江戸の食ごよみ」という本。これも、単に目についた本を手に取っただけだ。1冊目の「豆大福と珈琲」の近くのディスプレイに置かれていた。「食べ物」が市立図書館南部分室のこのところのテーマらしく、そのディスプレイに置かれている本は全部食べ物が関係するものだった。

 読んで字のごとく、江戸時代の食べ物について、絵入りで分かり易くまとめた新書だ。

 図書館の帰り、明日に控えた衆議院選挙の期日前投票をしようと思った。私の住む新越谷では、図書館にほど近い新越谷駅のコンコース内に、仮設の建物で期日前投票所が設けられるのだ。しかし、投票所に詰めかけた数百メートルに及ぼうかと言う長蛇の列を見てウンザリし、期日前投票はやめにしてしまった。明日、ノーマルに投票すればよい。

行政書士の勉強

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 行政書士の通信講座。模擬試験をやっとこさ全部提出する。期日ぎりぎりだ。

 この体たらくではテストを受けても受かりそうにもない。というか、確認してみたらもう29年度の願書は9月8日で締め切られている。

 講座を申し込んだのは去年の秋だったが、その時には、次の春に今の部署に転勤するとは思っていなかった。新しい部署にも馴染まなければならず、自分の勉強をするには、どうも集中可能度が足りなかったようだ。

 なんとも締まらぬことになったが、来年もまだやる気が残っていれば、あらためて、だな。

 

驟雨(しゅうう)の小江戸

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 同郷の先輩であるHさんに誘われ、小江戸こと川越を見物することにした。

 まったく下調べなどせずに訪ねたのだが、偶々(たまたま)川越百万灯夏祭り」というイベントが行われており、大変な人出だった。

 昼過ぎ、本川越駅に着き、Hさんと落ち合った。

 Hさんは街づくりなどに関わるコンサルティングを手掛けようとしており、近年ますます活気を盛んにする川越市に、他の街々にも応用できるモデルケースを見出そうということらしい。

 川越観光には東武東上線川越市駅か、西武新宿線本川越(ほんかわごえ)駅を使うといい。西武本川越なら駅から出てそのまま北へ(そぞろ)ろ歩けば、これでもう楽しい観光である。今日は祭礼日ということで、駅前から露店が多く並び、美味しそうな匂いがしている。

 繁華街の寿司屋で一杯やりつつ、盛り込みなどを(つま)む。

 Hさんは何度か川越を訪れており、目抜き通りは既にもう観光したことがあるということで、今回の私たちは市街の東の方にある「川越大師・星野(せいや)喜多院(きたいん)」という古刹(こさつ)のほうへ先に向かった。

 ここは天台宗の名刹(めいさつ)で、有名なものが沢山ある。顕密相修の天台宗にあって、喜多院はどちらかというと「密建て」の寺であるようで、護摩供養や不動尊崇がなされている。

 なんといっても見どころは、往時江戸城から移築したという家光の書院や春日局の化粧部屋などで、これらが当時のままに保存展示され、しかも立ち入り可能であることは、文化財保護の観点から言って相当に大変なことだ。「放出大サービス」と言ってもよい。

 のんびりと境内を見、燈明を上げて(おろが)むなどするうち、折から黒ずんでいた空が怪しくなり、空気もにわかにむくむくと湿りを増す。しのつき出したなと見る間に、沛然(はいぜん)と降り始めた。

 これは天気予報で解ってはいたものの、街見物には少し残念ではある。しかし、雨宿りがてら、古刹の庭に面した渡り廊下の腰掛けに座り、名代の庭をゆっくりと眺める時間が思いがけず手に入った。

 見事な庭の古杉の陰、通奏低音のような雨音に蝉が(にじ)むように鳴くのが混じる。

 これはいい。

 Hさんと小一時間もそうして雑談と見物に興じたが、予報では2時間ほども降れば小やみになるはずだった雨はますます降りつのる。

 意を決し、傘をさして喜多院を出、蔵造りの名物通りの入り口、「札の辻」と言われるところまで行ってみることにした。

 雨だというのに、観光客は傘をさして楽しげに見物している。神輿や祭り囃子の賑わいも一向に衰えることを知らない。商店は店の前に露店を出していろいろと商っているが、売り子は雨にめげず声を張り上げて売っている。さすがは祭りだ。

 街づくりを命題とするHさんも、その賑わいの秘密に非常に関心を持っているようだ。

 名物の「時の鐘」の鐘楼の辺りに行ってみると、酒屋さんがある。ちょっと寄って、私たちも立ち飲みで、有名な「KOEDO」というクラフトビールを一杯やった。

 そうするうち、丁度17時になり、時の鐘が鳴り始めた。これは面白い。現代らしく、何か自動仕掛けで定時に鳴るようだ。

 (そぞ)ろ歩いて、土産物屋などを冷やかす。刃物商があって、おっさん二人はハードウェアが好きなものだから、そこでもだいぶ時間を潰した。その割には何も買わずで、店主さんごめんなさい(笑)。

 その刃物商の2階が「開運亭」という食べ物屋さんになっている。そこへ上がってつまみ物などとり、もう一杯、「KOEDO」を飲む。

 「札の辻」まで引き返し、その近くにある「旭湯」という古い銭湯でひとっ風呂浴びる。

 Hさんは「仕事を見つけるには、やはり、根気よく人に会わなければならない」という。Hさん自身は4年ほどをかけ、街づくりの仕事に巡り合ったのだそうである。なかなかそのまま真似のできることではないが、それもひとつあるのだろうと思う。

 私が行政書士の勉強をしているのを知っているHさんは、「色々な街づくりをしている人たちが、地域ごと、いわば『街づくり会社』のようなものを組織している。こういう人たちはしかし、補助金の申請などを面倒臭がってやらない。そういうところに、許認可申請などの『書士ニーズ』が伏在している」というヒントを下さった。

 22時ごろまでそうしてHさんと話し、別れた。雨は小やみになり、越谷に着く頃には止んだ。

 一日、面白く過ごすことができた。

行政書士の勉強

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 普段忙しく、とりかかっている「行政書士」の資格試験も、なかなか勉強する暇がない。

 それでも、やっとこさっとこ、「憲法」のテキストをおしまいにして、今度は「民法」のテキストの勉強に入った。

 民法は条文が多く、とてものことに歯が立たないような気がする。それでも、おっかなびっくり、テキストを読み進める。

 ややこしい。聞いたこともない言葉も多い。

 「無権代理」だなんて言葉もある。こんな言葉は初めて聞いた。

 読み進めていくと、無権代理について、こんな判例もあった。連帯保証契約の無権代理の追認を父に拒絶された男が、父の死により追認拒絶をも相続してしまった。ところがこの男も死んでしまい、その子が色々まとめて相続した。死んだ男に金を貸した人が子に連帯債務の履行を迫ったが、この場合どうなる?……というのだ。

 これは、ややこしくも有名な判例だそうだ。

阿呆(アホ)のような(いと)おしい日

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 とても梅雨などとは思えないような青い空が広がり、涼しくはないにもせよ、なにやら明るい気持ちにもなろうという一日だった。

 駅ナカのスターバックスでコーヒーを飲む。行きつけの床屋「ET」へ行き、美しい店長さんと雑談などしつつ、髪の毛をうんと短く刈り込んで貰う。それから図書館へ行って借り出していた本を返し、ついでに机に座り込んで行政書士の教科書を読み(ふけ)る。昼14時にもなってから電車で街中へ出る。昼めしを食わなければならないのだけれど、つい「磯丸水産」なんてところへ入ってしまう。もうなんだかどうでもよくなってきて、399円の(まぐろ)の刺し盛と同じく399円の酒を注文する。税金入れても千円しないのだから、安いものだ。昼酒で酔っ払って、帰りの電車に乗る。暑い日だが、電車は冷房が効いていて涼しい。Bluetoothのヘッドフォンを着けてお気に入りの音楽など聴いていると睡魔が襲ってきて、つい眠り込んでしまう。ハッと気づくと南栗橋なんていう、日常縁のない駅に着いており、慌てて反対側ホームへ行って引き返す。

 そんな、言う人に言わせれば馬鹿野郎とでも言われかねない、まったく阿呆(アホ)のような(いと)おしい土曜日であった。

禁煙裁判の判例

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 行政書士の資格の勉強をはじめた。定年退職後家族ともども食っていくため、就職のせめてもの便(よすが)に、と考えたのだ。

 教科書をとりよせ、おっかなびっくり、イロハのイから開き始める。

 行政書士と言うと代書代筆がお家芸だから、さまざまな公文書式などを沢山覚えるのだろう、と思っていたらさにあらずで、「まず手始めは憲法から」となっていて、法律や判例をよく勉強しなければならないことを知った。これは虚を()かれた思いがする。

 そうしたわけで、教科書のはじめはものものしく「憲法・基礎法学」となっている。憲法の解説とともにさまざまな最高裁判例などが例示されているのだ。世間の事に物慣れない私にとっては珍しく感じられる判例も多い。

 その中に、右の写真のようなのがあった。

 未決の犯罪人が「拘置所で煙草を吸わせろ。吸わせないのは人権蹂躙だ!」と訴え、最高裁まで行ったという判例だ。

 いや、まじめな教科書のことなのだから、それにどうこう言ったって仕方がない。そういう裁判があり、そういう判決が出た、それが事実なのである。法学上、基本的人権と言うものが日本でどのように(とら)えられているかという、人権に関するさまざまな事実や判例を粛々と()、学習する、ということだとは思う。

 また、無論の事に、こんなバカバカしい訴えなど、敗訴に決まってはいて、教科書にもそう書かれている。だって、泥棒か詐欺師かは知らないが、ブタ箱(正確には拘置所)に放り込まれているような手合いが「煙草を()わせろ」ってゴネ回ったんだぜ?煙草なんか()えるわけねぇだろ馬鹿野郎。我慢しろそんなもん。何が裁判だ。

 ところが、こんな「煙草()わせろ」なんてことを、公器である裁判所を使って、それも、下級裁判所から最高裁判所まで上げたのだ。大変な浪費であり、こんなことにとりあわなければならない裁判官も弁護士も、誠に御苦労なことだ。

 はっきり言って、バカな裁判だ。

 こんなバカな訴訟に、真面目で優秀な裁判官や職員が何十人、いや、ひょっとすると百人以上もかかずらわされて、その人件費も含めたらどれだけ浪費されたか見当もつかぬ。

 何かと事あるごとに、「政治家の給料を減らせ」だなどというが、だったらこんなバカな訴えを起こす奴に公金を使うな、一発ビンタでも張って大韓民国の陸軍か、北朝鮮の労働教化所へでも払い渡してしまえ、と言いたい。というか、こういう手合いのせいで、人類の最高傑作「基本的人権」が物笑いの種になり、矮小化・卑小化されてそれを見直せなどという論が(まか)り通りかねない。