目線の高さを合わせる

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 子供に話しかけるなら、しゃがむなり、腰を(かが)めるなりして、子供の顔に目線の高さを合わせてやることが大切だ。子供も子供なりに人格を認められたと感じることだろう。

 難しいのは、「背伸びをしてこちらの高さに合わせようとしている子」の目線の高さに合わせることだ。背伸びをしなくていいようにこちらの目線を少し低くしてやると、子供は「バカにされている」と感じるし、かといって背伸びした高さに合わせると、つま先立ちの不安定さからやがて子供はよろめき、あるいは立ち転び・居転びしてしまうかもしれない。

 どの高さに目線を合わせてやるべきかは状況により様々であり、正解はないが、いずれにしてもこういう子供は慎重に扱ってやらなければならないことは確かだろう。

 が、時間が経てば、子供の背は伸びる。せいぜい20年で、対等に喋ることができるようになる。つまりは、単純に時間が必要なだけだ。

 ……言うまでもないが、上記は社会人における人間関係の例え話である。

「眼をそらす」考

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 かなり前のことだが、新聞でこんな話を読んだことがある。

 ある工学者が、ロボット研究の一環としてちょっとした玩具を作った。縦横に走り回るタイヤがついた一種のロボットで、十数個ほどが組になっている。ランダムに走り回るのだが、ロボットの前方にはCDSセルなどに類する受光素子が、後方にはLEDの発光器がついている。これをバラバラに走り回らせて放っておくと、他の個体の後ろにあるLEDを感知して追従し、次第次第に列をなし、しまいには十数個が自然に一列になってぐるぐる走り回る、というおもちゃである。

 どの個体も、機械的に同じように作られている。したがって、どう走らせようと列をなす順番はランダムになるはずである。ところが、なぜか、どうしても先頭になりやすい個体があり、何度も試して統計をとると、統計上無視すべからざる有意な傾きで、先頭になりやすいもの、2番目になりやすいもの、ビリになりやすいもの、と、電子的な機械なのに、癖が出てくるものなのだそうな。

 工学者はそのことがどうにも不可解なのでよく調べてみたという。

 原因は意外なところにあった。

 このロボットは、正面から向き合ったときに衝突するのを防ぐため、正面にも発光器をつけてあり、別の個体が正面から向かってくるのを衝突回避用の受光器が感知すると、必ず右に向きをそらせて走行するようになっていた。いわば「眼をそらす」ようにして、衝突を避けるしくみなのである。この「眼をそらす」動作に、ほんのごくわずかな工作加工上の差があり、個体によって回避動作がゼロコンマ何秒かづつ違うことがわかったという。このやや回避動作の遅いものは、自然直進しがちとなり、どうしても他の個体はこれに追従するようになる、その回避速度の差が、個体ごとに順序の癖となって現れていることがわかった、というのだ。

 この、かなり前に聞いた単純なおもちゃの話が、私にはどうも、我々人間様も、例えば 餓鬼大将の決まり方などに、似たような理由が作用しているように思えてならなかった。というのも、子供の頃の「先頭の奴」は、かならずしも優秀とか能力が高いとか言うわけではなく、また親切でもなく優しくもなかったように思うからだ。

 どちらかというと、「適度に鈍い奴」が先頭になっていた気がする。

 中学生くらいになって、ヤンキーの怖い奴の眼を見ると、

「『めんち』を切った」

…なぞと言って因縁を吹っ掛けられるので、触らぬ神にたたりなしと、私など弱小のその他大勢は、まともにヤンキーの眼など見なかったものである。ちなみに、この「めんち」というのは、関西弁の言い方だ。私は大阪出身なので、この言い方のオイシさにゾクゾクきてしまうが、関東の人などは「ガンをつける・飛ばす」などと言うのが普通だろう。

 さておき、それよりもう少し成長して、武道を学んだり、社会に出たりなどすると、

「相手の眼をよく見ろ、眼をそらすな、相手の気持ちもこちらの気持ちも眼に現れるのだ」

…なぞと(しつ)けられるようになる。素直な若者であった私も、こうした上司や先輩の教えをよく聞いて、人の眼を見るようになったものだが、これがまた、落とし穴なのだ。

 だんだんと実際の生活を送るようになればわかることだが、いつでもどこでも誰の眼でも、じっと睨み付ければそれでいいというものではないのである。

 上司などは、目下の部下を叱責などしているときに、じっと眼なんぞ見られると「コイツ、ふてぶてしい奴だ」と不快を覚える場合もある。あるいは、これも場合によるが、女性などは男にじっと眼を見られると、恐怖を覚えたりする。これは、顔が笑っていればそれでいいというものでもなく、笑っていようが真剣な顔であろうが、眼を見られれば不快なときには不快なのである。

 ある「面接試験の受験心得」のようなものを読んだことがある。それには、

「基本的には面接員の顔、特に眼を見るべきではある。しかし、面接員の眼をあんまり激しい視線でじっと見つめすぎると、人によっては不快を覚えたり、生意気な受験者だとの印象を与えてしまう場合もある。そこで、面接員の眼がみづらいな、と感じたら、自然に胸の辺りを見れば、それほどとがった印象を与えずにすむ」

…などと書かれていて、これはだいぶ世間というものをわかった人が書いたのだな、と思ったことがある。ただ、それはかなり古いテキストで、女性の面接官や面接員があまりいなかった時代だ。今だと、女性の胸などじろじろと見ていたら、それはそれで多少問題があり、どこを見たものか、なかなか難しい。

 なにしろ、「人の眼を見ろ!」なんてことを厳しく躾けるオッサンに限って、自分の眼を見つめられると怒り出す、なんていう笑えない一幕も世の中にはよくあるのであるから、生活と言うのはこれでなかなかどうして、微妙なものである。

 人と向き合うときに眼を見ることには、このように少しばかり気遣いが必要だが、街の雑踏などを歩いていて、向かってくる相手を見る、見ないということに、いろんな類型を見いだして興味深く思うことがある。

 例えば、「あ、このまま直進すると、向こうから来るあの人とぶつかるな」と気づいた際の行動だ。こうしたとき、

● 相手をよく見て、その出方で、こちらも避ける方向を決める。

という、ノーマルな行動をとる人がほとんどだと思う。だが、ありがちなことだがこの方法は、お互いに同じ方向に避けあって、2、3度タタラを踏んでしまう、という滑稽なシーンを現出させる。

 時々見かける、決して少なくはない類型に、

● ぶつかりそうだな、と思ったとたん、「えーっと」と、横や後ろに眼をそらしてしまい、そのまま直進する。

…という人がある。意外とこういう人は多い。こうなると、相手の方が「あ、あいつ、こっちを見てないな、しょうがない、俺が避けよう、やれやれ」と瞬時の判断で自然に避けるわけである。

 これはうまいやりかたのようでいて、どうも、快くはないやりかたである。時々、双方ともそういう行動をとって、ついにぶつかってしまい、双方がすんませんすんません、と謝りあっている光景などを駅で見かける。

 実はこの私も、一時期そんな癖がついてしまったことがある。ところが、あることがあってやめた。

 大人になってからなのだが、向こうから来た人にぶつかりそうになり、その頃のなんとはない癖で、ひょいと眼をそらして直進した。ところが、向こうから来た、金髪入れ墨のヤンキー兄ちゃんは、どうもじっと私を注視しながら直進を敢行したとおぼしく、どんとぶつかって、低い声で「コラ」と言ったものだ。

 その時には、あ、ごめんなさいで済んでしまい、特段トラブルにもならなかったのだが、自分の行動様式を見直した私は、この「眼そらし直進」をやめ、向こうの眼などを見て通行するようになった。そうすると、こちらが避けるにせよ、相手が避けるにせよ、意外に通行しやすいことがわかったのである。

 困るのは、この「眼そらし直進」を、自動車を運転中に、歩行者に対して実行する人物がいることだ。これはもう、ぶつかって「すんませんすんません」ではすまない危険極まるやりかたであるから、やめるべきである。自動車を運転しているときに「『めんち』を切った」なぞと中学生のような因縁をつける者などいないのであるから、どうか周囲の車や横断歩行者の動向をもれなく注視してもらいたいものである。

 私などには、実は別の悩みもある。どうも、私は裸眼のせいもあってか、「どこを見ているかわかりやすい」らしい。自分ではわからないのだが、つまり、視線に遠慮がないようなのである。

 雑踏などで向こうから来た若い女性が、私と眼が合うや、急に胸元をかきあわせたり、そわそわと自分の服装をチェックしたりすることが多く、なんでだろう、と思っていたのだが、どうも、私がじろじろ見るのがいけないらしい。そのため、昼間はおろか、真夜中にすら視線隠しのサングラスをかけるようになってしまった。私も見ず知らずの人に視姦魔扱いされて嫌われたいわけではないからである。

 とまれ、眼を見てみたり今度は逆にそらしてみたり、なかなか視線の置き所がないものだ。若い女が極端に短いデニムのパンツなどを穿いて白い脚をむき出しに組んでいたりするのを見ると「眼のやり場に困る」という慣用句を使いたくなるが、別段裸体の女性がいるわけでもないのに眼のやり場に困っている私は、まったく因果なことを気にしているな、とも思うのであった。