漫生活

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 (そぞ)ろ生活を楽しむ。林語堂の所説は、私にはぴたりと来るのである。

 記して、「漫生活」である。

 髪をモヒカン風に刈る。自分で刈るのだ。

 昨年、長年にわたりお気に入りの床屋だった「ファミリーカットサロンE.T.南越谷店」が業態替えして「mod’s hair men 南越谷南口店」としてリニューアルオープンしたのだが、同時に値段の方も倍以上となってしまい、それにもまして、私は美容院に行くような美青年ではなく(むし)汚中年、いや正確に書くなら「コ汚ねェ初老の親父(オヤジ)」なんであるから、もう、頭なんぞ自分で刈ってしまうことにしたわけである。自宅の物入れには愛用の電動バリカンがあり、これで刈っているわけだ。

 これはこれで、いっそスッキリして良い。

 本当は丸坊主にしたいのだが、妻が難色を示すので髪を残している。つまりこのモヒカン風の天辺(てっぺん)の髪は妻のための髪である。……ま、これがいわゆる愛、っちゅうかねェ、グフフ。

 早いうちにひと風呂浴び、汗を流す。

 曇、晴、また曇……と天気が入れ替わる。曇る時には季節らしい羊雲が出る。しばらくして窓外を見上げると、今度は真っ青な空がひろがっている。

 晩秋と初冬が好きだ。初冬は汗ばまず清潔である。古くから日本を悩ませる風水害も初冬にはようやくおさまる。ただ惜しむらくは花に乏しいことだろうか。しかし、月や鳥を見るにはこの時季がよい。

 一昨夜は十六夜の月が美しかった。旧暦九月十三日(今年は新暦10月11日)の「後の月」も、(さかのぼ)る同八月十五日(今年は新暦9月13日)も、実は天気の悪い日が多い。二百十日前後ともなれば(けだ)(むべ)なるかな、あまりいい月は見られないのだ。それに比べると新暦11月の月はだいたい良い。

 米国の天気のことはよく知らないが、この時期に萬鬼節(ハロウィーン)とて子供が夜遊びするというのも、この天気、この清涼、またこの良月のためであろうか。白人は日本人とは異なり、どういうわけか月を忌むが、むしろ月の魔性は初冬の時季の方が感じやすく、それゆえにこそ扮装を凝らしてお化けごっこを楽しむのだとすれば納得もゆく。

 アイスピックでカチワリを削り、日の高いうちから安いウィスキーを一杯。気取らずドップリ注ぐ。

 鍛冶屋の動画をのんびりと見る。楽しい。スウェーデンの人らしい。

 動画の中で、何か、「スウェーデンの盆踊り」みたいなことをして人々がのんびりと踊っているシーンや、動画作成者本人らしい人が広々とした湖にザンブと飛び込むシーンなどがそれとなく紛れ込ませてあり、見ていて休まる。

読書

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 平凡社の世界教養全集第2巻を読み終わった。

 今、収載の最後、フランスのモラリスト文学者、サント・ブーヴの「覚書と随想」を全部読み終わったところである。

 作品は当時のフランスの人物批評などが過半を占めるため、それら人物の作品や時代の空気を知らなければ殆ど意味不明である。勿論、私も登場する人物については、ごくわずかな人数と、その作品をひとつ知っているかどうか、という状況であった。

 この作品は、ちと口幅ったいかもしれないが、不肖・この私にして知らない言葉や漢字がたくさん出てきた。もちろん海外文学であるから、原著に難しい漢字が書かれているわけではないに決まっており、これは翻訳者の癖なのだろう。翻訳者は権守操一(明治41年(1908)~昭和47年(1972))というフランス文学者である。

言葉
齷齪(あくせく)

 「齷齪」。難しい漢字である。これで、「あくせく」だそうな。

誄辞(るいじ)

 「誄辞」。難しい漢字である。()みは「るいじ」で、これは「弔辞」「弔詞」とだいたい同じような意味である。「誄詞(るいし)」という言葉もあるそうだ。

 「誄」という漢字は、音読は「るい」だが訓読は「しのびごと」だそうである。

 貴人、国王とか皇帝とか、そういう地位の人の死へのおくやみに使う敬意の言葉である。

淬を入れる

 訓み方がさっぱりわからなかった。知らない言葉である。

 「淬」は音読みで「サイ」だそうだが、動詞として「ぐ」を送ると、これで「(にら)ぐ」と訓読するそうである。

 意味は鋼鉄に()きを入れることだそうで、そんなに難しい意味はないようだ。鍛冶屋で「ジュ~ッ!」とやる、アレである。

 この「淬を入れる」の前後のコンテキストは、

(平凡社世界教養全集第2巻(昭和37年(1962))「覚書と随想」(サント・ブーヴ)p.495より引用)

(前略)彼の精神は、さながら、淬を入れた鋼鉄に似ているが、しかし、その淬は少々強すぎるようだ。というのは、出来上がった剣は、何かを突き刺す度ごとに折れてしまうので、彼は、再び、剣を造り直さなければならないからだ。

 思うに、音読してみて「ニラを入れる」「そのニラは少々強すぎるようだ」と訓むのはなんだか変だし、さりとて、「サイを入れる」「そのサイは少々強すぎるようだ」というのもおかしいように思う。「ニラギを入れる」「そのニラギは少々強すぎるようだ」と訓むと近いような感じだが、あまり聞きなれない。

 ここは「(やき)を入れる」「その(やき)は少々強すぎるようだ」というふうに訓むのが自然であるように思う。……「(やき)」という訓みは、どこにも書かれてはいないのだけれども。

面紗(めんしゃ)

 「面紗(めんしゃ)」。洋装、特にウェディングドレス等の女の、あるいはイスラムの女の、顔を隠すヴェールのことである。


 さて、次は同じく平凡社世界教養全集第3巻、「愛と認識との出発/無心と言うこと/侏儒の言葉/人生論ノート/愛の無常について」である。前2巻は西洋哲学~フランス思想であったが、一転して倉田百三・鈴木大拙・芥川龍之介・三木清・亀井勝一郎と、日本の著者揃いである。