コッホと悦痴(エッチ)

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 今日の「Doodle」は、ローベルト・コッホ祝福、とある。明日12月11日がローベルト・コッホの生誕日であるかららしい。

 改めて言うまでもなく、コッホはドイツの医師であり、結核菌の発見者として知られる。だが、その赫々(かくかく)たる業績とは裏腹に、彼は最初から学者として約束されたレールを歩んだ人ではなかった。村の若い開業医として、彼にもまた、蹉跌(さてつ)し、迷い、求道する日々があった。それを乗り越えて、世界に燦然(さんぜん)と輝く微生物学の金字塔を打ち立てたのがコッホその人なのである。

 そうしたことを、私は子供の頃、ド・クライフの古典的名著「微生物を追う人々」で感動とともに知った。

 この本は、実は今でも私の愛読書で、大阪の実家から持ち出して手許に置いている。

 ISBNもない時代の本で、もはや「古書」の部類に入るから、改めて探しても手に入らないと思う。その代わり、岩波文庫から、「微生物の狩人」という題で、同じ原書の別の翻訳が出ている。翻訳者は同じ秋元寿恵夫という人なので、確かめてはいないけれども、題が違うだけで中身は同じなのかもしれない。

 この「微生物を追う人々」/「技術のあけぼの」の合本と、イリーンの「燈火の歴史」、ファラデーの「ろうそくの語る科学」と言ったところが小学生の頃の私の読み物だった。「燈火の歴史」は岩波の文庫本で読んだ記憶が強いのだが、今調べると「微生物を追う人々」と同じ平凡社の世界教養全集に「ろうそくの語る科学」と一緒に収められているから、多分両方を読んだのだと思う。

 子供の頃の私の実家は、今から思うと容赦もなく大人向けの本ばかり本棚に並んでいる家だった。大して裕福でもない割には、家族5人が(ひしめ)いて住んでいる6畳と4畳半の間取りに、ところも狭しと本棚が並んでいた。この40巻近くもある平凡社の世界教養全集もズラリと本棚に収められていた。そんな中に交じって、瀬戸内晴美の「妻と女の間」などというエロ本(まが)いの本や、野坂昭如の「エロ事師たち」だの筒井康隆の「アフリカの爆弾」などというナンセンス小説の類まで、臆面もなく雑然と並んでいたから、小学生の私はそれらを覗き読んで育ったのである。

 一体どういう奮発であったか、父は平凡社の世界大百科事典も全巻揃えて並べていた。当時の大人は、よく頒布(はんぷ)会で逐次刊行の全集ものを揃えたり、月賦(げっぷ)で百科事典など買ったりしたもののようで、私の父もそうしたうちの一人であったらしい。私はこの百科事典で人体解剖図を引き、女性の解剖図の裸体や性器付近の断面図を見て興奮するという、けしからぬ小学生であった。

 変な子供だったんですね、と言われるところだろう。実際そういう、大人の本ばかり読むような子供や友達は私の身の回りにはいなかったから、ある意味孤独でもあった。

 そんな私だから、小学校の性教育など受けるよりはるか以前の、小学校の3、4年生と言った頃から、生殖の秘密などとうに知悉(ちしつ)していたものであった。

 当時の小学校の性教育は、遠回しだったり、伏せられていたりする謎の部分が多く、そのくせ、高学年になり、先に女の子のほうへ性徴が訪れ始めると、生理や月経について教育しておくべき実際上の教育現場としての必要にせまられてか、女の子だけの「別建て授業」の性教育があったものだ。担任の先生が「今日は女子だけ集まりなさい」などと講堂へ女の子たちだけを連れて行き、男の子たちは適当に放置されるのである。

 そんな授業の後、男の子たちの間でちょっとした議論や論争が起こる。女子は一体何を習っておるのか、というのが焦点である。しかし、男の子たちだけで妄想の域を出ない推測や論争をしてみても決着するはずもなく、さりとて女の子に聞いてみたところで、皆フンと無視するか、せいぜい含羞(がんしゅう)の表情でプイとあっちへ逃げてしまうばかりで教えてなどくれない。

 (らち)が明かず、遂に意を決した代表の男の子、頭はいいのだがどうも子供じみた級長格、今現在この場の、センシティブな空気を読むことなぞ到底できそうもない、糞真面目で幅のない性格の何某(ナニガシ)君が、調子ッぱずれに顔を紅潮させ、

「先生、女の子だけで何を習ってるんですか、なんで僕らは()け者なんですか、なんの説明もなしに、女の子だけ不公平やないですか、納得いきません」

……などとしつこく問いただし、ウンザリした先生から

「ガキのくせにウルサイっちゅーねんっ、じゃかましいわアンタらッ!!」

と怒鳴りつけられたりするという一齣(ひとこま)もあった。

 そうした場面で、私はというと、小グループの真理探究派男子に対して排卵、子宮、性行為、男性の肉体とその果たす役割等々、小声かつ滔々と該博な性知識の一端を披歴に及んでいたものだから、この精密な知識が男子女子問わず子供たちの耳から口、口から耳へ、「佐藤君説」として伝播し、自分のお父さんやお母さんに「佐藤君がこんなん言うてるんやけど、ホンマか?」と確かめるような子もいたのだったかどうだったか。どうやらそれが本当の事らしいと判明し始めるや、児童生徒、また父兄の間においてさえ「佐藤君は物知りやけど、悦痴(エッチ)や」ということになってしまい、女の子たちからは「エロ野郎」ということに決めつけられていて、スカート(めく)り常習犯の前科もこれあり、サイテーな(さげす)まれ方をしていたのであった。

 そんな該博な性知識を持つにもかかわらず、あべこべに私の肉体は晩熟で、中学校の2年の終わりくらいまで「声変わり」がなく、発毛その他の性徴は更にその後、中学校3年にもなってからのことだったから、とても恥ずかしかった。回りの皆がニキビだらけになってむくれ返っている頃、私はいつまでたっても色白のプニプニ肌スベスベ()ッぺの痩せぎすで、これは大人になってもあまり変わらなかったが、そんな男らしくない自分がほとほと嫌であった。

 さて、話を読書に戻す。 

 私は頭はあまり良くないから、学問などには不向きで、中学校を出てさっさと給料取りになった。

 職場は、本を読もうなどと言う習慣のない男がほとんどの「DQN(ドキュソ)」職場である。だから、私はそこでも悶々鬱然と孤独であった。

 朝から晩までプライバシーもまったくない職場で、朝晩、仕事、眠っている間も常に上司・同僚・部下と起居しているから、余暇に変な本なんか拡げて読んでいるのを見られたりすると目立ち、「気取った嫌な野郎だ」ということになって標的となり、いじめられてしまいかねない。その頃周囲の者が読んでいたのはエロ本か漫画雑誌で、多少字を読む部類の者でも、せいぜいスポーツ新聞を広げるのが関の山であった。なので、私もその頃はよく漫画やエロ本を読んだ。無聊(ぶりょう)な時には煙草を()うぐらいしかすることがなかった。

 しばらく経って、私は当時の職場があった旭川市の郊外に一人でアパートを借りた。そこでは人目につくことなく、本当にたくさんの本が読めた。「IKコーポ」というそのアパートのことを懐かしく思い出す。また、その一室に自分の電話を引き、当時大きくなり始めたところだった「Nifty Serve」でパソコン通信を楽しんだことも懐かしい。

 そのアパートを借りていたのは20年以上前の事なのだが、Google MapsのStreet Viewで見ると今もまだある。もう行くこともないし、自分が借りていたあの部屋へ入ってみることなど絶対にないのだなあと思うと、少し感傷する。

言葉
孜々(しし)として

 「マキマキとして」とか「ボクボクとして」「マイマイとして」などと読む人がいそうで、実際そういう風に読んだ人がいたような覚えもあるが、これは「シシとして」である。

 普通は「孜々として勉学に取り組む」などというふうに使う。上掲の「微生物を追う人々」の111ページ、ローベルト・コッホの章の冒頭、前半生の学生時代の描写で

(上掲「微生物を追う人々」から引用)

 パストゥールが酢製造業の危機を救ってやったり、皇帝一族をびっくりさせたり、カイコの病気の原因をつきとめたりしていた1860年から1870年にかけてのあの驚天動地ともいうべき興奮にみちた年代に、ゲッチンゲン大学では一人の小がらなきまじめな近眼のドイツ人がドクトルを目指して孜々として勉学にいそしんでいた。彼の名はローベルト・コッホといった。

(下線筆者)

 
孜々汲々(ししきゅうきゅう)として取り組んだが、甲斐もなかった」という書き方にも使われるところからすると、「孜々として」というのは、どちらかというとポジティブなイメージの言葉ではなく、貧乏くさくコツコツと不器用にまじめにやるようなイメージだろう。

 「孜」という漢字そのものは、「子供を督励して勉強させる、努力させる」という意味らしい。つくりの「攵」というのは「攴」という漢字の異体字で、同じ漢字だそうだ。これは「ボク」と読み、擬音である。「孜」は「子供をポカッ(ボク)と殴って頑張らせる」という、今の私達からすると児童虐待と感じられてしまうような、オッソロシイ意味なのだそうな。……まあ、今と違って、昔は、子供と言うのは殴られるものと決まっていたので。

尊敬うんこ

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 「レーウェンフック 微生物 うんこ」というモノスゴイ検索キーワードで私のブログを見に来た人がいるのである。

 もとより、私はオランダの誇る科学者・アンソニー・ファン・レーウェンフックを大変尊敬しているのだが、「うんこ」は実にナイスなキーワードだ。負けを認めざるを得ない。

レーウェンフック伝

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 私はオランダの誇る科学者、レーウェンフックをとても尊敬している。

 微生物の発見者として名高いレーウェンフックの名は、正しくは「アントニー・ファン・レーウェンフック Antonie van Leeuwenhoek」という。今から400年近く前にオランダのデルフトで生まれた。ちなみに、同じ年、同じデルフトの街に、「真珠の耳飾の少女」で有名な画家のヨハネス・フェルメールが生まれている。

 レーウェンフックが生まれた1632年は日本でいうと江戸幕府がはじまったばかり、三代徳川家光の頃である。ヨーロッパでは清教徒がアメリカ大陸へ逃げ出しつつあった頃であろうか。

 また、レーウェンフックが生まれたオランダは、この頃鎖国をはじめた日本と、ヨーロッパでは唯一付き合いのあった国ということも覚えておかねばならない。

 オランダも世界の国々と同じく、都市に住む者が人と成るには、多くが「丁稚奉公」をしたものであった。レーウェンフックも16歳の頃、アムステルダムの布屋の丁稚になった。

 この丁稚奉公が彼の大学であった。

 釣りが足りない布の質がどうだ、値段が高い負けろ、あるいは商売と関係のない雑談、怒鳴りつける主人、意地悪な先輩の手代や同僚後輩、仲買人、オッサン、オバハン、当時目覚ましく躍進中のオランダ、その首都アムステルダムの、そういうやかましい誰彼を相手に彼もその時代の人と同じく苦労と修行をした。

 21歳の頃、何があったのかは今となってはわからないが、日本でいう「のれん分け」というようなことでもあったろうか、彼はアムステルダムの布屋をやめ、デルフトに戻って自分の店を持った。結婚し、子供ももうけた。当時のことだから、死別も含め、バツイチ、バツ2、くらいのことにもなったらしい。

 なにしろ後年世界的有名人になったとはいえ、この頃のレーウェンフックはまだ、ただの丁稚上がりの布屋に過ぎなかったから、記録はあまりないようだ。どうも布屋も畳んだらしく、市民会館の門番の親父(おやじ)になったという。

 ただ、洋の東西を問わず、後世の人間にとってありがたいことには、なぜかこの頃彼は「レンズ」にとりつかれてしまったのだ。

 この頃の「レンズ」というのは、どうやら特別なものであったようだ。今でいうと「IT機器」とか「ネットワーク」のように、なにやら知れぬ未知の世界への魅力を開くものであったのだ。惑星の表面、はるか宇宙の珍しい恒星、翻って生物、昆虫、こういう大から小にいたるあらゆるものをつまびらかにするレンズは、当時もっとも斬新で、魅力に富んだ、興奮を振起するものであった。

 要するにマニア、である。もっと言えば、「オタク」、かもしれない。いい年こいて、女房子供もいるのに、部屋にこもってはレンズばかり磨いている変なオッサン。彼の女房子供が、「ウチのお父さん、どうしちゃったんだろ……?」と、不安な面差しでそっと覗いているのが目に浮かぶようではないか。

 彼は質のよいガラスを炎で溶かしては、手指に火傷や火ぶくれをこしらえて「あちちち!」などと悲鳴を上げつつ、せっせとレンズを磨き、しかも一つでは飽き足らず、来る日も来る日も、これではダメだ、もっと見えるのを、とばかり、憑かれたようにレンズを磨いた。

 当時のレンズは、ガラス塊を砥石で削り、次第に目を細かくして、最後には布に磨き粉をつけて磨き、さらに磨きに磨くことを繰り返して作ったものだという。手技で磨き抜いて作ったのである。

 近所の細工師や鍛冶屋のもとへも通ったのであろう、磨き抜いたレンズを真鍮の枠にはめ込む技術も身につけ、精巧なネジや、調節機構を作る技も会得した。

 レンズを小さくすればするほど屈折率が強くなり、見(づら)くなる反面、微小なものを信じられないほど大きく見ることができるのを体得した彼は、またしても、これでは駄目だ、もっと小さく、もっと小さく……と、小さく小さくレンズを磨き減らしていった。そして、それをごく上等の枠金にはめ込んだ。

 ついにそのレンズは、直径わずか2ミリほどの、ガラスビーズのような、極端な曲面と精妙な細かさを持ったものとなった。

 単なるトンボ玉とか、ガラスビーズではない。レンズとして機能しなければならない。その曲面が、手技によってどれほどの精密度を持っていたか、想像するにあまりある。

 本業は布屋で、また門番である彼だ。つまりアマチュアだ。だが、当時既に世の中にあった「顕微鏡」を僭称して憚らぬものが、複数のレンズを組み合わせてなお40~50倍の倍率を得るのがせいぜいであったのに、レーウェンフックが磨き抜いた極小レンズは、覗くのに特別のコツは要したものの、なんと200倍を超える倍率を達成していた。単一のレンズだけで、である。他を遥かに圧倒し去っていた。

 彼は世界中で自分だけが手にすることのできた、自分だけのレンズで、おもしろおかしくあちらこちらを覗きまわった。昆虫の手足、調味料、酒、フケ、鼻くそ、歯くそ、花粉、池の水、雨水、ウンコ、腐った食い物……あらゆるもの、なんでもである。

 しまいにはセンズリをこいて、自分の精液まで見た。

 その結果は、推して知るべし、彼の名を永久に科学史にとどめることとなった。

 ただ、彼は、自分では学者であるなどとはまったく思っていない、単に世界で自分だけが手にすることのできた最高峰のレンズであちこちを覗きまわることを楽しみにしているアマチュアに過ぎなかったから、自分がどれほどのことを達成したのかもよくはわかっていなかったらしい。

 そんな自由な、自分だけが達成しえた高みにほほえましく満足しているレーウェンフックであったが、これほどの至高の業績は、やはり彼の信じるキリスト教の神が放っておかなかったものであろうか。

 どうも、デルフトの街には大変な人物が、自分ではそれと知らずに在野のままに埋もれているらしい。……そういう声望が先であったか、それとも、彼がみずから言上げをするのが先であったか。……それには諸説があるようだ。

 私が参照している底本では、レーウェンフックは微生物を発見したあまりの驚きのために、これは当時の学問の聖地、本場英国の学会へなんとしても報告せねばならぬ、と自ら手紙を書いた、ということになっている。当時オランダは発展中の国であるとは言っても、学問の本場はやはりイギリスである。かのニュートンもいる、イギリス王立協会こそ学問の中心なのだ。

 オランダ語の日常文章で、時候の挨拶からはじまって結びまで、長々とその手紙はしたためられてあったという。

 現代と強引な比較をしてみよう。現代、学術論文を英語で書かぬような学究は誰にも相手にされない。同じように、レーウェンフックが生きていた当時は、学術と言うものは「ラテン語」で書き表さねば、それは学問としての値打ちを認められなかった。今の英語のようなものだ。

 それを、天真爛漫、正直なアマチュアのレーウェンフックは、オランダ語の手紙で本場英国、王立協会に報告したのであった。

 だが、純朴なレーウェンフックは、嘘は決して書かなかった。そのゆえに、英国王立学会の人々はその手紙を認めたばかりか、貴重なものとして累積・整理し、後には「レーウェンフック全集」としてまとめ、またデルフトの彼のもとへ学者を派遣すらしている。

 彼は細菌の発見者、また精子の発見者として後年名を残したが、そのすべては彼が唯一知っている母国の言葉、オランダ語で長々と述べられていた。

 レーウェンフックは誠実の人であったから、観察には憶測をしなかった。見たまま、実験したままを重んじた。それは、若い頃の丁稚奉公で鍛え上げられた頑迷さでもあった。

 知らず身に着けた実証主義的な観察手法のゆえに、ついには王立協会員として貴顕の地位を得た。飽くことなく自慢の顕微鏡であちこちを覗いては、きわめて精密な報告をオランダ語の手紙で学会に上げ続けた。

 同い年の画家のフェルメールの遺産管財人をつとめたことが公的な記録に残っているという。その経緯までははっきりわからないらしいが、同じ街に生まれた同い年の、また当時から有名な二人であったから、なんらかのつながりはあったものと言われている。フェルメールが描いた有名な作品、「天文学者」「地理学者」の二つは、レーウェンフックがモデルなのではないか、と言われているのはこのようなことに由来するらしい。

 余談、フェルメールの「天文学者」は、絵の中でガウンのような「キモノ」を着ていることが見て取れる。これは、当時のオランダの大流行だったそうである。ヨーロッパで唯一日本と国交を持つオランダでは、「謎の国・日本」の珍品として着物がもてはやされたらしい。金持ちとスノッブな知識人は競って「キモノ」を着用に及んだそうで、この絵にもそれが描かれているのだ。独自に最先端の学問に到達しえたレーウェンフックも、もしかすると、そんな珍品を身に着けたものかも知れない。

 ともあれ、……。

 レーウェンフックは長命し、91歳まで生きた。死ぬまでその旺盛な「オタク的アマチュア精神」は衰えることがなく、また、まやかしの学問への批判精神は極めて軒昂かつ頑固で、ライデン大学の学究たちをやっつけること、痛快そのものであったそうである。