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 皐月(さつき)がたくさん花をつけた。だが、去年植え付けた時期の関係で剪定をしなかったせいか、内側に内側に花が咲き、あまり華やかな感じになっていない。今年はしっかり根付いているようだから、花が終わったら剪定の仕方を調べて、枝ぶりを整えよう。

 下に防草シートを施した砂利の隙間から、(やぶ)(がらし)“庭” の続きを読む

花、緑、街

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 通勤途上、皇居の外濠沿いに数多く植わっている桜の一つにふと目をやると、ほんの数輪から十輪ほど、咲き始めている。咲いているのはその一樹だけだが、他の木も蕾を大きく膨らませて、今にも咲きそうになっている。

 建ち並ぶマンションの植栽には躑躅(つつじ)皐月(さつき)が多く植えられているが、躑躅に一、二輪ほど咲いているものがあり、皐月も気の早いものがぽつりと一輪、赤く咲きかけている。こうしたマンション周囲の植栽は幅広く長く作られていて、その延々とした緑の帯の中に赤い躑躅が開いた様子は、鮮烈な色のインキをそこに垂らしたようで印象に残った。「万緑叢中紅一点 動人春色不須多」という。まさしくそのように思えた朝だったが、実は「万緑」は、日本では夏の季語である。

 勤務先にある桃色で八重咲、早咲きの特殊な品種の桜は満開と言ってよい程だ。その樹に()(じろ)が来たのを見た人もあった。場所によってはほぼ満開の桜もある。

 東京は世界屈指の大都会で、コンクリートジャングルなどとも言われる。しかし冷静によく周りを見ると、都行政のよろしきを得てか緑化には注意がよく払われており、至る所入念に街路樹や植栽が施されている。私の住む埼玉の住宅密集地などよりよほど緑は豊かだ。

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花壇上の段、左が皐月、右が白花(ジン)(チョウ)()。白い()入りは折鶴蘭(オリヅルラン)
下の段、折鶴蘭と赤花馬酔木(アセビ)。花壇の外の大きな葉は不食(クワズ)(イモ)

 庭に皐月(サツキ)を植えようと(かね)てから考えていた。

 先週そう思っていて、近所のホームセンター「ケイヨーデイツー」の園芸売り場へ行ったのだが、生憎(あいにく)なかった。

 しかし、今日行ったら置いてあった。品種は「(おお)(さかずき)」というそうだ。品札にそう書かれていた。

 花壇の左の奥に植えた。

 庭に植えたいと思っていた庭木の類は、これで全部である。あとは宿根草・多年草、一年草の類を少しだけ、気の向くまま植えようと思う。

読書

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 通勤路の(はな)皐月(さつき)が盛りだ。キュッと締まった(つぼみ)も赤々と(ほころ)びた花も美しい。歩くと初夏らしく汗ばむ。紫陽花(あじさい)はまだ盛りではないが、少し雨模様の日が増えつつあって、そろそろ梅雨かな、という感じもしてきた今日この頃である。

 蒸し暑く感じることが多くなり、冷たいものや酸っぱいものがしみじみと旨い。読書しつつ、冷酒を胡瓜(きゅうり)和布(わかめ)の酢の物でやっつけるのなど、大人の男の至福と言わずして他にどう言えようか。

 引き続き読み進めつつある約60年前の古書、平凡社の「世界教養全集」第8巻、2作収載のうち1作目の「論語物語」(下村湖人(こじん)著)を往路の通勤電車内で読み終わる。

 論語を題材にした二次創作、フィクションと言えば言えるが、基底にある論語は著者によってありのままに理解され、わかりやすく組み立て直されていながら、論語の魂は損なわれることなく見事な輝きを放っている。

 著者下村湖人は名作「次郎物語」の著者でもある。下村湖人の代表作はどれかと(ひと)()わば、「次郎物語」か、この「論語物語」かと論を二分するそうで、読者の幅広さで言えば「次郎物語」に、読者の深さに着眼すればこの「論語物語」に、それぞれ軍配が挙がるように感じられる。

 次は「聖書物語」(H.ヴァン・ルーン著)である。私は聖書については子供の頃から何度も読み、味わってきている。その聖書を、さながら前読「論語物語」のように噛み砕き、組み立て直したものと思えば多分間違いではあるまい。

 著者ヴァン・ルーン本人による「まえがき」をたった今読んだところであるが、ハナっから、なにかもう、ゾクッとするものを覚える。

読書

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 躑躅(つつじ)がすべて散り、(はな)皐月(さつき)が盛りである。時疫(じえき)最中(さなか)ではあるが、時間は静謐(せいひつ)に過ぎていく。

 引き続き約60年前の古書、平凡社の世界教養全集を読んでいる。

 第7巻「秋の日本/東の国から/日本その日その日/ニッポン/菊と刀」を先ほど読み終わった。

 この巻収載の最後の作品は「菊と刀――日本文化の型」(R.ベネディクト(Ruth Benedict)著)であった。

 戦時中に研究が始められ、終戦近くから戦後すぐにかけての時期に出版された本である。著者のベネディクト博士は対日戦のために日本研究を米国政府から委嘱され、見事な手腕で研究を完成させ、戦争に寄与加担した。

 この書は終始一貫して冷ややかな目線で論理が進められていく。日本人に対する素朴な尊敬などはそこに感じられず、あまり愉快な読書とは言えなかった。また、分析されている日本人像は、日本人からすれば既に今は存在しない日本人の姿であって現在からは到底想像もつかず、かつまた、記憶に残る古き良き日本人でもなく、あるいは記憶に残っていてもよほど極端な例ではないかと思われたり、色々と違和感があった。

 例えば日本人特有の「恩」「義理」「恥」について「それは欧米にない思考原理や感情である」と論じているところなど、確かに戦前戦後一貫した歴史をそのまま歩み続けている欧米諸国にとってはハナっから恩や義理や恥なんてものは存在していないのかもしれないが、今や恩知らずの不義理人ばかりが幅を利かせ、廉恥(れんち)の心など一掬(いっきく)だに持ち合わせなくなり、欧米人の悪質な劣化コピー人種に過ぎなくなってしまった現在の日本人にはまったく当てはまらず、逆に、この「菊と刀」を元に往時の日本人をリアルに想像することは難しい。

 また、部分によってあまりにも赤裸々に事実を指摘するのであるが、その指摘の仕方が冷笑的であり、不愉快でもあった。更に不愉快なことは、戦後すぐに書かれた巻末近く、まるで予言のように現在の日本の姿を言い当てていることだ。それがズバリと当たっているだけに、ウンザリとしてしまう。

気になった箇所
平凡社世界教養全集第7巻「秋の日本/東の国から/日本その日その日/ニッポン/菊と刀」のうち、「菊と刀」より引用。
他の<blockquote>タグ同じ。
p.402より

また軍隊では家がらではなくて、本人の実力次第で誰でも一兵卒から士官の階級まで出世することができた。これほど徹底して実力主義が実現された分野はほかにはなかった。軍隊はこの点で日本人の間で非常な評判をえたが、明らかにそれだけのことはあったのである。それはたしかに、新しくできた軍隊のための一般民衆の支持をうる最良の手段であった。軍隊は多くの点において民主的地ならしの役目を果たした。また多くの点において真の国民軍であった。他の大多数の国々においては、軍隊というものは現状を守るための強い力として頼りにされるのであるが、日本では軍隊は小農階級に同情を寄せ、この同情が再三再四、軍隊をして大金融資本家や産業資本家たちに対する抗議に立たしめたのである。

 上のあたりは、五・一五事件や二・二六事件などを抽象的に指している。

p.407より

 中国語にも日本語にも、英語の`obligation'(義務)を意味するさまざまな言葉がある。これらの言葉は完全な同意語ではなく、それぞれの語がもっている特殊の意味はとうてい文字通り英語に翻訳できない。なぜなら、それらの語の表現している観念はわれわれには未知のものであるからである。大から小にいたるまで、ある人の負っている債務のすべてをいい表わす`Obligation’にあたる言葉は「オン」(恩)である。日本の習慣ではこの言葉は`Obligation’`loyalty'(忠誠)から`kindness'(親切)や`love'(愛)にいたる、種々さまざまの言葉に英訳されるが、これらの言葉はいずれも、もとの言葉の意味をゆがめている。もし「恩」がほんとうに愛、あるいは義務を意味するものであるとするならば、日本人は「子どもに対する恩」ということもできるはずであるが、そういう語法は不可能である。またそれは忠誠を意味するものでもない。日本語では忠誠はいくつかの別な言葉で表現されるし、それらの忠誠を意味する言葉はけっして「恩」と同意語ではない。「恩」にはいろいろな用法があるが、それらの用法の全部に通じる意味は、人ができるだけの力を出して背負う負担、債務、重荷である。人は目上の者から恩を受ける。そして目上、あるいはすくなくとも自分と同等であることの明らかな人以外の人から恩を受ける行為は、不愉快な劣等感を与える。日本人が「私は某に恩をきる」というのは、「私は某に対する義務の負担を負っている」という意味である。そして彼らはこの債権者、この恩恵供与者を、彼らの「恩人」と呼ぶ。

 上の部分は、むしろ逆に、「欧米には『恩』という概念がないんだ」と私に教えてくれた。道理で、欧米化が進むほどに恩知らずが増えるわけである。また、上のベネディクト博士の指摘は正しいようにも感じられるが、「恩」というものが義務とか債務とか言った嫌なものとしてとらえられており、「恩」にはそういう嫌な側面もありつつ、「恩」というものが持つ、もっとあたたかい、しみじみとした安らぎや信頼が言い当てられていないところが片手落ちであり、欠点であると思われた。

p.515より

 日本が平和国家としてたちなおるにあたって利用することのできる日本の真の強みは、ある行動方針について、「あれは失敗に終わった」といい、それから後は、別な方向にその努力を傾けることのできる能力の中に存している。日本の倫理は、あれか、しからずんばこれの倫理である。彼らは戦争によって「ふさわしい位置」をかちえようとした。そうして敗れた。いまや彼らはその方針を捨て去ることができる。それはこれまでに受けてきたいっさいの訓練が、彼らを可能な方向転換に応じうる人間につくりあげているからである。もっと絶対主義な倫理をもつ国民ならば、われわれは主義のために戦っているのだ、という信念がなければならない。勝者に降伏したときには、彼らは、「われわれの敗北とともに正義は失われた」という。そして彼らの自尊心は、彼らがつぎの機会にこの「正義」に勝利をえさしめるように努力することを要求する。でなければ、胸を打って自分の罪を懺悔する。日本人はこのどちらをもする必要を感じない。対日戦勝日の五日後、まだアメリカ軍が一兵も日本に上陸していなかった当時に、東京の有力新聞である「毎日新聞」は、敗戦と、敗戦がもたらす政治的変化を論じつつ、「しかしながら、それはすべて、日本の窮極の救いのために役だった」ということができた。この論説は、日本が完全に敗れたということを、片時も忘れてはならない、と強調した。日本をまったく武力だけにもとづいてきずきあげようとした努力が、完全な失敗に帰したのであるからして、今後日本人は平和国家としての道を歩まねばならない、というのである。いま一つの有力な東京新聞である「朝日」もまた、同じ週間に、日本の近年の「軍事力の過信」を、日本の国内政策ならびに国際政策における「重大な誤謬」とし、「うるところあまりに少なく、失うところあまりにも大であった旧来の態度を捨て、国際協調と平和愛好とに根ざした新たな態度を採用せねばならない」と論じた。

p.519より

 ヨーロッパ、もしくはアジアのいかなる国でも、今後十年間軍備を整えない国は、軍備を整える国々を凌駕する可能性がある。というのはそういう国は国富を、健全な、かつ富み栄える経済をきずきあげるために用いることができるからである。日本は、もしも軍国化ということをその予算の中に含めないとすれば、そして、もしその気があるならば、遠からずみずからの繁栄のための準備をすることができるようになる。そして東洋の通商において、必要欠くべからざる国となることができるであろう。その経済を平和の利益のうえに立脚せしめ、国民の生活水準を高めることができるであろう。そのような平和な国となった日本は、世界の国々の間において、名誉ある地位を獲得することができるであろう。そしてアメリカは、今後もひきつづきその勢力を利用して、そのような計画を支持するならば、大きな助けを与えることができるであろう。

 最初に書いた「現在の日本をズバリと言い当てている箇所」というのが上の部分と、それに引き続く、ここには引用しなかった一連の部分である。引用しなかった部分には、東西冷戦とそれへの日本のかかわり方への危惧が予言されている。ウンザリとしながらも、同時に、東西冷戦など始まる前に出された論文なのに多くは正しく将来の日本を言い当てており、その超能力者めいた的中っぷりにゾクッとする。

 否、むしろ、ベネディクト博士の提言に合わせてアメリカが対日政策を形作ったから、当然そうなったのだろうか。

言葉
夙夜

 これで「夙夜(しゅくや)」と()む。「朝から晩まで」、ひいては「常々(つねづね)」というような文脈で使う言葉である。

下線太字は佐藤俊夫による。p.378より

大義ヲ八紘ニ宣揚シ坤輿ヲ一宇タラシムルハ実ニ皇祖皇宗ノ大訓ニシテ朕カ夙夜眷々措カサル所ナリ

警め

 「(いまし)め」と訓む。「戒め」と通用には書かれるようであるが、厳密には「戒」の用字だと「処罰する」意味合いが強く、「前もって注意しておく」意味に薄い。他方、「警め」は「警告」というような単語もあるところからも分かる通り、前もって注意しておく意味合いが強い。

p.460より、ルビは佐藤俊夫による。

「例(すくな)からぬものを深く(いまし)めでやはあるべき」

 次の読書は、引き続き同じ平凡社世界教養全集から、第8巻「論語物語/聖書物語」である。

酷暑トランプ

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 住宅密集地に住んでいる。この季節、外に出ると柿若葉が艶々(つやつや)として美しい。躑躅(つつじ)は完全に終わったが、花皐月(はなさつき)は満開、近所の家々の植栽も彩々(いろいろ)とりどりであり、多少汗ばむにもせよ、季節感横溢して楽しい。

 しかし、こう暑くては外出するにも片影(かたかげ)が恋しく、東西南北に道路の通った地元のこと、舗道を歩むにつけても、南に寄って建物の影を汗ばまぬようのろのろと歩くに()くはない。

 昨日はそうして、最近気に入りの蕎麦舗、最寄りの駅近く「SOBA 満月」へ蕎麦前の酒肴と、そのあとの蕎麦を手繰りに行ったことであった。

 それにしても、翌日、今日は異様な暑さである。北海道では5月と言うのに摂氏39度もの異常な気温を記録したという。これはむしろ災害と言ってよい。現地を案ずる。

 そんな中、米合衆国大統領ドナルド・トランプ閣下の来日だ。当然、国賓である。

 閣下は千葉でゴルフを堪能し、先ほどは国技館で大相撲の千秋楽を観覧、ひきつづき居酒屋で安倍首相と一杯やりつつ歓談の予定であるそうな。さぞかし「Too hot!」、否、「Extremely hot!!」とでも言いたかったことであろう。

 ネットを見ていると、トランプ大統領や大統領夫人の人格にケチをつけたり、大相撲観戦の仕方などにぐずぐずと文句をつけるような手合いが多少いるようだが、先ほど見たテレビの生画像では、国技館の観衆は米合衆国大統領を大歓声をもって迎え奉っており、日米関係は概ね良好に制御されつつあるようだ。

花を植えたい

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 このところ花を植えようなどという心のゆとりが持てなかったのだが、つつじ、さつき、それからさるすべりなど、木本性のものを植えたいなあ、と思うのであった。

 つつじやさつきは日本原産で育てやすく、挿し木でいくらでも殖やせるというが、何月頃にどうやってやるものか。NHKの園芸本でも買ってみるか。