上皇陛下御誕生日

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天皇陛下万歳

 本日は法律で定められた祝日ではないが、上皇陛下の御誕生日である。昨年まで祝日であったことは誰しも等しく知るところである。

 明治以降、天皇陛下の生誕日は「天長節」と唱え奉っていたが、大東亜戦争後「天皇誕生日」と呼ぶよう改められた。

 明治天皇の天長節は、崩御後「明治節」とされ、残ることとなった。また、明治節は戦後「文化の日」と名を改めて残ることとなった。

 大正天皇は御在位が短かったこともあってか、今は皇室以外では御誕生日が記念されていないのは誠に残念なことである。大正天皇の御誕生日は8月31日である。

 昭和天皇の御誕生日は「昭和の日」として記念されている。

 上皇陛下の御誕生日も、記念したいものである。私は一国民としてこれを願うものであるが、もし国が公式に上皇陛下の御誕生日を記念するのであれば、全国民的な請願運動がなければならない。

 天皇誕生日は英語では「National holiday of The Emperor’s birthday」とでも言うのだと思うが、上皇陛下の御誕生日は、「His Majesty the Emperor Emeritus’s birthday」とでもなるのであろうか。

改元・差別・多様性・測地系・カレンダー……

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 以前、GIS(空間情報システム)について深く考えていた時、「地球上のある一点」とか、あるいは「宇宙のある一点」を何らかの座標で表した時、現実の空間に存在するその地点はただ一つであるにもかかわらず、使用する座標系によって表現や数値が異なり、あたかも違う地点が複数存在するかのようになってしまうのは、何としてもどうにかしなければならない、と思った。

 その頃、ちょうど日本では「測地成果2000」という標準が行き渡り、明治時代からの伝統である「ベッセル楕円体」を使用した所謂(いわゆる)「日本測地系」の使用をやめ、国際標準の「GRS-80」にほぼ完全に切り替え終わっていたが、切り替わる前後しばらくの期間、旧ベッセル楕円体測地系と、新GRS-80測地系が混在し、地球の同じある一点を示すのに、複数の数値が混在していた。

 そこへ、GPSの普及、またこれを活用したカーナビの普及で、米国主導の座標系である「WGS-84」も混在して使用されるようになった。そのため、当時の情報システム内部では、旧日本測地系、GRS-80測地系、WGS-84測地系の三つの測地系を矛盾なく混在させて作動させる必要があった。

 プログラミング技術上では、例えばC++やJavaなどのオブジェクト指向言語なら、こうした事態を解決するため「座標」のクラスを作り、クラス内部ではいずれか適切な座標系で数値を保持させる。その数値は「プライベート」にして隠蔽し、クラス外からの直接操作はこれを禁ずる。「アクセッサ」のみを使用して座標を操作するのだ。そして、いずれの測地系を使用して値を入力しても、内部では必ず空間の一点のみを指す値に変換して保持し、また逆に、値を取り出す際には、いずれの測地系での値を要求しても正しく取り出し可能とする。

 こうしたふるまいをするクラスを作ることで、プログラム内部では混乱も矛盾もなく座標を扱えるようになる。無論、アメリカの旧測地系であるクラーク楕円体をはじめとして、世界中の測地系を詰め込んでクラスをデラックス化するのもよい。

 さて、こうしたことを思い出していて、日付についても似たようなことを考える。

 世界には多様な文化があり、そのため、「ある日ある時間」を表すにも、文化や地域によってさまざまな表し方が存在する。思いつくまま挙げるだけでも、例えば教祖イエス・キリストの生誕を基準とする西暦、ヨーロッパのグレゴリオ暦やユリウス暦、太陰暦を基本とするイスラム暦、同じ太陰暦でも中華文化圏で用いられてきた干支(かんし)を使用する日付表現、日本の元号や朝鮮、就中(なかんづく)北朝鮮の現在の革命年号、日の出・日の入りを基準とした不定時法など、様々だ。

 だが、どんな日付表現をしようが、科学的には「ある日ある時間」は、ただ一つである。

 一方、コンピュータシステムは人間を支えるものであって、人間がコンピュータに奉仕しているようでは本末転倒だ。コンピュータはあらゆる日付の表現ができ、かつ、あらゆる日付の表現を受け取ることができることこそ望ましい。世界中の多様な文化を矛盾なく受け()れ扱うことができてこそ、人間に奉仕するためのあるべきコンピュータシステムの姿であると言える。

 しかるに、現在のコンピュータシステムはその点が貧弱である。「建久二年辛亥(うるう)十二月(ついたち)」と入力しても、「1192年1月17日」と入力しても、はたまた「587年のズー・アルヒッジャの13日」と入力しても全てこれを許し、かつ、それが同じ日付を指しており、また逆に、どんな日付表現の出力を要求されようと、考え得る限りの多様さで人間にこれを返すようでなければならない。

 今このようなことを考える理由は、ただ一点、畏きあたりにおかせられて、近々まさに譲位あそばされんとし、恐れながら改元の沙汰もこれあることと考えられるからだ。

 改元であろうと何であろうと、人間に奉仕するべきコンピュータシステムは、これを平然と受け()れるものでなければならない。そこに多大のシステム保守作業があるなどもってのほかである。

 だが、現代のコンピュータシステムはそこが貧弱であるため、改元で右往左往しなければならないのだ。

 それどころか、コンピュータシステム運用上の煩雑さを理由として、元号制に反対したり、イスラム文化やアジアの文化を否定し、「西暦で統一すべき」などと、多様な文化を蔑んでそれでよしとする差別主義者がIT技術者にすら少なからず見受けられるのは、あまりにも残念である。

人間(にんげん)人間(じんかん)

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 新年にあたり妻がトイレのカレンダーを取り換えた。平日の朝など、トイレに入っていると日にちが気になることがあるもので、カレンダーを掛けておくと便利なのだ。

 新しいカレンダーは、格言、名言が週(めく)りになっている。百円ショップなどでよく見かける、特段珍しくもない商品だ。例年そういうものを選んでいる。その1ページ目、1月第1週に、「人間到る処青山あり」と書かれてある。それはいいのだが、振り仮名が振ってあって「人間(にんげん)到る処……」となっている。

 ああ、これは違う。

 これは人間(にんげん)()んでは駄目で、「人間(じんかん)」と訓むのだ。人間(にんげん)人間(じんかん)は違う。「人間(にんげん)」は単に人の事を言うが、「人間(じんかん)」とは多くの人間からなる世の中のことを言うものだ。社会と言ってもいいかも知れない。日本語には単数形・複数形の使い分けがないが、「人間(にんげん)」は単数形、「人間(じんかん)」は複数形に近い、とも言い得る。

 言わずと知れたことだが、この言葉の出どころは、幕末の僧・月性が(しい)した次の七言絶句である。

将東遊題壁

男兒立志出郷關
學若無成死不還
埋骨豈期墳墓地
人間到處有青山
(まさ)東遊(とうゆう)せんとして(へき)(だい)

男兒(だんじ)(こころざし)を立て郷關(ごうかん)()
(がく)()し成る無くんば死すとも(かえ)らず
骨を(うず)むる()に期せんや墳墓(ふんぼ)の地
人間(じんかん)到る(ところ)青山(せいざん)有り

(訓読 佐藤俊夫)


 この詩には幾つかの異伝があり、2句目を「學若無成死不還」ではなく「學若無成不復還(学()し成る無くんば(また)還らず)」としたり、3句目を「埋骨豈期墳墓地」ではなく「埋骨何期墳墓地(骨を埋むる何ぞ期せん墳墓の地)」としたりするものもある。真作がどうなのかは、どうもよくわからない、というのが正直なところらしい。

 「青山」は早く言えば墓地であることは言うまでもない。詩は死に場所を選ばぬ不退転の心、決意を表白(ひょうびゃく)している。

 若い頃は、この詩を読むと「古風だなあ」と感じたものだが、50歳になった今読むと、むしろ清新な、(きお)い立つ青春の香りを感じる。この詩を作った時の月性は27歳であったという。勤皇の志士、釈・月性もまだ若かったのだと思う。

六曜は差別だそうな

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○ 六曜カレンダー「差別につながる」と大分で配布中止 なぜ?

 いやー、これは、ナイわ~、……。

 馬鹿なこと言うよなァ……。こんなことしてたら、六曜だけじゃない、日月火水木金土の七曜だって、科学的根拠のない俗習だぜ?1年365日の某日の特定は「第1日」「第2日」って数えていきゃあ農業なんかの目安にはちゃーんとなるんだし、5日置きに2日休み、って決めれば「土日」なんて必要ないんだし。まあ、毎週日曜日にミサに出るキリスト教徒は困るんだろうけど、そんなの宗教上の理由じゃねえか、俺ら関係ねえだろ。クリスマスだって宗教上の節目で、差別なんじゃないの、六曜がダメなんだったら。盆踊りだってハロウィンだって正月だって、みんな差別だろ。

 だけど、七曜は、()るんだよ、みんなが使ってるから。クリスマスも非科学的で迷信だけど、でも、()るんだよ。盆踊りも正月も、差別じゃないし、必要なんだよ。ハロウィンだって、みんなで楽しくやってるんだろ?別にいいじゃん。俺はハロウィンは無視してるけど。

 だからやっぱり、六曜も、()るんだよ。