転記;生粋の右翼は武士道なんか嫌いだ

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 今朝、「私の先祖は百姓で、武士なんかではない、だから武士でもないクセに武士道武士道言う奴は嫌いだ」みたいなことを書いたが、それを転記しておきたい。


似非(エセ)武士

 あー、……。

 別の方向からだけど、実は私も、武士道武士道言うの、嫌いなんだよな。武士道武士道と連呼されると、へっ、何が武士だよ、……と鼻白んでしまうのだ。

 軍人勅諭を読んでいると、

以下引用、ルビは佐藤俊夫による。

……打續(うちつづ)ける昇平に()れて朝廷の政務も(ようやく)文弱に流れけれ()兵農おの()から(ふたつ)に分れ(いにしえ)の徴兵はいつとなく壯兵の姿に(かわ)り遂に武士となり兵馬の(けん)は一向に(その)武士()もの棟梁たる者に()し世の(みだれ)と共に政治の大權も(また)其手に落ち(おおよそ)七百年の間武家の政治とはなりぬ世の樣の移り換りて(かく)なれるは人力(ひとのちから)もて挽回す()きにあら()とはいひなから(かつ)(わが)國體(こくたい)に戻り且は我祖宗の御制(おんおきて)に背き奉り浅間(あさま)しき次第なりき……

 ……と、明治大帝が武士の世を「あさましき次第なりき」とまで言って嘆いていることがわかる。

 そういうわけで、私のような右翼は武士道なんか嫌なのである。だいたい、私の先祖は武士ではない。百姓だ。百姓がなんで武士道なんだ。知るかそんなもん、と言いたい。

 武士の方から見ても、武士の風上にも置けないという程度ならまだしも、ハナッから武士なんかではないヘナヘナしたカスみたいな連中が武士道だ武士道だ言うのは、武士に対する侮辱みたいなもので、迷惑だろう。


 だから、さ、なんだか流行の武士道が好きな人は、カタカナで「サムライ」って書くように――これを私は「カタカナザムライ」と名付けてみた――武士道も「ブシドー」って書いてもらいたい。

BUSHI(ブシ)DO(ドー)

……な? あんたらの大好きな、いわゆる国際社会に通用する、チャラチャラしたかっこよさげな字面になるだろ?

 俺か?俺はそんなモンには帰依しないよ。虚像だもの。中身のわからない虚像に拝跪(はいき)しろって、無理言うんじゃねぇよバカヤロー。

カタカナザムライ

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 カタカナで書く「サムライ」というのが、どうも嫌いだ。「サムライ」とカタカナ書きされている対象も、カタカナで書きたがるという現象も、ひっくるめて嫌いだ。

 私が嫌いなこの事象を「カタカナザムライ」とでも呼べばいいだろうか。

 武士は実際には硬直した官僚的統治機構の奉仕者だったのだ。むしろ欧米のほうでよく知られる時期の江戸時代末期の武士なんてものは本当にどうしようもないほど腐っていた。そんな「サムライ」を日本の代名詞みたいに使われるとムッとくる。

 新渡戸稲造の著述、その他によって米英に「Samurai」として広まった語が、かの地で理解された意味合いを包含して逆に日本に伝わったのだろうが、それを取り上げて、米英でも日本を代表する意識として「サムライ」が知られているのだ、どうだ!……とでも言いたげな、そんな屈折した、米英での理解と普及をおかずにしないと日本的観念が咀嚼できないという自分たちの自意識が嫌いだ。

 更に、日本は武士の国なんかではなかったのだ。実際には日本は農民の国である。実は武士なんか総人口に占める割合はほとんどなかった。冷静に言って、信頼のおける数字で、武士は総人口の7~8%、農民は76~83%とされている。これはもう、「日本は農民国だ」と言って間違いがない。さらに、武家政治より以前の上古において、農民は皇室側から「おおみたから」として逆に尊ばれていたことは、記紀万葉などにも記されてあるとおりだ。

 但し、江戸の武士の数は一説に50%ほどにも達していたと言われている。それは、幕府の在所であり、各藩の江戸屋敷も集中していたから、当然であろう。商家の奉公人を除いては、江戸の、正真正銘の意味での「サラリーマン」の代表が武士であったことを思うと、たまに長崎から来るオランダ人あたりに「サムライ」が日本の代表のように思われてしまっても仕方がないかもしれない。

 しかし、この頃の日本は鎖国していたから、武士が江戸にウヨウヨしているかどうかなんて米英にはわからないし、しかも「高潔なストイック集団」みたいな、「現代の『サムライ』理解ステレオタイプ」みたいな武士はこの頃の江戸にはいた筈もなく、いたのは江戸期の「サラリーマン武士」ばっかりである。今のサラリーマンと違うのは給料が米だということと、懲戒処分の中に、たまに「切腹」があることくらいである、とまで言うとちょっと極端だが。

 だから、武士が日本を代表する存在や意識であるかどうかなんて、米英に伝わるはずがない。ましてや、私たちの心や気持ちの基本が武士でなど、あるはずがない。

 つまり、カタカナで書く「サムライ」、カタカナザムライなんてものは、虚構であり、虚像である。根拠もない。何かの不始末でもあった時に、米国人に「お前はサムライではないのか!?」なんて諫められたとして、誰がうなずけるものか。「違うよ俺はファーマーだよ!」と胸を張って答えたほうがいいのではないか?