痩身(そうしん)パーシバル

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 大英帝国陸軍中将アーサー・パーシバル Arthur Ernest Percival と言うと、大東亜戦争(太平洋戦争)の緒戦、「マレー半島攻略作戦」で名将・山下奉文(ともゆき)と戦い、一敗(いっぱい)()(まみ)れた敗将として知る人ぞ知る。古い向きにはなおのことだと思う。右の動画は有名だから見たことのある人も多いはずだ。

 ただ、山下大将が「イエスか、ノーか!」と語気強く詰め寄り、パーシバルを屈服させたなどというのは相当な脚色で、本当のところは、通訳がうまく伝わらないことに加え、パーシバルも躊躇と逡巡から言を左右にして駆け引きをしようとする兆候があり、戦場だったこともあって、二人いた通訳に、「もう少ししっかりイエスかノーかを聞いてみてくれ」とつい声を大きくして指示したところを、「全軍総攻撃をチラつかせて語気鋭く机を叩いて恫喝した」というふうに報道されてしまった、というのが史実であるそうな。

 山岡荘八の「小説太平洋戦争」のマレー半島攻略戦のシーンなどでは、この貧相なパーシバルの、痩せた男性によくある頬骨の辺りのこけた影が黒ずんで見えるのを、「明らかに青痣だ」などと暴力をほのめかすような脚色が施してあり、おいおい、誤解されるだろ、……などと心配になってしまう。

 それはさておき。

 先日、同期生たちと「駒形どぜう」へ鍋をつつきに行った。全員同じ歳の同期生(50歳)だから、話題はいきおい、健康診断の数字がどうこうという話にも傾く。多少中性脂肪その他肥満方向の指標に難を自覚するO君と話すうち、

「しかし、パーシバルはなんであんなに痩せてたんかねえ」

……と、なぜか話題がそこへ向く。

「さあ、なんでだろ?なんで痩せてたかはよく知らんが、しかし、普通に痩せてる感じだろ」

「それにしても貧相だ。なんでかな」

「さあ~……?しかし、聞いた話だが、そもそもアジアの僻地の守備司令官で、イギリスも他の正面に比べるとそれほど重視してたわけでもないから、老齢で二流の人を配置したんじゃないか?だから、貧相で痩せた将軍ということになったんじゃないのかな」

「うーん、そうかなあ。……佐藤今度ちょっと調べてみてくれよ」

……とまあ、その話はそこで済んだ。

 ふとそのことを思い出し、パーシバルのことを少し渉猟(しょうりょう)してみた。

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 また、左の写真でいうと、英国側軍使たちは半ズボンを穿いているため、ただでさえスマートなジョンブルが、余計に脚がヒョロヒョロして見える。それで、餓えてでもいるかのような感じがするのだろう。実際、日本陸軍はシンガポール要塞攻略にあたり、重要な水源地を押さえることで勝利に結びつけたのが史実だが、そうは言うものの、英軍は物資や弾薬の備蓄も十分にあり、食料に不自由する状況ではなかったから——その有利な状況で降伏したことが後になって余計に悔しかったものとみえる——、飢餓や病気で痩せていたわけでもあるまい。

 ところで、そのことよりも驚いたのは、Wikipediaなどのパーシバルに関する記述に、

「士官学校を出ていない、2等兵から叩き上げで中将にまでなった人物である」

……とあることだ。

 貴族優越主義の英国で、これは非常に珍しいことだ。将校と言うものは、とりわけ将軍ともなれば、まず間違いなく貴族だからだ。ところがパーシバルは生え抜きの軍人でもなく、ましてや貴族などではない。もとは鉄鋼商店に勤めるサラリーマンであったという。

 ただ、同じWikipediaの英語版のほうを読んでみると、戦功を積み重ねた正真正銘の2等兵叩き上げ、というわけではないようだ。入営後、相当に優秀な人物だったのを嘱望されたらしく、5週間程度の教育で少尉にまでなっている。

 ただし、士官学校には行っていない、ということであり、その後、参謀大学に進んでいるとあるから、Wikipedia日本語版の記述は、多少大げさかもしれない。

 そうはいうものの、この「叩き上げ」というところになんとはない親しみを覚え、もう少し読んでみる。そうすると、このパーシバル将軍、アイルランドの弾圧などで勇名を馳せ、相手のアイルランド人からは蛇蝎のように嫌われ、何度も暗殺の対象となって命を狙われたのだという。

 それが、Wikipedia英語版の記述を借りれば「A Japanese officer present noted that he looked “pale, thin and tired”」(日本の将校団は、彼の様子を評して「薄汚れ、痩せて、困憊している」と記した)……と、あんなにも窶れ、憔悴しきった降伏会談になってしまったのだ。終戦までの間、捕虜として囚われた挙句、やっと帰国した後は「サー」の称号も与えられずに冷遇されたというのだから、なんだか気の毒ではある。

 しかし、それを過度に(おもんぱか)ったマッカーサーのやり口は、いかにも無礼・無粋で、品がない。後にフィリピン戦で敗れた山下大将の降伏会談に、戦争捕虜として囚われていたパーシバルを釈放させてフィリピンまで特別に呼びつけ、その見ている前で山下と署名を取り交わし、使ったペンの一本をパーシバルにやったというが、もしパーシバルの複雑な心中を思えば、そんなものを貰っても、嬉しくもクソもなかったのではなかろうか。

 また、山下大将が絞首になった際にも立ち会ったという話があるが、それで溜飲を下げて快哉を発するような品のないパーシバルでもなかったろう。

 後にミズーリ艦上での降伏文書調印にもパーシバルは呼びつけられて列席したという。日本側の捕虜だったパーシバルがそこに列席する根拠は特になく、本当に客寄せパンダ、巻き返し戦勝のシンボルみたいに使われたわけで、逆に気の毒と言うほかない。アメリカ人はよくあるアメリカ映画のように、劣勢を耐えに耐え、ついに怒って一発逆転、正義は勝つ!……という図式がよほど好きなものと見える。

 さてその後のパーシバルだが、大した言上げもせず、少し回想録を残す程度の余生を送った。あんなに貧相であったにもかかわらず、戦後は78歳まで生き、昭和41年(1966)に亡くなっている。当時としては比較的長命な部類だから、健康なほうだったのだろう。

水論(すいろん)と水掛け論

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 日本は瑞穂(みずほ)の国ともいわれるほどの米の特産地である。したがって米農業にかかわる俳句の季語は極めて多い。田植え時季だけに、今時分の季語も多岐にわたる。

 「水論(すいろん)」という季語がある。水喧嘩(みずげんか)水争(みずあらそい)水敵(みずがたき)……などと言った類語があり、どれも同じような意味の傍題だ。

 いずれも、今の時期、農民が自分の田により多くの水を引こうとして争い事になってしまうことをいう。「論」とは口争いの意である。

水論に勝ち来し妻と思はれず  清水越東子

 水論、という言葉はあまり聞き慣れないが、似た言葉で、「水掛け論」という言葉はよく耳にする。ごく一般的な会話でもよく使う。

 ところが、この「水掛け論」、内容は「水論」なのである。

 狂言に「水掛聟(みずかけむこ)」という演目があり、これは文字通り水論の(しゅうと)(むこ)が主人公だそうな。ついに婿が舅に水をかけるような争いを描写したものだという。この演目こそが「水掛け論」の語源であるそうな。

 「我田引水」という故事成語にもつながる。これもよく見聞きする言葉だ。

 しかし、よく使われる「水掛け論」や「我田引水」という言葉の意味は知っていても、その背景にある米農業の風景を季節感を伴って想起出来るような人は、もはや日本にはほとんどいないのではあるまいか。

 日本の米農業は、実はいまだにダグラス・マッカーサーの呪縛の下にあり、企業的経営が許されていない。それこそ、白人が45歳の酸いも甘いも嚙み分けた中年なら日本など未熟な12歳の少年に過ぎぬとこき下ろした暴政元帥の我田引水である。

 憲法改正論も尤も(もっとも)なことだとは思うが、これを振り回して国論を混乱させるのもいかがなものかと思う。オキュパイド・ジャパンの屈辱的悪弊を整理したいという精神的動機なら、農地に関すること、貿易に関することなど、他にも主体的に改正できること、手が付けられることが多くある。世の中でも「リーン・スタート」などという言葉が流行っている。大(なた)を振り回すのは一見男らしいが、出刃で繊細に刺身をつくるというのもまた渋い仕事であるということを(わきま)えておきたい。