読書

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 ぐずつく天気、なかなかスッキリとはしない日々である。今日も一日降ったり止んだりしたが、なに、季節らしいと思えば逆に美しくもある。

 引き続き通勤電車の中で、約60年前の古書、平凡社の世界教養全集を読んでいる。仕事帰りの通勤電車を降りる直前に、第9巻「基督教の起源/キリストの生涯/キリスト者の自由/信仰への苦悶/後世への最大遺物」のうち、二つ目の「キリストの生涯」(J・M・マリー John Middleton Murry 著、中橋一夫訳)を読み終わった。

 文字通りキリストことナザレのイエスの出生、ヨハネによる洗礼、修行、病者治療の奇跡、因習ユダヤ教への抵抗、布教、マグダラのマリアとのこと、最後の晩餐、磔刑、復活、そしてその後に至るまでを、年月を追って丹念に記述したものだ。共観福音書、すなわちマタイ(でん)、マルコ傳、ルカ傳の福音書それぞれと、ヨハネ傳の4つの福音書を中心にまとめ、理解してある。

 大正15年(1926)にイギリスで出版され、日本では昭和16年(1941)に翻訳出版されている。よい翻訳で、読みやすく平易簡潔な文体となっている。

気になった箇所
平凡社世界教養全集第9巻「基督教の起源/キリストの生涯/キリスト者の自由/信仰への苦悶/後世への最大遺物」のうち、「キリストの生涯」より引用。
他の<blockquote>タグ同じ。
p.185より

正義の神の奉仕者たるパリサイ人は、愛する神の子たるイエスをどうしても理解できなかったし、愛する神の子は正義の神の奉仕者をどうしても理解できなかった。しかし神の名において一方は人を殺し、一方は人を赦した。そこに相違がある。

p.228より

イエスの如き人物にとって重要なことは、想像力の序列と性質だけであって、想像力の扱う事柄ではない。彼は高等批評家がしばしば考えるような高等批評家ではなかった。彼は最高の人間――詩人、予言者、英雄であった。実際、最高の人間性を示す言葉で彼にあてはまらない言葉はないとおもう。これはイスラエルのことを語っているのか、メシヤの事を語っているのかという質問のような地上的な下らない疑惑が、イエスのような人の心にはいってくるはずはなかった。イエスはみずから予言者ではなかったのか、いな、予言者以上のものであった。予言者の言葉の意味は文字にあるのではなく、そこに輝いている神への認識にあったことをイエスが知らないはずがあろうか。「なんじゃもんじゃ教授」が読むようにイエスがイザヤ書第五三章を読んだのだろうか、そんなことはあるまい。神の計画の深奥な秘義として徹底的な敗北からの勝利、イザヤ書第五三章はイエスにはそういう意味なのであった。

 尚、「イザヤ書第五三章」とは、次の部分である。

「舊新約聖書 引照附」(ISBN4-8202-1007-6、日本聖書協会、昭和56年(1981)より引用。
但し、ルビは引用元の通りではなく、佐藤俊夫が取捨校訂し、
ルビのみ現代かなづかいにしてある。
また、節番号は省略した。)

 われらが(のぶ)るところを信ぜしものは(だれ)ぞや ヱホバの手はたれにあらはれしや かれは(しゅ)のまへに(めば)えのごとく (かわ)きたる土よりいづる樹株(こかぶ)のごとくそだちたり われらが見るべきうるはしき(すがた)なく うつくしき(かたち)はなく われらがしたふべき艶色(みばえ)なし かれは侮られて人にすてられ 悲哀(かなしみ)の人にして病患(なやみ)をしれり また(かお)をおほひて(さく)ることをせらるる者のごとく侮られたり われらも彼をたふとまざりき

 まことに彼はわれらの病患をおひ我儕(われら)のかなしみを(にな)へり (しか)るにわれら思へらく彼はせめられ神にうたれ苦しめらるるなりと 彼はわれらの(とが)のために(きずつ)けられ われらの不義のために(くだ)かれ みづから懲罰(こらしめ)をうけてわれらに平安(やすき)をあたふ そのうたれし(きず)によりてわれらは(いや)されたり われらはみな羊のごとく迷ひておのおの己が道にむかひゆけり 然るにヱホバはわれら(すべ)てのものの不義をかれのうへに(おき)たまへり

 彼はくるしめらるれどもみづから(へりく)だりて口をひらかず 屠場(ほふりば)にひかるる羔羊(こひつじ)の如く毛をきる者のまへにもだす羊の如くしてその口をひらかざりき かれは虐待(しいたげ)審判(さばき)とによりて取去(とりさら)れたり その()の人のうち(だれ)か彼が(いけ)るものの地より(たた)れしことを思ひたりしや 彼はわが民のとがの爲にうたれしなり その墓はあしき者とともに設けられたれど (しぬ)るときは(とめ)るものとともになれり かれは(あらび)をおこなはずその口には虚僞(いつわり)なかりき

 されどヱホバはかれを碎くことをよろこびて(これ)をなやましたまへり (かく)てかれの靈魂(たましい)とがの献物(そなえもの)をなすにいたらば彼その末をみるを得その日は永からん かつヱホバの(よろこ)(たま)ふことは彼の手によりて(さか)ゆべし かれは己がたましひの煩勞(いたづき)をみて(こころ)たらはん わが(ただ)しき(しもべ)はその知識によりておほく(おおく)の人を義とし又かれらの不義をおはん このゆゑに我かれをして(おおい)なるものとともに物をわかち(とら)しめん かれは強きものとともに掠物(えもの)をわかちとるべし 彼はおのが靈魂をかたぶけて死にいたらしめ(とが)あるものとともに(かぞ)へられたればなり 彼はおほくの人の罪をおひ愆あるものの爲にとりなしをなせり

p.240より

 イエスの教えの多くのかつ重大な誤解は、イエスが心と魂の変化をもとめたのにたいして、「悔い改め」をもとめたと考えることから起った。「悔い改め」ということは、要するに極端な罪の意識に主として基礎をおいている観念である。この「悔い改め」という言葉や特にこの言葉の背後にある意識は、イエスの思想や教えのなかにはじつは存在しなかった。

p.244より

愛というものはそれ自体、追及の対象となるものではない。事実、愛を追及などすれば、かならず虚偽がはいってくる。

言葉
翹望

 「翹望(ぎょうぼう)」と音読する。首を長くして待ち望むことを言う。

 「翹」には「もたげる」「挙げる」というような意味がある。

下線太字とルビは佐藤俊夫による。p.201より

どういう危険を冒しても、もう一度、家を見て、できれば町の人の心に訴えようという翹望であった。

 上の引用箇所は、生地ガリラヤ地方で民衆からそっぽを向かれてしまったイエスが、もう一度自分の生家付近を訪れようとしたところの描写である。

 次は三つ目、「キリスト者の自由」(M・ルター Martin Luther 著、田中理夫訳)である。