レンチ

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 腹切場(はらきりば)の温情がわからない、恥を知らん奴が増えたな、と思う。

 私の前任者もそうだったし、後任者もそうだ。

 先月の舛添何某にしても、自民党が「辞任までは求めない」と伝えた時点で意図を明察して自斉すべきであった。結局手足を押さえつけられて他人に十字腹を切られたようなものだ。

 甘やかされ、チヤホヤされてきたエリートにはそこのところがわからない。恥を知らぬことが責任を取ることだと(うそぶ)いて、他人に切られるまで地位にしがみつくのだ。

 今、この文章に「廉恥(れんち)」という表題をつけようと思って入力しようとすると、「レンチ」だのと出てきて、まったく変換候補が出てこない。このこと一事からも、もはや「恥を知る」ということは前時代的な感覚で、古臭く、それを信じることは許されないことなのだという何者かの意志が伝わってくる。

 恥を知ることを捨てよというわけだ。こんな受け入れがたいことでも受け入れなければならない、恥を知る弱者の悲哀というのは、なんなのだろう。

 恥を知らぬ輩を認めて称揚しないと、もはや普通に暮らしていくことも許されないのだ。恥を知らぬ者を受け入れよ、許せよとは。

 昔の人は恥というものを知っていた。

 恥を知らない。醜いことだと思う。小奇麗に身辺をとりつくろい、洒落たようなことだけ言って、とりすまして行動し、薄汚れた現実と向き合おうとしない。

 ああ、嫌だ。嫌な世の中になった。