伝えること、怒ること、伝わらないこと

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 行動なしに伝えるのは難しい。行動すべきと言っているのではない。世の中の(ほとん)どの伝達は、むしろ行動などなしに伝えることを要求される。だからなおのこと、伝えることは難しいのだ。行動さえできれば、簡単に伝わる。しかし、行動が禁じられているとなれば、隔靴掻痒(かっかそうよう)などとは言うも愚か、まず伝えるべきことは半分、いや四半分(しはんぶん)も伝わらぬ。

 巧詐(こうさ)拙誠(せっせい)()かず、とは言うものの、だが、伝えることには技術がある。そこに技術があるということをわからぬまま、誠実さを振り回そうとするから軋轢(あつれき)が生まれる。怒鳴ったり暴れたりしなければならなくなる。

 怒るのも技術のうち、と言ってしまえばまるで身も蓋もない。しかし、ある程度以上の年齢に達すると心底から怒るようなことができなくなってしまうから、年配の方々には、「怒る技術」という表現に同感して頂けると思う。加齢というのは残酷で、簡単には怒りなど湧かなくなってしまうものだからだ。

 最近は、何か、マネジメントの一環ということで、怒りをどのようにコントロールすればよいか考えるのが流行っているようだ。曰く、「アンガー・マネジメント」というのがそれだ。その内容はほぼ「怒らないためのテクニック」らしい。しかし、私に言わせれば、怒らないも何も、(ジジ)ィになってくると憤怒など湧いてこなくなってしまうのが普通だ。だから、怒らないためのテクニックに時間をかけるのなど無駄である。

 してみれば、腹を立てたくなければ歳をとりたまえ、ということになる。いずれ皆さんも、腹を立てようとしても腹なんか立たない、という境地に到達するだろう。腹を立てるのに苦労するようになってしまうのだ。怒らなければならないのだろうな、と言う局面で怒ることができなくなる。老成により衝動や感情が平板になってしまうのだ。これには、恐らく脳内物質の枯渇など、生理的・科学的な理由があるのだろう。老成には個人差があり、怒れなくなる年齢は人によって異なると思う。

 更に付け加えれば、加齢によって嫉妬なども感じなくなる。他人のことなどどうでもよくなってしまうのである。金持ちを見ても、出世頭を見ても、石か木のようにしか感じられなくなるのだ。「お前、アレ見て悔しいと思わないか?」などと言われても、「へ?」などとすっとぼけた声しか出なくなる。

 だがそれでも、社会の一員として、自分を駆り立てて怒らなければならない場面がある。怒りたくもないような局面で怒らなければならないのだ。そこに居合わせ、周囲を見渡して「あれっ、この場の『怒り役』は俺か」と気づいたりすると、正直言ってゲンナリする。実際のところ、全く腹など立っていないから、そういう場面は苦痛以外の何物でもない。

 そんな私だから、自分より年下の人が怒りをどのようにコントロールすべきか、なんてことを真剣に議論しているのを見聞きすると、ほほえましくすら感じるが、難しいのが自分より年上だったり同年配だったりする人の場合だ。星霜を経た人が怒りや嫉妬に悩まされているらしい様子は、何か病的に感じられることが多い。これは病的だな、と感じられるとき、大抵、相手は実際に病気だ。十中八九、程なく入院したり心療内科や精神科に通いだし、長期にわたって休んだりするのだから始末に悪い。

 さらに始末に悪いのは、そうした人を見て、私など、「これも明日は我が身だ」と同情しまうことだ。どうしても同情が先にあるから、メンタルなど病みそうもない健全な若い人たちが、病気になってしまった人を負担だと感じて批判しようとする、その若い人たちの痛みや怒りなど、私には心底からはわからない。つまり私もまた、脳の萎縮した、鬱病予備軍にほかならぬのだ。