本業

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【例え話】
 私は米農家の親父です。

 私の田んぼで働いている雇い人も何人かいますので、ともかく田を打ち、稲を植え、収穫を上げるのが本業だと自ら任じています。

 ですが、なかなか集中できません。子供の頃からそうなんですが、私の親も何を考えたのか、「幅広い国際人になることが今の世の中大切だ。大学入れ」などと言い、なんで農家の跡取りが大学に行くんじゃ、などと思いつつも勉強して大学に入りました。しかし、根が馬鹿ですから、特別に賢い大学に行けたわけでもなく、地方の私大を遊びながら中途半端に卒業し、結局は米農家になったわけです。大学は経済学部でしたが、大学で習うマルクス経済学なんぞ、田んぼを打つこととは何のかかわりもなく、意味はありません。

 それはそれとして、どうも年がら年中、農協の役員選出だとか、どこの息子を農協職員に雇うべきかとか、村議会の運営だとか、私にとってどうでもいい議論に忙殺され、本業の田植えや潅水、刈り取りと言った作業にとりかかることができません。それをやろうとすると、「この減反政策のさなか、何が田植えだ!やめてしまえそんなもの」と怒鳴りつけられ、米農業に集中できないわけです。

 そんな状況なのに、農協の副理事が「お前は米農家の誇りを忘れたのか、米を作れ」みたいなことをこれまた怒鳴りつけてきます。そうかと思えば「高付加価値の作物を作らん奴はバカだ、意識革命だ」みたいなことをまた(とが)った奴が言ってきて、イタリアの名産品種のトマトの植え付けを試せなどと言うので渋々それを試したのですが、結局全部枯れました。そりゃあ、日当たりも地質もイタリアとは違うんですから枯れますよそんなもの。愚痴を言ったら「お前がやったことだろ、自己責任だ」と言われました。大損です。なんなんでしょう。

 理念だとか信念だとか、そんなこと、どうだっていいんです。私は自分が米農家でありたいと望んだわけではなく、やりたいことをやっているわけではありません。ですが、それを悔やんでなどもおらず、つまり今は米農家なんです。それが私のなりわいです。米を作るよりほかにどうしようもないわけです。それが私の人生であり、任務なのです。

 そのように自分を納得させているし、人を雇い、食べていけるだけのサイクルだってきちんと回しているのに、田なんか打ったり刈り取ったりするわけでもない周りの人たちが「田んぼつくれ」「いややめろ」「そうじゃない、田んぼつくれ」「違う、これからの農家は改革だ、変われない者はバカだ」と私を怒鳴りつけては、そのくせ、農協の用事や村会の世話や、そんなものばかり持ち込み、もともとそんなのどうでもいい活動ですからうまくいくわけもなく、そのせいで近所の人々との関係も険悪になってしまいました。

 それで悩み、「私、どうしたらいいんでしょう?」と旧知の人に漏らしたら、「お前は何がしたいんだ!?人間は信念だ方針だ哲学だ!!」とこれまた詰問です。哲学て、ねえ(笑)。百姓になにが哲学ですか。

 なんで人間は本業をさげすむんですかね。私には農協の人が馬鹿に見えます。誠実に本業に励むことに、なんで哲学だとか改革だとか、歪んだ考えを持ち込まなけりゃならんのでしょうか。

 普通の人は、そこまで大げさにものを考えて生きてなんかいませんって。哲学だ改革だ言う側だって、実際は何も考えないで叫んでるだけなんじゃないですか?


 上記は私佐藤俊夫が妄想した例え話で、実際の農家の状況や農協の状況などとは何のかかわりもない。単なる文字列である。