読書

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  60年前の古書、平凡社世界教養全集第6巻「日本的性格/大和古寺風物誌/陰翳禮讃/無常といふ事/茶の本」のうち、谷崎潤一郎の「陰翳禮讃(いんえいらいさん)」を朝の通勤電車内で読み終わる。

 ひとつ前の収録作品「大和古寺風物誌」も非常によく私の体質に合い、読んで楽しかったが、こちらも非常に楽しかった。大和古寺風物誌は純粋な古寺古佛への信仰と美への讃仰(さんぎょう)、そして抒情に溢れた真面目な随筆であったが、この「陰翳禮讃(いんえいらいさん)」には少し砕けた、ふざけたところやユーモアが感じられ、さすがは小説家谷崎潤一郎、と思った次第である。評論家は正しい文章を書くが、小説家は楽しい文章を書くのだ。正しさは二の次であるに違いない。

 収録は標記の「陰翳禮讃」の他、「現代口語文の缺點(けってん)について」「半袖ものがたり」「厠のいろ〳〵」「旅のいろ〳〵」「顔のいろ〳〵」「所謂痴呆の藝術について」「雪」の計8作品が収められている。

 非常に多くのボリュームを割いて、昔の日本式便所への懐古と愛着を再度にわたって述べているところなど、それこそ読んでいて昔の旧家の厠のほのかな臭いまで漂ってきそうで、おもわずクスリと笑ってしまった。

気に入った箇所

 本作品には「われわれ」「いろいろ」といった言葉に、かつてよくあった「くの字点」の使用が多い。「くの字点」とは、縦組み活字に見られる次のような「繰り返し記号」のことである。

旅のいろ〳〵

あるいは、

顔のいろ〳〵

 縦組みだと上のようにそれほど違和感はないのだが、横組みにすると「旅のいろ〳〵」「顔のいろ〳〵」となり、どうにも収まりが悪い。しかし、原文にできるだけ忠実に写すため、やむを得ず以下の如くとなった。

平凡社世界教養全集第6巻「日本的性格/大和古寺風物誌/陰翳礼讃/無常という事/茶の本」のうち、「陰翳禮讃」から引用。
一部のルビを佐藤俊夫が補った。
他の<blockquote>タグ同じ。
p.313より

水洗式の場合は、自分で自分の落したものを厭でもハツキリ見ることになる。殊に西洋式の腰掛でなく、跨ぐやうにした日本式のでは、水を流すまでは直ぐ臀の下にとぐろを卷いてゐるのである。これは不消化物を食べた時など容易に發見することが出來て、保健の目的には叶ふけれども、考へて見れば不作法な話で、少くとも雲鬢花顔(うんびんかがん)の東洋式美人などには、かう云ふ便所へ這入つて貰ひたくない。やんごとない上臈などゝ云ふものは、自分のおゐどから出るものがどんな形をしてゐるか知らない方がよく、譃でも知らない振りをしてゐて貰ひたい。

p.314より

料理屋やお茶屋などで、臭氣止めに丁子を焚いてゐる家があるが、矢張厠は在來の樟腦かナフタリンを使つて厠らしい上品な匂をさせる程度に止め、あまり好い薰りのする香料を用ひない方がよい。でないと、白檀が花柳病の藥に用ひられてから一向有難味がなくなつたやうになるからである。丁子と云へば昔はなまめかしい連想を伴ふ香料であつたのに、そいつに厠の連想が結び着いてはおしまひである。丁子風呂などゝ云つたつて、誰も漬かる奴がなくなつてしまふ。私は丁子の香を愛するが故に、特に忠告する次第である。

 長谷川如是閑の文章の引用が出てきた。この巻の最初の収録作品は長谷川如是閑の「日本的性格」であった。

p.331より

「西洋人の顔にはどこか人間以外の(けだもの)臭い感じがある、眞に人間の顔らしい顔をしてゐるのは中國人である」――もとの言葉はわすれましたけれども、嘗てさう云ふ意味のことを長谷川如是閑さんが仰つしやつたことがございました。随分古いことで、ずうつと昔朝日新聞記者時代にお出しになつた「倫敦」と申す著書の中にあつたのではないかと存じますが、あれはまことに名言だと存じましたので、今以て時々思ひ出すことがございますので、何かの機會にもう何囘となく引用させていたゞいたことがございました。
昔は黄色人種の方が世界文明の中心であつた時代もあるやうに承つてをりますが、そのせゐかどうか中國人は勿論のことゝいたしまして、縁に繋がるわれ〳〵日本人たちも、少くとも容貌姿態の點に於て白人に劣つてゐるとは思へませんな。

p.346より

この間或る亞米利加の進駐軍の將校が、何の芝居であつたか歌舞伎の切腹の場面を見て、腹を切つてからあんなに長い間ものを云つてゐるのは可笑しい、と云つたと云ふ話を聞いたが、われ〳〵も幼年の頃、父母につれられて初めて舊劇を見た時分には等しく此のことを異様に感じたものであつた。たゞわれ〳〵はその後たび〳〵さう云ふ場面を、明治以來數々の名優の名演技に依つて繰返し見せられてゐるうちに、次第に歌舞伎とはさう云ふものだと思ひ込ませられ、それを訝しむ神經が麻痺してしまつたので、今日六代目の勘平などを見れば、訝しむどころか大いに感激するのであるが、たま〳〵外國人がさう云ふ感想を洩らすのを聞けば尤も至極に思ふばかりでなく、あの不自然さに氣がつかないで感心して見てゐるわれ〳〵日本人を、外人たちはどう思ふであらうかと、耻しくさへなるのである。

p.355より(地唄『雪』の引用)

花も雪もはらへば淸き袂かな、ほんにむかしのことよ、わが待つ人もわれを待ちけん、鴛鴦(をし)雄鳥(をとり)にもの思ひ()の、凍る(ふすま)に鳴く音はさぞな、さなきだに、心も遠き夜半の金、きくもさびしきひとり寢の、枕にひゞくあられのおとも、もしやといつそせきかねて、おつる涙のつらゝより、つらき命は惜しからねども、戀しき人は罪ふかく、思はぬ、ことの悲しさに、捨てた憂き、捨てた浮世の山かづら

p.356より

「この曲の合の手は一般の三味線に於いて雪とか冬とかを現はす場合必ず用ひられることになつてゐて、義太夫、江戸唄、江戸浄瑠璃の各流までこの手が取り入れられ、芝居や寄席曲藝手品の囃子に至るまで雪の手を使つて雪や冬の氣分を生かしてゐる」

p.356より

近代の人はとかく頭が論理的になつてゐるので、かういふ風な章句と章句とのあひだに幾分の間隔やズレのあるやうな詞章は作りにくく、どうしても理詰めなものになり易いのでそれだけ味のうすいものが出來てしまふ。

p.369より(地唄『殘月』の引用)

前びき磯邊の松に葉がくれて、沖の方へと入る月の、光や夢の世を早う、さめて眞如の明けき月の都にすむやらん手事五段今は()てだにおぼろ夜の、月日ばかりはめぐり來て

p.363より

私が特に聞きたいと思ふやうな曲は大概發賣されてゐない。

p.363より

私の妻はショパンの夜想曲の盤を懸けてはひとり涙を流してゐたが、私は「雪」を聞きながら又と歸らぬ日のことを思ひ、嵯峨や東山あたりの風物を空想しては時間を消した。

言葉
啻に

 これは、第4巻のうち、阿部次郎の「三太郎の日記 第一」を読んだときにも出てきた字で、これで「(ただ)に」と()む。

下線太字は佐藤俊夫による。
p.268より

私は前に、蒔繪と云ふものは暗い所で見て貰ふやうに作られてゐることを云つたが、かうしてみると、啻に蒔繪ばかりではない、織物などでも昔のものに金銀の糸がふんだんに使つてあるのは、同じ理由に基づくことが知れる。

罩める

 これで「()める」と訓む。「込める」と同じであるが、「込」には入り込む、集まる、というような意味があるのに対し、「罩」には鳥籠の「籠」と似たような、「かご」だとか、「入れ包む」というような意味がある。

p.269より

そして彼の手を見ながら、しば〳〵膝の上に置いた自分の手を省みた。そして彼の手がそんなにも美しく見えるのは、手頸から指先に至る微妙な(てのひら)の動かし方、獨特の技巧を罩めた指のさばきにも因るのであらうが、それにしても、その皮膚の色の、内部からぽうつと明りが射してゐるやうな光澤は、何處から來るのかと訝しみに打たれた。

孰方

 「孰方(どちら)」と訓む。古い書き方である。

p.278より

お月見の場合なんかはまあ孰方でもいゝけれども、待合、料理屋、旅館、ホテルなどが、一體に電燈を浪費し過ぎる。

翠巒

 「翠巒(すいらん)」である。「緑の山々」のことだ。「巒」という字は長くつながる山の峰々のことを言う。

p.278より

彼處は北向きの高臺に據つてゐて、比叡山や如意ケ嶽や黑谷の塔や森や東山一帶の翠巒を一眸のうちに集め、見るからすが〳〵しい氣持のする眺めであるが、それだけになほ惜しい。

邊陬

 また見たことも聞いたこともない言葉である。これは「邊陬(へんすう)」である。辺鄙(へんぴ)な片田舎のことだ。

p.284より

今でもよく、たとえば琉球とか、青森とか、邊陬の地から都會へ出て來る人たちは、教育のある者であればある程、「であります口調」や新聞雑誌の文體に近い口語體で、切り口上で物を云ふのはしば〳〵見受けるところである。

 見たこともない漢字で、IMEでは出すこともできなかった。これは音読みは「キョウ」だが、訓読みは「つえ」と訓む。

p.290より

……なほ西の國の歌枕見まほしとて、仁安三年の秋は、葦がちる難波を經て、須磨明石の浦ふく風を身にしめつも、行く行く讃岐の眞尾坂の林と云ふにしばらくを停む。……

ジニアス

 「genius」は「天才」だが、文脈では「雰囲気や特性、風潮、精神」というような意味で使用している。

p.295より

もと〳〵西洋と日本では言葉のジニアスが違ふのであるから、模倣したところで程度は知れたものである。

漁史

 「漁史(ぎょし)」は敬称で、雅号や文名につけるものだそうである。

 ところが、この「陰翳禮讃」でも「鷗外漁史」と、森鴎外を指してこの語を使っているが、各辞書類の例文なども、ほとんどが「鷗外漁史」を例として挙げており、どうも、森鷗外の他に使うところはないような感じである。

 「漁」には「あさる」の意、「史」には「ふびと」すなわち文筆家の意味がある。文筆に徹底する人、とでもいう意味となろうか。

p.295より

もしわれわれが西洋物を譯するのに直譯體に依らないで純然たる日本風の表現法を取るとしたら、むしろ原文より短((ママ))いくらゐになることは、鷗外漁史の「即興詩人」などを見ても分る。

吝む

 「(おし)む」である。「吝嗇(りんしょく)」と書いて「吝嗇(ケチ)」という訓み方もあるところからわかる通り、ケチることだ。

p.299より

久保田氏の方はそれと反對に、出來るだけ言葉を愼しみ、云はないで濟むことは成るたけ云はないやうにして、守錢奴が錢を吝むやうに一語一語を惜しみつゝ暗示的に使つてゐる。

垂んとする

 「タれんとする」ではない。これで「(なんな)んとする」と訓む。「なんなんとする」というのは音便で変化した言葉で、「なるなんとする」と同じ意味、つまり「まさしくそうなろうとする」というほどの意味になろうか。これに「垂」の字をあてるのは、「垂」には大地の果ての意があるというから、果てしないところにまさしく届こうとする、というような意味から転じてきたものであろうか。

p.315より

爾來二十有餘年に(なんな)んとするけれども、まだ此の英語は實地に應用する機會がない。

寔に

 「()に」である。「実に」と書いても、「じつに」「げに」の両方で訓めるが、「げに」と訓ませたいときは「じつに」との混同を避けるため、この「寔に」を書くべきではあろう。

 この字も、このブログでは、以前読んだ阿部次郎の「三太郎の日記 第一」の読書記録に出てきている。

p.316より

これは寔に矛盾した話で、たまたま泊りあはせた宿が大そう居心地がよかつたり……

慥に

 「(たしか)に」である。「慥」という字にはあわただしいとか急ごしらえとかいう意味があるが、日本に限って、「確実な」という意味があるのだという。

p.324より

成る程、大阪人は此の點に於いて東京人よりも慥にだらしがない。

苟くも

 「(いやし)くも」である。「(いやしく)も」と、「く」を送ったり送らなかったりするが、これは文脈によるだろう。

 「卑しくも」とはまるで意味が異なることは言わずもがなで、「苟」の字には「かりそめ」との訓みがあり、そこから「かりにも」「かりそめにも」といった意味合い、「いやしくも教師たるもの」というような、身分や地位にふさわしい規範が求められるような表現に使うものだ。

p.330より

苟も接客業者たるものはそのくらゐな用意があつて然るべきではないであらうか。

合邦

 読んで字のごとく、国が合併することであるが、ここでは義太夫節の「摂州(せっしゅう)合邦(がっぽうが)(つじ)」のことであるようだ。略して「合邦」というのだそうである。

 Youtubeあたりで演奏が見られないかと探してみたが、どうも見当たらないようだ。

 摂州合邦辻は歌舞伎の演目にもあり、中国のサイトで昭和31年に中村時蔵・芝雀によって演じられたもののモノクロ動画があることはある。歌舞伎の音曲(おんぎょく)方には、「竹本連中」などと称して出演する義太夫節の人たちは勿論のこと、長唄、常磐津、清元の人たちも錚々(そうそう)たる顔ぶれで出演する。とまれ、歌舞伎の動画を見ると、それでだいたい義太夫節「合邦」の雰囲気はわかる。

p.342より

全體的に見て合邦と云ふ義太夫がいかに馬鹿々々しいものであるかは、多分此れを聞いたことのある人は誰でも氣が付いてゐる筈であるが、しかし所謂痴呆の藝術のうちでも此れなぞは最も典型的なものであるから、今試みにその馬鹿々々しさの二三を指摘して見よう。

 それにしても、なんと散々な評し方であること。

読書

投稿日:

 引き続き60年前の古書、平凡社の世界教養全集を読んでいる。今は4冊目(第4)だ。収録著作は「三太郎の日記 第一」(阿部次郎)・「生活の発見」(林語堂・坂本勝訳)・「若き人々のために」(R.L.スティーヴンスン・橋本福夫訳)・「愛、愛より豊かなるもの」(J.シャルドンヌ・窪田般彌訳)の4つである。

 まず最初に、阿部次郎の「三太郎の日記 第一」を読み終わった。

 正直、あまり面白い読書ではなかった。理屈っぽく、ひねくりまわった文章と論理、難解な語彙、内容の()弱と懊悩(おうのう)ぶりも、私には合わなかった。

言葉
Es irrt der Mensch, solang er strebt.

 「エス・アー・デー・メンシュ、ゾラン・エー・シュトリッブツ」、内表紙の見返しにこれが書かれている。ゲーテの「ファウスト」に出る名文だそうな。

 曰く、「()に人や奮進(ふるひすす)む間は(つまづ)かざるを得ず。」(『ファウスト』前川文榮閣、高橋五郎訳(明治37年(1904)))だそうである。

 「人は努力する限り誤るもの」とでも言おうか。

(かん)零墨

 切れ切れの文章のかけら、とでも言うところか。

(『三太郎の日記 第一』(阿部次郎著、平凡社世界教養全集第4(昭和38年(1963))より引用。尚、難読の語には原文にないルビを佐藤俊夫が補った。他の『Blockquote』タグも特記しない限り同じ。)

……全体を通じてほとんど断翰零墨(だんかんれいぼく)のみであるが、いかなる断簡零墨もその時々の内生の思ひ出をともなつてゐないものはない。

 ここでは「翰」の字は「簡」と同じであるが、「翰」には鳥の羽で作った筆の意味があるのに対し、「簡」には竹をそいで作った札の意味がある。つまり、道具と媒体(メディア)、というほどの違いがある。

 昔は「書簡」よりも「書翰(しょかん)」という字の方がよく使われたが、「翰」は常用外の漢字でもあり、今はあまり見かけない。

()(あつ)

 「はばむ」ことである。

 ここで、「阻」ははばむ意味、「(あつ)」はとどめ、さえぎり、絶つ意味である。

……さうして自分は自分の内面的欲求が特にその()(あつ)さるる点において燃え立つことを経験した。

 しかし、「妨害される」とでも書けばいいところを、なんでまた「阻遏」と書くかねェ(苦笑)。古い著作であるせいか、全編を通じてこんな感じだ。

裨補(ひほ)

 助け補うことだ。

 「裨」には助ける意味の他、「小さい、いやしい」という意味もある。同じ助ける意味の漢字でも、「佐」「祐」の二つの漢字で言うと、「佐」の字に近いように思う。

  •  (漢字ペディア)

……もしこの書を貫く根本精神が多少なりとも生きてゐるならば、読者の胸中に、矛盾を正視しながら、しかもその中に活路を求むるの勇気を()(すゐ)する点において、幾分の裨補がない訳はないと思ふ。

蝕ふ

 これで「そこなう」と()む。

 「生活は生活をかみ、生命は生命を(そこな)ふ。……

フオルキュスの娘たち

……俺は今眼を失へるフオルキュスの娘たちのやうに、黄昏(たそが)れる荒野の中に自らの眼球を探し廻つてゐる。

 「フォルキュスの娘」というのはギリシャ神話に出てくる「蛇女ゴーゴン」のことなのだが、はてさて、ゴーゴンを含むフォルキュスの娘姉妹たちは、盲目だったのだったっけ、どうだっけ……。

 渉猟するうちWikipediaに、それかな、というギリシャ神話の筋を見つける。

 Wikipediaでのカナ表記は、「フオルキュス」ではなく「ポルキュース」となっている。

 しかし、阿部次郎が求道のことを、なぜグライアイに例えたのかはさっぱり不明である。ひょっとして、「ギリシャ神話の素養などをひけらかしてエエカッコしたかっただけ」なのではあるまいか。

ミネルヴァの(ふくろう)

……ヘーゲルは「ミネルヷの(ふくろふ)は夕暮に飛ぶ」と云つたと聞く。

 一般にはこの言葉、「ミネルヴァの(ふくろう)は迫り来る黄昏に飛び立つ die Eule der Minerva beginnt erst mit der einbrechenden Dämmerung ihren Flug」という一句として知られている。大哲学者ヘーゲルの「法の哲学」の序文にあるそうだ。

 いうまでもなく梟は夜行性の鳥だ。ミネルヴァの梟は知慧の象徴である。それが夕方飛び立つ、という例えで何を言いたいのかというと、自分が位置する今というのは知慧や思想の末期で、あらゆることは先哲が考えた後である。しかし、その末端に位置する「今」というこの時に、つまり「哲学の黄昏」であるこの今、まさに知慧は飛躍する、ミネルヴァの梟は飛び立つ、この時にあって、眠っていた哲学はより高みに飛び立つのだ。

 ……という意味だと、私は解釈した。

Für-sich・An-sich・Pessimismus

 この著作もそうだが、この「平凡社世界教養全集」、やたらとドイツ語の混ぜ書きをする衒学的(ペダンチック)な著作が多くて、読みにくくて困る。

 ドイツ語の「Sich」は英語の「Yourself」と同じと考えていいようだ。同じく「Für」は「For」である。また同じく「An」は「At」である。

 そういうわけで、「Für-sich(フー・ジッヒ)」は「自分自身のため」、「An-sich(アン・ジッヒ)」は「自分自身において」、つまり「自分自身」ということである。

Pessimismus(ペシミスムス)」は英語で「悲観論」である。

……Für-sichAn-sich を蚕食し陥没せしむるものと云ふことが事実ならば、しかしてこの事実を評価する者が俺のように An-sich純粋(、、)集中(、、)無意識(、、、)とを崇拝する者ならば、その者の哲学はつひに Pessimismus ならざるを得まい。

 「自分自身のためにすることが、自分自身を損なってしまうことがあるとすると残念なことだ」ということを言っているのだが、それを言うのになんでこんな書き方をするかねえ……。ま、私も人のことは言えんか(苦笑)。

コボルト

 「西洋小鬼」みたいなものか。

……嗚呼(あゝ)わが魂よ、コボルトのごとく(おど)(はね)れ。

レオパルヂ

 レオパルヂは覚え帳にかう云ふ意味の言葉を書いた。

 イタリアの文筆家で哲学者のジャコモ・レオパルディのことであろうか。

坌湧(ふんよう)

 これで「ふんゆう」ではなく「ふんよう」が正しい。

 「坌」という字は見慣れないが、これも「坌く」と書いて「わく」と訓む。よって、「わき、わくこと」が「坌湧」である。

  •  (Weblio辞書)

 自分が経験する思想の坌湧(ふんよう)は一尺ほれば湧いて来る雑水のやうなものであらう。

アスピレーション

 「aspiration 願望」である。

……疲れた親は活力に溢れた子供のアスピレーションに水をさす。

フモール

 英語の「ユーモア」のことである。

……「わが身を共に打掛(うちかけ)に、引纏(ひきまと)ひ寄せとんと寝て、抱付(だきつ)締寄(しめよ)せ」泣いてゐる美しい夕霧の後には、皺くちやな人形つかひの手がまざ〳〵と見えてゐる。かくのごとき二重意識の呪を受けた者の世界は光も(やみ)である。狂熱も嘲笑である。悲壮も滑稽である。要するに一切(いっさい)フモールである。

 蛇足だが、今、上に本文を引用するとき、縦書きの「くの字点」を横書きにするのに、少し戸惑った。このこと、ネットでも少し議論があったようだ。

 縦書きなら、

まざ〳〵と見えてゐる。

……と、このように問題ないのだが、横書きにした途端、違和感が甚だしい。

沈湎(ちんめん)

 沈み、溺れることだが、どっちかというとネガティブな意味で使うようである。

 「湎」という字にも沈むという意味がある。

  •  (漢字ペディア)

 事実の改造に絶望する時、暫く三面の交渉を絶つて静かに一面の世界に沈湎(ちんめん)せむとする時、眼をそむくるの抽象は吾人の精神に揺籃(ようらん)の歌を唱ふの天使となるのである。

(たたず)

 「ぎょうにんべん」ではない。これで「(たたず)む」と()む。

  •  (Wiktionary)

……縁に(たゝず)みて庭を眺め虫を聴き、障子を開いて森に対し月を見るの便を主とするがごときは、すなはち内より見たる自然との抱合である。

()(へい)肆意(しい)

 「()(へい)」。「萍」という字は「うきくさ」と()む。意味を重ねて、文字通り「浮萍」とは浮き草のことである。

  •  浮萍(コトバンク)
  •  (漢字ペディア)

 「肆意」。「恣意」と同じ意味である。

 「肆」という字には「さらしものにする」という意味があり、そういう意味では例えば「書肆(しょし)」という言葉があるが、その意味は本を並べて見せている、というところから本屋のことを言うのである。しかし、「さらしものにする」という意味からは「(ほしいまま)」の意味も生じてきて、「肆意」と「恣意」は同じ意味になってくるのである。

  •  (漢字ペディア)

……嗚呼(あゝ)わが魂よ、汝融和抱合の歓喜を知らざる矮小なる者よ、汝根柢にいたらずして、浮萍のごとく動揺する迷妄の影よ、肆意(しい)にして貧弱なる選択の上にその生を托する不安の子よ。

フレムト

 ドイツ語で「fremd」である。

……徹頭徹尾たゞ自己一身を挺して、端的に自然に面する者にあらざれば、真正に孤独を経験し、真正に自然の威力を経験することが出来まい。単身をもつてフレムトなる力の中に侵入して行く時、フレムトなる力の中に自己を没却してしかもその中に無限の親愛(フロイントシャフト)を開拓し行く時、((引用ママ))めて真正に自己の中に動く力の頼もしさを感ずるを得よう。

 外国の、とか、奇妙な、とか言う意味だが、ここでは「異質な」という意味で使われている。英語だと「strenge」である。

擺脱(はいだつ)

 「取り除いてしまうこと」である。「擺」という字は「く」を送って「(ひら)く」と()み、単に「ひらく」という時よりも、より強く「おしひらく」という意味がある。したがって、「擺脱」というのは、「おしひらき、取り去ってしまう」という意味である。

  •  擺脱(コトバンク)
  •  (漢字ペディア)

……彼らは畢竟(ひっきゃう)未練にすぎない。幻想にすぎない。この未練を擺脱(はいだつ)すれば、余は常に死に対して準備されてゐる。

二致あるを感じない・二致がない

 これがまた、実に込み入った、ややこしい表現である。

 「一致」という言葉を想起すればこの「二致」という言葉は分かり易い。すなわち、「一致」というのは言わずと知れた「一つの趣旨」のことだ。だから、符合することを「一致する」という。

 他方、「二致」というのは二つの趣旨のことだ。「一致」の反対である。

 そこで、「一致する」「二致しない」は、「逆×逆」で、だいたい同じ意味、ということになる。

 そうすると、「二致あるを感じない」というのは、「逆×逆」で、「一致があるのを感じる」という意味になる。同様に、「二致がない」というのは「一致がある」という意味となる。

……少なくとも純一なる主義、純一なる力をもつて自己の生活を一貫するを得ざる自らの迷妄を恥ぢざるを得ない。恋愛のために殉ずる人も、君主のために殉ずる人も、自分の不純を(むちう)つにおいては二致あるを感じないのである。

……彼を自然とし(これ)を不自然とするは論者の誤謬である。いづれにしてもその半身を求める憧憬に二致がないから――

 しかしそれにしても、「自分の不純をむちうつのは同じことだ」と言えばいいのに、なんでまた「自分の不純を鞭つにおいては二致あるを感じないのである」なんて、ヒネクリ回した書き方をするかね、この著者は(苦笑)

コンゼクヱンツ・インコンゼクヱンツ

 この著作では「コンゼクヱンツ」というふうに、「エ」をかぎのある「ヱ」に書いている。

 「コンゼクエンツ konsequenz」。「結果」という意味である。ドイツ語だ。では「インコンゼクエンツ」が結果の逆で「過程」とでもいう意味かというと違っていて、「矛盾」である。

……彼はこの性質のために自分の思想的行動経験気分を検査して一々そのコンゼクヱンツ(たゞ)さなければ気がすまなかつた。さうしてそのコンゼクヱンツを検査することは常にインコンゼクヱンツを発見する結果に終つた。

Zweisamkeit

 「zweisamkeit ツワイザムカイト」。ドイツ語で「連帯」である。

 「両性」の生活においてもこの形而上的転換を経験し得た人は、換言すれば永遠の Zweisamkeit を刹那に経験し得た人は、この刹那の経験を説明するものとしてアリストファネスの神話的仮説を笑はないであらう。

窈深(ようしん)

 窈深(ようしん)。「奥深い」ということである。

 「窈」という字には「暗い奥のほう」、というような意味がある。奥だから、暗いわけだ。

  •  (漢字ペディア)

……差別された物と物とはまつはり合ひ、からみ合ひ、もつれ合ひ、とけあつて、最後に一つの窈深(えうしん)なるものに帰する。

 本文のルビは旧仮名で「えうしん」と振ってある。

菽麦(しゅくばく)を弁ぜざるもの

 菽麦の「菽」とは豆のことを言う。

  •  (漢字ペディア)

 で、そこへ「麦」であるから、「菽麦」というのは「豆と麦」のことである。

 「豆や麦を弁じない」というのだから、「食うのに困っている者」というような意味かな、と思ったら大違いで、「豆と麦の違いもわからないばか者」のことを「菽麦を弁ぜざるもの」というのだそうである。

 しかし、この意味からすると、読み方は「弁ず・弁ぜざるもの」というよりも、「(わきま)ふ・(わきま)へざるもの」と()んだ方があっている気がするのだが……。

……私は差別することを知らざるものの――祖先の用ゐ慣れた熟語を用ゐれば、菽麦(しゅくばく)を弁ぜざるものの――いはゆる「渾一観」を信ずることが出来ない。

(ただ)

 古臭い言い方・書き方、文語では「(ただ)に」「唯に」だが、もしこれを現代語で簡単に書けば「単に」である。文字が全然違うが、意味はピッタリ同じと考えてよい。

……しかしこれらのものを強調すると称して、創造の世界における差別の認識を、生命の発動における細部の滲透を、念頭に置かざるがごとき無内容の興奮に賛成することが出来ない。否、(たゞ)に賛成ができないばかりではなく、私は彼らのいはゆる「生命」、いはゆる「創造」、いはゆる「統一」の思想の内面的充実を疑ふ。

アレゴリー

 allegory。比喩・寓喩。要するに、例えである。

 ……かくのごとき自覚の下に描かれた絵画には、筆触と色彩と構図との虐殺があるのみである。()(まど)ひのシンボリズムとアレゴリーとがあるのみである。

 さて、次は珍しく中国の作家の作品である。(りん)語堂(ごどう)の「生活の発見」(坂本勝訳)だ。