玉簾(たますだれ)の花

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 千葉県での大停電など、記録的な被害を残した台風15号が過ぎた。一過後も暑熱が続いたが、2、3日を経てみると(そぞ)ろに寒さを覚えるほど涼しくなった。

 今の時季になると、折節路傍で見かける花があり、見かけるたび気になっている。

 その花の名を知らない。そこで写真を撮ってネットで調べてみた。

 この花は「玉簾(たますだれ)」というそうである。

 私の所有する歳時記には載っていない。未確認ではあるが、大きな歳時記には載っているようで、ネットで検索すると出てくる。

 どうやら夏の季語で、今は仲秋だから、当季ではない。

 英語で「レイン・リリー」と言い、直訳すると「雨百合(アメユリ)」となるが、これは文字通りひと雨ごとによく咲くからだそうである。「雨百合」とはいかにも切々たる情緒があって季語らしく感じられるが、残念ながら歳時記などにはこの名前では載っていないようだ。

 球根の花で、多少毒があり、放任でもよく育ち、咲くという。

 ……と、そこまで書いて、私も馬鹿である、去年の今頃、同じような記事をこのブログに書いているのであった。

 こうして調べ、記事まで書いたのすらもう既に忘れてしまっている。しかも、何年も前のことではない、たかだか去年のことである。

朧月夜(おぼろづきよ)朧月(おぼろづき)(おぼろ)

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 「朧月夜(おぼろづきよ)」・「朧月(おぼろづき)」・「(おぼろ)」という季語がある。

 三つとも似たような言葉であるが、あらためて歳時記を引いてみると、それぞれ別のものとして記載されている。

 以下それぞれ、「角川俳句大歳時記『春』」(ISBN978-4046210319)から引用した。

(p.50から)

朧月夜(おぼろづきよ)三春 (傍題 朧夜(おぼろよ))

■ 解説  ぼんやりとかすんだ春の月の夜。空気中の水蒸気によって月がほのかにぼやけて見えるさまは、春ならではの濃密な情緒を感じさせる。肌にさわる空気もなまぬるく、幻想的、官能的な雰囲気に満ちた季語であるだけに、()き過ぎにならないように作句上の工夫が必要となる。(藤原龍一郎)

(p.75から)

朧月(おぼろづき)三春 (傍題 月朧(つきおぼろ)淡月(たんげつ))

■ 解説  春月のなかでも特に朧にかすむ月をいう。あるいは地上の朧の濃くないときでも、この季節に多いヴェールのような薄雲の広がる夜には、雲を通して月は朧に見え、(かさ)がかかることも多い。いずれにしても、秋の澄み渡った空に皎々(こうこう)と照る月とは対照的に、滲んだ輪郭を以て重たげに昇るのが朧月である。湿り気を帯びた温かい夜気が辺りを包み、折しも咲く様々な花の芳香もあいまって、朧月には仰ぐ者の春愁を誘う趣がある。(正木ゆう子)

(p.76から)

(おぼろ)三春 (傍題 草朧(くさおぼろ)岩朧(いわおぼろ)谷朧(たにおぼろ)灯朧(ひおぼろ)鐘朧(かねおぼろ)朧影(おぼろかげ)庭朧(にわおぼろ)家朧(いえおぼろ)海朧(うみおぼろ)(おぼろ)めく)

■ 解説 春になって気温が上がると、上昇気流が活発になり、微細な水滴や埃が上昇して大気の見通しが悪くなる、というと身も蓋もないが、それを昼は霞といい、夜は朧とよべば、とたんに情緒を生む。ぼんやりとかすんだ夜気のなかでは、ものの輪郭も色も音もどこか奥床しく優しげで、そのために多分に気分を伴って使われることが多く、草朧、庭朧、鐘朧、海朧、谷朧などと美しくいう。語感も柔らかく、曖昧さをよしとする日本人の美意識にかなった言葉である。(正木ゆう子)

水論(すいろん)と水掛け論

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 日本は瑞穂(みずほ)の国ともいわれるほどの米の特産地である。したがって米農業にかかわる俳句の季語は極めて多い。田植え時季だけに、今時分の季語も多岐にわたる。

 「水論(すいろん)」という季語がある。水喧嘩(みずげんか)水争(みずあらそい)水敵(みずがたき)……などと言った類語があり、どれも同じような意味の傍題だ。

 いずれも、今の時期、農民が自分の田により多くの水を引こうとして争い事になってしまうことをいう。「論」とは口争いの意である。

水論に勝ち来し妻と思はれず  清水越東子

 水論、という言葉はあまり聞き慣れないが、似た言葉で、「水掛け論」という言葉はよく耳にする。ごく一般的な会話でもよく使う。

 ところが、この「水掛け論」、内容は「水論」なのである。

 狂言に「水掛聟(みずかけむこ)」という演目があり、これは文字通り水論の(しゅうと)(むこ)が主人公だそうな。ついに婿が舅に水をかけるような争いを描写したものだという。この演目こそが「水掛け論」の語源であるそうな。

 「我田引水」という故事成語にもつながる。これもよく見聞きする言葉だ。

 しかし、よく使われる「水掛け論」や「我田引水」という言葉の意味は知っていても、その背景にある米農業の風景を季節感を伴って想起出来るような人は、もはや日本にはほとんどいないのではあるまいか。

 日本の米農業は、実はいまだにダグラス・マッカーサーの呪縛の下にあり、企業的経営が許されていない。それこそ、白人が45歳の酸いも甘いも嚙み分けた中年なら日本など未熟な12歳の少年に過ぎぬとこき下ろした暴政元帥の我田引水である。

 憲法改正論も尤も(もっとも)なことだとは思うが、これを振り回して国論を混乱させるのもいかがなものかと思う。オキュパイド・ジャパンの屈辱的悪弊を整理したいという精神的動機なら、農地に関すること、貿易に関することなど、他にも主体的に改正できること、手が付けられることが多くある。世の中でも「リーン・スタート」などという言葉が流行っている。大(なた)を振り回すのは一見男らしいが、出刃で繊細に刺身をつくるというのもまた渋い仕事であるということを(わきま)えておきたい。