山形
私も一時、自宅のメールを便利に使うため、「fetchmail」を愛用していたものだ。エリック・レイモンドと言う人はこのfetchmail開発の中心人物だ。「伽藍とバザール」はその開発経緯からオープン・ソースの世界を魅力的に論ずる文で、当時は他の二つの重要な論文と併せて「オープンソース三部作」として
山形浩生氏はこれを翻訳した人だが、「Cathedral」という語を「伽藍」と訳出した言語感覚などに私はなんとはない親しみを覚えた。また、この人自身がインタビューしたリチャード・ストールマンとのインタビュー記事がどこかに載っていて、これも面白かった覚えがある。
そんな経緯で、私は山形浩生氏について、「オープンソースなどに詳しい人」「技術者」というようなぼんやりとした印象だけを持っていて、この人が有名な批評家であるということはあまり知らずにいた。
ある日、ぼんやりとネットを眺めていたら、この山形浩生氏が内田
○ その記事
○ その本
そこで、「反知性主義」という言葉をはじめて知った。
内田
恥ずかしながら学のない私は、「反知性主義」という言葉を知らなかった。知らぬぬまま、こんなことやあんなことを思いつき、自らこの反知性主義に近いものに達し、これを標榜していた、と言うことがわかった。
で、「反知性主義」という言葉は、ここでだいぶよじれている。
これも、山形浩生氏の文でなんとなく知ったのだが、一般に反知性主義というのは「バカ」という意味ではなく、ホフスタッターと言う人が書いた名著では、もう少しよじれた意味だそうだ。
○ ホフスタッターの本
なんとなく、アインシュタインの講演集の中にある、
「私たちは、知性を神格化しないように、十分注意しなければなりません。知性は、いうまでもなく強力な筋肉をもってはいますが、人格をもってはおりません。〔……〕知性は、方法や道具に対しては、鋭い鑑識眼をもってはいますが、目的や価値に関しては盲目です」
……というような認識から出発するやりかたを、反知性主義と言うようだ、とも感じた。
だから、「バカ」という意味ではない。ただし、山形浩生氏は『バーカ、という意味で使っても、これは全然オッケー』というふうにも書いている。山形浩生氏の書き方は幅が広くしてあり、「バーカ、という意味ではないし、バーカ、でもいいのだ」と言っているように私には見えた。
さて、山形浩生氏がケチョンケチョンにこきおろしている内田樹氏のほうでは、これをどうも、真逆に論じているらしい。内田樹氏は「自分の身体反応などに問うのを知性と言うのだ」と言っているらしいのだ。
そうすると、私は知性的と言うことになるな、ヒッヒッヒ。
ただ、私は自分の「身体反応」には問わない。そこまで刹那の感覚には頼らない。もう少し、内省的に「精神」、格好良く言うなら、「魂に問う」ようにしている。身体反応よりは遅いが、それでも、情報をわんさか集めるよりは速い。
だって、私の身体(身体の一部としての脳を含む)の主人は、私の魂だと思うから。