麻布十番 永坂更科 布屋太兵衛

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 国会図書館へ行き、調べものをした。ところが今日はなんだかブログ書きなどばかりしてしまい、あまり本は読めなかった。

 (ひる)過ぎまで図書館にいた。それから、また蕎麦屋に行くことにした。

 このところ習慣のようになってしまっている蕎麦屋通いだが、今日は麻布十番にある更科御三家のうちの、まだ行っていない一軒、標記の「麻布十番 永坂更科 布屋太兵衛」へ行って見ることにした。

 所謂(いわゆる)「更科の御三家」が(たむ)ろする麻布十番は、永田町からは南北線で3駅、すぐに行ける。

 麻布十番の駅に着いたら4番出口を出る。広い通りの反対側に顔を向けると、この店は駅の出口から見えるところにある。スターバックスの向かいにあるので、すぐにそれとわかるだろう。

img_4841 古い看板だがビルは新しい。麻布十番の更科御三家は、元祖は同じ布屋太兵衛だが、いろいろあって3店に分かれ、この「布屋太兵衛」は個人経営ではなく会社組織である。その辺りの事は以前にこのブログにも記してある。

(「新撰 蕎麦事典」(新島繁 編、平成2年(1990年)11月28日初版発行、(株)食品出版社)から引用)

さらしな 更科 更科の総本家は東京・麻布十番にある永坂更科。寛政2年(1790)に初代太兵衛(8代目清右衛門)が「信州更科蕎麦処 布屋太兵衛」の看板をかかげた。これよりさき寛延(1748~51)ごろ、すでに横山町甲州屋が「さらしなそば」、浅草並木町斧屋の「更科そば」のほか、店名の上に「信濃」「戸隠」「木曽」「寝覚」などを冠するほど信州ソバの名声が高かった。永坂更科の看板商品は一番粉を使った白い御前そばで、本店のほか神田錦町・銀座・有楽町更科などが身近かな系列店として知られる。更科の屋号は、更科そばが喧伝されて生まれた俗称であろう。現在麻布十番には、永坂更科布屋太兵衛(小林正児社長)、麻布永坂更科本店(馬場進社長)、更科堀井(8代目・堀井良造社長)の3店がある。

 入り口はピシリと格調高いが、躊躇なく暖簾をくぐってみる。入り口の閉め切った印象に比べ店内は広々として明るく、趣味が良い。店員さんもにこやかだ。14時頃に行ったから空いていた。

img_4842 蕎麦屋に入るといつもは焼海苔と酒などとるのだが、この店は蕎麦屋には珍しく焼海苔がないようなので、板わさをとる。

 品よく花形に盛られた山葵(わさび)が非常によく効く。醤油も旨い。蒲鉾は凝った造り身にしてあって、山葵と醤油がなじんで旨い。

 酒は黒松白鷹の()や。板わさの楽しい歯応え、醤油の塩辛さと山葵の香気を楽しみつつ、ガラスの杯に注いでは交々(こもごも)口に運ぶ。

img_4843 一杯ほど酒の残っている頃おい、「御膳そば」をたのむ。この店も含め、名代(なだい)の「更科蕎麦」の特徴は、蕎麦の実の芯の粉を打った白く(しなや)かなところにある。

 飲みかつ蕎麦を注文するなどしているうち、隣席に白人の夫婦が来た。最近、東京で蕎麦を手繰っていると、10回に7回は隣席に白人が座る印象がある。旨い蕎麦を大いに楽しんでもらいたいが、彼らはこちらが蕎麦を正しく「ずずず~っ……」と啜ると下品だなんだと抗議し始めるので迷惑だ。

 だが今回の場合、運良くと言うか運悪くというか、彼らのほうが先に、閑静な店内をものともせずビデオチャットでやかましく親戚と喋りはじめ、「お互いおあいこ」になった。それでこっちも遠慮なく蕎麦を勢いよく啜り込むことができた次第だ。

 蕎麦(つゆ)には「あま(つゆ)」と「から(つゆ)」の2種類がついてきた。藪、砂場、また他の更科でも見たことのない方式だ。店員さんによると、「足し合わせてお好みの味でお召し上がりください」とのことである。

 あま汁は出汁(だし)と酒が効き、なおかつ濃く、旨い。またから汁もくっきりとした味で、どちらも捨てがたい。蕎麦猪口(そばちょこ)に少しずつとって、かわるがわる味わうことにした。

 ほのかな香りと(しなや)かな喉ごし。だが意外な歯ごたえも感じる。先日行った「更科堀井」と違った歯応えがあるように思った。同じ「麻布永坂更科」の一系でもこういうふうに違うんだな、とも思った。

 蕎麦の薬味の山葵がとてもよく効き、旨かった。

img_4845 蕎麦湯は濃からず薄からず、誠に中正で、あま汁とから汁を交互に差して楽しむことができた。

黒松白鷹 1合 816円
板わさ 924円
御膳そば 945円
合計 2,685円

 値段の方は、最近手繰(たぐ)った蕎麦の中では最も高い部類に入る。

 そうは言うものの、払えぬという程高いわけでもなく、誠に旨い蕎麦で、むしろ「払い甲斐」のある蕎麦であった。

img_4850 これで、自作の「東京蕎麦名店マップ」が、とりあえず全部埋まった。全部で12店、専門家でもない貧乏人としては、手繰りも手繰ったり、というところである。