読書

投稿日:

 引き続き約60年前の古書、平凡社の世界教養全集第10巻「釈尊の生涯/般若心経講義/歎異鈔講話/禅の第一義/生活と一枚の宗教」を読んでいたが、最後の収載作品「生活と一枚の宗教」(倉田百三著)を先ほど読み終わった。

 いつもは通勤電車の中で読み終わるので、今日のように自宅で読み終わるのは珍しい。

 さて、倉田百三の作品は、この全集第3巻に収載されている「愛と認識との出発」を昨年読んだところだ。本作「生活と一枚の宗教」は「愛と認識との出発」を著してから10年後の著作であるという。

 戦前の講演録だそうである。

 表題の「生活と一枚の宗教」の「生活」という言葉を、著者は「宇宙」というような意味で使っている。すなわち、「自」「他」の対立を去り、自分が宇宙の一部として他と渾然一体となっていることに気づいた途端、宇宙全体が如来である以上、自分もまた仏であるということになる。宇宙と自分が一枚になっている、自分の生活は宇宙と一枚になっている、自分が既にそうして仏でありさえすれば、もはや他に何を作為して求める必要があろう……本書で切々と述べられる倉田百三の信仰の大意は、そういう理解で外れていないと思う。

気になった箇所
平凡社世界教養全集第10巻「釈尊の生涯/般若心経講義/歎異鈔講話/禅の第一義/生活と一枚の宗教」のうち、「生活と一枚の宗教」より引用。
他の<blockquote>タグ同じ。p.481より

 たとえば如来でありますが、私の信仰ではみなさんはみな如来であります。一人一人が如来であります。それで仏と申しますのは、如来――自分がこのままで如来であるということを気づいたときにそれが仏であります。

言葉
ゾルレン

 ドイツ語の哲学用語で、日本語で言えば「(とう)()」である。わかりづらいが、「こうでなければならない、こうしなければならない、というようなことを意思でもってやる」ということが「当為」だと思えばよい。

 ゾルレンとは(コトバンク)

 このように意味を書くと、我々現代人には「それは立派なことだ」というようなポジティブな言葉であるように感じるが、倉田百三は全然違う意味でこの言葉を用いている。すなわち、単に「ゾルレン」と書かれているのではなく「ゾルレン臭」と、「臭」をつけ、遠ざけるべき、自分の信仰と相容れないものとして使っている。

下線太字は佐藤俊夫による。p.545より

念仏申さるるようにということはやはり一つの当為であります。これがやはり私の一つの当為癖であります。それは自分がすべきだというくせであります。あるいはゾルレン臭。自分と仏との間で言えば一つの水くささ、信仰のうえからいえば、かすであります。

 引き続き世界教養全集を読む。次は第11巻「芸術の歴史」(H.ヴァン・ルーン著)である。著者のH.ヴァン・ルーン Hendrik Willem Van Loon と言うと、この全集第8巻で読んだ「聖書物語」の著者である。

読書

投稿日:

 鈴木大拙の「無心ということ」を読み終わる。平凡社の60年前の古書「世界教養全集第3」に収められている。

 「こういう風にしたい」「こういうふうにあるべきだ」という分別・差別・区分、あるいは(とら)われ、(こだわ)り、妄執、我執、相対論、企み、(はから)い、そういったものから超越すること、そういうことが「無心」ということであろうかと読みとった。

 また、大拙師はそれを概念・観念として捉えたり理解しようとしたりすることを戒めている。曰く「宗教とは論理的把握ではなく体験である」と。自ら境地を体験するのでなければならないと言うのである。

 この著作を読むに先立ち、ウィル・デュラントの「哲学物語」、モンテーニュの「随想録」、ロシュフコーの「箴言と省察」、パスカルの「パンセ」、サント・ブーヴの「覚書と随想」、そして日本人ではあるが倉田百三の「愛と認識との出発」という順序と組み立てで西洋哲学を速習してきた。実は、これらにはウンザリした。馴染(なじ)めないし、読むほどに鬱勃(うつぼつ)たる抵抗を覚えざるを得なかったからだ。

 だが、鈴木大拙師の説く「無心」は、スッと心に入る気がした。

言葉
抛向(ほうこう)
(太線囲み引用(Blockquoteタグ)は鈴木大拙著「無心と言うこと」(平凡社世界教養全集第3)から。以下、他の引用も同じ。ただし、ルビについては佐藤俊夫が増補している。)

 これを南無阿弥陀仏の一句子にまとめて、我らの面前に抛向したのが……

 文字(づら)のみの意味から言えば、(なげう)ち、向ける、ということであるから、目の前に放り出す、提示する、とでもいう意味になる。

 だが、この「抛向」というのは禅宗でよく使う言葉らしく、単に「放り投げる」というだけの意味には使わないようだ。

 検索すると「(ぜん)知識(ちしき)は是れ(さかい)なることを弁得(べんとく)し、把得(はとく)して坑裏(こうり)抛向(ほうこう)す」などという使い方がなされている。

 「提示する」と言うと丁寧過ぎるから、ありのまま、更に言うならぶっきらぼうに、弟子や他の人の目の前に放り出して見せ、相手が自身の力で真実を掴むように仕向ける、そういう宗教体験の伝達のようなことを指して「抛向」と言っているのでもあろうか。

闡明(せんめい)

 まことに難しい字(づら)である。ものごとをハッキリさせ、明らかにすることだ。

 次に心学の祖である石田梅巌の『都鄙(とひ)問答』中にある、南無阿彌陀仏観を紹介してみましょう。これにもまた往生はこの土での往生、往くことなくして往くところの往生だとの義を闡明しています。

(みた)らず

 無心の働きということは、実際無心の境地を何かの方面で体得したものでないと、いくら説いても画餅飢えに充らずということになるのでしょうか。

 特段難しい言葉というわけではないが、読んでいて、ハテ、「アタらず」だろうか、「ミタらず」だろうか、とひっかかった。

 「絵に描いた餅では空腹を満たすことはできない」という意味であって、意味さえ判っておれば()み方に(こだわ)るところではないと思うが……。

 「()ちる」の文語体の活用はタ行の上二段活用で、「ミちず・ミちたり・ミつ・ミつるとき・ミつれども・ミちよ」か、あるいは「ミタさず・ミタしたり・ミタす・ミタすとき・ミタせども・ミタせ」のサ行四段活用だと思う。「画餅飢えを充たさず」などと言うのがどうも正しいのではないか。「ミたる」という活用がなければ「ミたらず」という訓み方もないはずだ。しかし、「アたらず」では、訓み方は正しくても、意味が遠くなってしまう。

 ここは闊達な口述の講義録を編集したという本著作の性格から言って、「ミたらず」と()んでおくのが無難であろうか。

(いか)でか

 そこで雪竇(せっちょう)()わく、「(いか)でか()かん独り虚窓の下に坐せんには」と。

 「アラソイでか」ではなく、「イカでか」である。「争でか如かん」とは「なんでそのようになるだろうか」というほどの意味だ。だから、「争でか如かん独り虚窓の下に坐せんには」というのは「孤独に虚窓の下に坐している者に、どうしてそのようなことがあろうか」という意味になる。

江戸する

 心学というものが、徳川時代の末ごろに江戸したものですが、……

 これがまた、聞いたことも見たこともない表現だ。検索してもわからない。だが、前後のコンテキストから判断するに、どうやら「都会で取り上げられて、盛り上がりを見せてきた」というような意味で「江戸した」と言っているように思う。

 しかし、注意が必要なのは、当時、物でも文化でも、上方から東海道を経て江戸に入ってくるものは「(くだ)りもの」と言っていたことだ。江戸がいかに徳川大将軍の御膝下(おひざもと)とは言え、工業・工芸、あるいは文化、どのようなものであろうと、どうしても「上方」の水準の後追いをせざるを得ぬ。もしかするとこの「江戸したものであった」という表現は、「ようやく江戸でも取りざたされ、名実ともに公式となった」というような、江戸を「下」に見るが如き、微妙な意味合いを含めているものかもしれない。

(はる)かに

……「雲門室中に垂語して人を接す、汝等(なんじら)諸人脚跟(きゃっこん)下に各〻(おのおの)一段の光明あり、今古(こんこ)輝騰(きとう)して、逈かに見知を絶す。(しか)も光明ありと(いえど)も、……

 普通に「はるかに」というそのままの意味でよいようだ。

什麼(じゅうま)

……若し明暗を坐断せば、(しばら)()え是箇の什麼ぞ

 なんとまあ難しい言葉だこと。こんな言葉は聞いたことも見たこともない。

 禅語でよく使われる言葉のようで、「じゅうま」も「いんも」も、どちらも同じ意味のようだ。「什麽ぞ」というのは、「なんぞ」「いかにぞ」と()んでもよく、つまり「いったいどういうことであろうか?」という疑問語、問いかけの意味である。

掀翻(きんぽん)

 ところが概念の世界もそのもとは体験の世界なので、体験を離れて概念はないのである。概念の世界は地図の世界で、この世界も天文も一目の下に見ることは誠に結構だが、それは実際に踏んだ山や川、そのものではないのである。それ故概念の世界だけなら、天地を一呑みに呑みほしてしまうともいわれ得る。何でもないことだ。だが、宗教の世界では、つまり体験の世界では、むやみにそういうことはいわれない。が、宗教の世界でも天地を掀翻する、そういうこともいう。しかし概念的掀翻と体験的掀翻との間には大いなる差異がある。これを知らなくてはならぬ。

 平たく言えば「ひっくり返してしまうこと」だ。

 だが、もう少し深いところを言っているようにも思う。西洋哲学で言う「止揚・揚棄(アウフヘーベン)」に近い意味のことを言っているのではないだろうか。「体験的なアウフヘーベン」と言うと、少し深味が増す。

 ところで、引用の部分は、本著作の中ほどの「熱い……」ところにある。大拙師が「仏教は概念や知識ではなく体験である」ということを、手を変え品を変え、切々と説いているところであり、本著作中の重要部分の一つであると私は思う。

逕庭(けいてい)

……自分らが今いわんと欲するところの見性体験と、大いに逕庭あるを覚ゆるのもやむを得ぬ。

 「隔たりがある」という意味である。

封疆(ほうきょう)

 これがまた難しい言葉で、聞いたこともない。特に「封疆」の「疆」の字の(へん)は、よく見ると弓偏(ゆみへん)ではなく、下のところに小さい「土」がついている。しかも部首はこの偏ではなく、「田」だそうな。

……恵寂は恵寂で、どこへでも流用せらるべき名ではないのだ。各自その封疆を守るべきである。

 さかいめ、国境、仕切りのことを「封疆」というそうな。

錦上(きんじょう)に花を()

……この呵呵大笑が大なる曲者だ。この一条の問答は、この一句の点破により、無限の妙趣を添え来たるのである。錦上に花を鋪くというべきであろう。

 「錦上に花を添える」という言葉は聞いたことがある。二つの意味があり、一つは「より美しくする」、もう一つは「わざわざ余計なものを付け加える」だ。(すなわ)ちポジティブ・ネガティブ両面の意味がある。

 「錦上(きんじょう)鋪花(ほか)」というふうにも書き、これも検索すると禅宗関連のサイトによくヒットするので、禅語ではよく出てくるもののようである。

 上の引用の通り、本著作中では「よりよくする」という方の意味で使っている。

火を(はら)って浮漚(うたかた)(もと)むるが如し

 これもまたサッパリわからない、難しい言葉である。検索すると禅宗関係のサイトがよくヒットするから、禅宗ではよく使う言葉なのであろう。

道を見て(はじめ)に道を修する、
見ざれば()た何をか修せん。
道の性は虚空の如し、
虚空に何の所修かあらん。
(あまね)く道を修するものを観るに、
火を(はら)って浮漚(うたかた)(もと)むるが如し。
但〻(ただただ)傀儡(かいらい)を弄するものを()よ、
線断ずるとき一時に休する

 全体としては「ゴールに到達するための正しい道すじなんてものは存在しない、道なんかない」というふうに突き放したようなことを言っていて、このコンテキストから意味を(おしはか)るに、「修行している者を見ていると、ただただ降ってくる火の粉を払い、溺れて(わら)(すが)ろうとしているようなもので、無暗矢鱈にもがいているだけであって、そこに『目標』や『体系』なんか、あるはずもない」というようなことを言っている。

 私自身のことであるが、こうした言葉に非常に救われるように思う。近頃、「意志の力」だなどとヒトラーみたいなことを言ってみたり、あるいはまた、体系だ仕組みだ改革だ目標だというようなことを言い立てて他人を苦しめ、実際には我執(がしゅう)を追っているだけである(やから)が多すぎるように感じる。そうした無明迷妄の(ともがら)のことを、最近は「意識が高い人々」などと呼んでいるようだが、それは実は「到達の程度が低い」ということでもあろう。

 「世界教養全集第3」。鈴木大拙の「無心と言うこと」の次に収載されている著作は、ぐっと色が変わって、芥川龍之介の「侏儒の言葉」である。これは小学生の頃に読んだことがある。なかなか皮肉な文章のオンパレードであったように記憶している。反権力、反道徳、アナーキズム風の味わいだけが胸底に残っていて、細部の記憶は消えている。あまり剛直・単純な強者の言葉、質朴・正直な箴言とも思えなかったように記憶しており、今となっては嫌な感じもするが、反面、数十年ぶりの再読は楽しみでもある。

読書

投稿日:

 引き続き60年近く前の古書、平凡社の世界教養全集第3「愛と認識との出発/無心ということ/侏儒の言葉/人生論ノート/愛の無常について」を読んでいる。

 第1巻から延々と西洋哲学を読んできて、この第3巻でやっと日本人の著作に来たと思ったら、よりにもよって最初が倉田百三である。

 ドイツ哲学へドップリ傾倒しつつなぜかプロテスタンティズムへも我が身をなすり込んで慟哭し、しまいには親鸞に(すが)って啼泣(ていきゅう)するという、倉田百三のもはや何が何だかわけの分からぬ懊悩満載の文章に、多少うんざりしていた私である。

 そこへ、やっと来ました、鈴木大拙師の「無心と言うこと」。

 心に沁みる。疲労がたまりにたまっていたところへ、温かい茶を一服のむような安らいだ感じがする。この達観、達意。どうだろう。

 この「平凡社世界教養全集」、38巻あるうちのまだ3巻目に手を付けたにしか過ぎないが、当時の編集陣による配列の妙に驚嘆せざるを得ない。

言葉
(以下、引用(blockquote)は特に断りなき限り、平凡社世界教養全集第3(昭和35年(1960)11月29日初版)所収の「無心ということ」(鈴木大拙著)からの引用である)
一竹葉堦を掃って塵動かず

 本書の文中には

(ふりがなは筆者)

 よく禅宗の人の言う句にこういうのがある。

 「一竹葉(いっちくよう)(かい)(はら)って(ちり)動かず、(つき)潭底(たんてい)穿(うが)ちて水に(あと)なし

……というふうに書かれているが、どうも「一竹葉」というところなどが「……?」と思えなくもない。

 検索してみると、「竹影掃堦塵不動、月穿潭底水無痕」(竹影(ちくえい)(かい)(はら)って(ちり)動かず、(つき)潭底(たんてい)穿(うが)ちて水に(あと)無し)等とあり、出典も明記されているところから、おそらくこちらが正しいのであろう。

 意義は読んで字のごとく、竹の影が石の(きざはし)をはらっても塵が動くわけではなく、月の光が(ふかみ)の底を照らしても水に波一つ立つわけではない、というほどの意味である。なかなか味わいのある禅語である。

 この泰然自若、この不動、不変。自称「改革派」などに聞かせてやりたいと思う。

止揚(しよう)

 そういえばこの言葉、以前にどこかで見たなと思った。開高健の「最後の晩餐」で読んだのだった。

 ドイツ語の「Aufheben(アウフヘーベン)」である。

……今の哲学者の言葉で言うと、揚棄するとか、止揚するとでもするか。

応無所住、而生其心

 「まさに住する所なくしてその心を生ずべし」と()み下す。

 ところが無住ということが『金剛経』の中にある、『般若経』はどれでもそういう思想だが、ことに禅宗の人はよく「応無所住、而生其心」と申します。よほど面白いと思うのです。

 (作品中では返り点が打ってあるのだが、このブログでは返り点の表現は無理なので、上記引用には打っていない。)

 で、この言葉の意味よりも、「応」という字は確か漢文では「再読文字」なのだが、忘れてしまっていて、パッと()み下すことができなかった、というそのことが気になって、ここに書き出した。

 これは「まさに~べし」である。

 漢文を読んでいると、この「応(まさに~べし)」もよく出てくるが、他に、

  •  「将」(まさに~んとす)
  •  「且」(まさに~んとす)
  •  「当」(まさに~べし)
  •  「須」(すべからく~べし)
  •  「宜」(よろしく~べし)
  •  「未」(いまだ~ず)
  •  「蓋」(なんぞ~ざる)
  •  「猶」(なお~がごとし、なお~の
  • ごとし)

  •  「由」(なお~がごとし、なお~のごとし)

……なんてのがあって、覚えておきたいが、……いや、忘れる(笑)。忘れるからここに書いとく。

 これもなんだっけ、再読なんだったっけどうだったっけ、……と少し考えてから、ああ、「而」なんかと同じ「置き字」だった、……と思い出す。それほど気にして読まなくてもいい字だ。音読は「兮(ケイ・ゲ)」である。同じ置き字でも、「而」などは「て」とか「して」と()ませる場合も多いが、置き字の中でもこの「兮」だけは漢語での音読上の調子を整えるために置かれることが多く、日本語の()み下しではほとんど無視されるという気の毒そのものの字である。

 本文中には

大道寂無相、万像窃無名。

……とあった。()み下し文は付されていなかったのだが、多分、「大道(たいどう)(さび)れて(おもて)無く、万像(ばんぞう)(ひそ)やかにして()無し。」と()むものと思う。

表詮(ひょうせん)

 ネットではこの語の意味はわからず、手元の三省堂広辞林を引いても見当たらず、同じく手元の「仏教語辞典」を引いてもわからなかった。

 但し、「表」は見た通り「(あらわ)す」であり、「詮」は「あきらか」という訓読があるので、「明確に示す」というような意味でよかろうかと思われる。

……道元禅師が静止の状態を道破したとすれば、この方は活躍の様子を表詮(ひょうせん)しているといってよかろうと思います。

肯綮(こうけい)

 「腱」のことのようである。転じて、ものごとのポイント、そのものずばりの急所のことを「肯綮」と言うそうな。

……また甲と乙と同じ世界だ、自他あるいは自と非自というものが一つになった、それが実在の世界だといっても、どうも肯綮(こうけい)に当たらぬのです。

(せん)新羅(しんら)を過ぐ

 これがまた、検索してもサッパリわからない単語である。

……動くものが見えるときには、対立の世界がおのずから消えてゆく、すなわちこの世界は(せん)新羅(しんら)を過ぎて作り上げたものになってしまう。

 唯一、このサイトに解らしきものがあった。

(上記「佛學大辭典」より引用)

(譬喻)新羅遠在支那東方,若放矢遠過新羅去,則誰知其落處,以喻物之落著難知。

 「((たと)(たと)う)新羅は支那の東方遠くに()り,()し矢を(はな)ちて遠く新羅を過ぎて去らば、(すなわ)()()の落つる(ところ)を知る、()って物の落ち()くところ知り(がた)きを(たと)う。」

……とでも()み下すのであろうか。

 そうすると「この世界は箭新羅を過ぎて作り上げたものになってしまう」という文は、この世界は目標や着地点がまったくわからないまま作り上げられたものになってしまう、……という意味になろうか。

 本書中では「(せん)新羅を過ぎる」とルビが振ってあったが、サイトによっては「()新羅を過ぎる」と訓読しているところもあるようだ。

只麼(しも)にいる

 これもまた、実に難しい言葉である。只々(ただただ)、麼(ちっぽけ、矮小)、というほどの意味であるようだ。

……独坐大雄峰とは、ここにこうしている、ただ何となくいる、只麼(しも)にいるということ、これが一番不思議なのだ。

蹉過(さか)(りょう)

 「蹉過(さか)」というのは「無駄にしてしまうこと」だそうである。「蹉」という字にはつまづく、足がもつれる、というような意味がある

 してみると、「蹉過了」というのは「蹉過し(おわ)る」ということであるから、「とうとう全部が無駄だ」とでもいうような意味であろうか。

……これほど摩訶不思議なことはないのだ。こうしているというと、もうすでに蹉過了というべきだが、しかしそういわぬと、人間としてはまた仕方がない。

読書

投稿日:

 平凡社の世界教養全集第3巻のうち、最初の収録、倉田百三の「愛と認識との出発」を読み終わる。

 現代かなづかいに直してあるので読みにくくはないが、内容は苛烈・苦悩・極端・懊悩・煩悶・煩悩と言ったもので、私に限っては心地よい共感や同感はなかった。「こういう腹の立つ若い奴って、実際にいるよな」などとも思えて、なじめない。

 キリスト教者で文芸評論家の佐古純一郎は解説において本作を「誰しもが若き日の過程において通る道筋」とでも言わぬばかりに大肯定しているのだが、若き日の私はこんな小難しくてかつ惰弱(だじゃく)な性情は持っていなかったし、そんな奴は嫌いでもあった。

 しかも作品を通底しているのはキリスト教礼讃である。それも、まるで、「畢竟人間など皆原罪を持つのだから、生まれ落ちた瞬間から詫び続けろ、謝れ!」と、こっちを睨み据え、唸り、迫り続けているように感じられる。そこには切々とした詩というものがまるでない。

 性欲を霊的なものと勘違いしたような興奮を「異性の内に自己を見出さんとする心」に書き付けたかと思えば、あっという間に冷めて、一部が表題ともなっている「恋を失うた者の歩む道――愛と認識との出発――」では、所詮ただの失恋を、またイジイジ恋々(れんれん)と言い訳している。見ちゃおれないほど痛い。

 中でも、「地上の男女」なる一篇などは、私にとっては狂人の所説、しかも完全に狂っていないだけに始末の悪い屁理屈にしか思えず、到底共感することはできなかった。こんな世迷言を若者に薦めることも到底いたしかねる。

 なによりも、この著作は女性を蔑んでいる。女性を大事なものの如くに気を付けて文章を書き付けていながら、その蔑視の内心がまるで隠せていない。江戸時代の文章であるならまだしも、せいぜい戦前の著作でこれでは、落胆せざるを得ない。

 こんなものがよく記念せられるべき古典として後世に残ったものだと思う。

 ただ一点だけ、少しここは良いかな、と同意できたのは、キリスト教を全面狂信というのではなしに、汎宗教のようにとらえ、同時に仏教、特に浄土真宗、親鸞と言った方向にも深い愛着を寄せていることである。実際、倉田百三の代表作「出家とその弟子」は親鸞伝をモチーフにした文学作品である。

言葉

 「愛と認識との出発」の文章は、今日び(きょうび)見かけない難解語のオンパレードである。漢字・漢語だけでなく、ドイツ語の哲学術語が多く使われ、前後のコンテキストだけに頼って読み進めることは極めて難しかった。辞書なしで読むのは無理である。通勤電車内の読書だから、まさか広辞苑・ドイツ語辞書・漢和辞典・英和辞典・和英辞典の5冊を担ぎ込むわけにもいかない。いきおい、スマホでネットの辞書を頼りながら読むこととなった。

オブスキュリチー

 Obscurity曖昧(あいまい)さ。

……身オブスキュリチーに隠るるとも自己の性格と仕事との価値を自ら認識して自ら満足しなくては、とても寂しい思索生活は永続しはしない。

(えら)

 これで「えらい」と訓むそうな。

……エミネンシイに対する欲求も無理とは言わない、がそこを忍耐しなくては豪い哲学者にはなれない。

エミネンシイ

 Eminency。傑出。

……後生だからエミネンシイとポピュラリチーとの欲求を抑制してくれたまえ。

向陵(こうりょう)

 向陵と言うのは、旧制一高のことだそうである。

……月日の((ママ))つのは早いものだ。君が向陵の人となってから、小一年になるではないか。

エルヘーベン

 Erheben。高揚。

 今年の私のこの心持は一層にエルヘーベンされたのである。

デスペレート

 Desperate。絶望、自暴自棄、やけ。

……君は(すく)なからず蕭殺(しょうさつ)たる色相とデスペレートな気分とを帯びてる((ママ))如く見えたからである。

インディフェレント

 Indifferent。無関心。

……私だって快楽にインディフェレントなほどに冷淡な男では万万ない。

自爾(みずから)

 これで「みずから」と訓む。連体詞のような副詞のような。

「現象の裡には始終物自爾(みずから)がくっついているのだから驚いた次の刹那にはその方へ廻って、その驚きを埋め合わせるほどの静けさが味わいたい」と私が言った。

 「始終物自爾」で始終(しじゅう)(もの)自爾(みずから)、である。

口を(かん)して

 「口を()じて」の誤植かな、とも思ったが、音読みどおりの「口を(かん)して」でよいようだ。

 私は口を(かん)してじっと考えた。((ママ))け放した障子の間から吹き込む夜風は又しても蚊帳の裾を翻した。

ザイン

 Sein。実在。

……自然は生死に関しては「ザイン」そのままを傲然として主張するのだ。

ヴント

 ヴィルヘルム・ヴント。

……氏はむしろヴント等と立脚地を同じくせる絶対論者である。

プラグマチズム

 Pragmatism。実用主義、実利主義。

……氏は誠にプラグマチズムの弊風を一身に集めた哲学者である。

Wollen(ウォルレン)Sollen(ゾルレン)

 主体と客体、主観と客観、というようなことだそうで、特に「Sollen」はドイツ語の難しいところであるようだ。自分の主張か、他人がそう主張しているか、というような解説もネット上にはある。

……実にこの本然の要求こそ我等自身の本体である。Wollenを離れてはSollenは無意義である。

斧鑿(ふさく)

 文字通り斧と(のみ)のことであり、転じて技巧のことを言うそうであるが、鑿の音読みが「サク」であるとは知らなかった。

  •  斧鑿(デジタル大辞泉)

……何等斧鑿の痕を((ママ))めざる純一無雑なる自然あるのみである。

Vorstellung

 フォーシュテルン。「表象」である。

……私はどう思っても主観のVorstellungとしての外は他人の存在を認めることができなかった。

Nachdenken・Vordenken

 ナハデンケン・フォーデンケン。内的な思考と他に関連する思考、とでも言うような意味か。特にVordenkenについては、抽象的な解しかなく、なんだかよくわからない。

……苦しんでも悶えてもいい考えは出なかった。先人の残した足跡を辿って、わずかにnachdenkenするばかりで、自ら進んでvordenkenすることなどはできなかった。

 わかりにくいぞ百三ッ!(笑)。

Leben・Denken

 リーブン。「生活」である。

 デンケン。「思考」である。

……私は子供心にも何か物を考えるような人になりたいと思って大きくなった。私はlebenせんためにはdenkenしなければならないと思った。

 ……いや、あの、百三(モモゾー)さぁ、なんで「生きていくためには思考しなければならないと思った」ではダメなわけ?変だよ、お前(笑)。

裂罅(れっか)

 なんと難しい、一般の日本語の文脈では見かけぬ単語であることか。しかし意味はそんなに難しくなく、「裂けてできた隙間」のことである。「裂」はそのままの意味、「()」は訓読みすれば「(ひび)」と()む。

……知識と情意とは相背いてる((ママ))。私の生命には裂罅がある。生々(なまなま)とした割れ目がある。

 別件だが、上の引用の「生々とした」という語が変換できなかったので、IMEに素早く登録しようとして品詞で困った。「生々」が語幹なら、これは「だろ・だっ・で・に……」の活用が完全にできない不完全形容動詞になるが、「生々し」が語幹になると「かろ・かっ・く・い・い……」と活用できる形容詞になる。

 似た単語としては「堂々」がある。普通の形容動詞のように「堂々だろう」なんていう使い方はないのだが、これは口語文法ではうまく整理できない。ところが、文語文法だと「堂々たる」「堂々たり」という「タリ」活用というのがあって、これは形容動詞である。では「生々」は「生々たる」なんて言い方があるかというとどうも怪しく、分類が難しい。

 「生々と」までを語幹としてその後を活用させず、「する」を動詞と見れば「副詞」だ、という整理もできる。

(ひそ)める

 「屏風(びょうぶ)」の「屏」の字に「める」を送った言葉である。

 この()み方はどうもネットの辞書等には見当たらない。「屏」の訓読みは「(おお)う・(かき)(しりぞ)く・(しりぞ)ける・(ついたて)」が一般的であるようだ。

 しかし、前後の文脈から言って「ひそめる」が最も妥当な読み方だと思う。

 私は何も読まず、何も書かず、ただ家の中にごろごろしたり、堪えかねては山を徘徊したりした。私の生命は呼吸を屏めて何物かを凝視していた。

コンヴェンショナル

 Conventional。月並み・ありきたり。

 私の傍を種々なる女の影が通りすぎた。私はまず女のコンベンショナルなのに驚いた。

ツァルト

 Zart。優しい。

……自分が今日キリスト者に対して、あるツァルトな感情を抱いているのは君に負う処が多い。

ウィッセンシャフトリッヒ

Wissenschaftlich。科学的。

……私はもっとしっかりした歩調で歩けるであろう。それには私の思索をもっとウィッセンシャフトリッヒにしなければならない。

……なんで普通に「科学的」って書かないかな、百三ェ……(笑)。

シュルド

 Schuld。有罪、借金、責任、……等々の意味がある。

……自分のある友は「彼と交わってよかったことは無い。自分は彼との交わりをシュルドとして感ずる」と言ったそうである。

 前後の文脈から言って「責任」「負い目」「責め」というふうに解するのが適当であろうか。

ベギールデ・ミスチーヴァス

 Begierde。欲望。

 Mischievous。いたずらな。人を傷つけるような。

……自分のやり方でこの少女の運命はいかに傷つけられるかも知れない。いわんやときにはベギールデが働いたり、ミスチーヴァスな気持ちになりかねない自分等が、平気で少女に対することができようか。

遑々(こうこう)として

 「煌々として」かな、と思ったら全然違っていて、部首が「しんにょう」である。意味も全然違う。「煌々」は「きらきら光り輝く様子」のことだが、「遑々として」というのは慌ただしく心が落ち着かないことを言う。

……親鸞はその夢を追うて九十歳まで遑々として生きたのであろうか。

Tugend

 トゥゲント。徳。

……社会に階級があるのが不服なのはその階級がTugendの高下に従っていないからである。

インニッヒ

 innig。心からの、真心の、誠実な、等々の意味がある。

 第四、肉交したために愛がインニッヒになるのは肉交の愛であることとは別事である。

 しかし、この文脈から言って、ここは「睦まじい」というふうに解するのが適切か。

Seelenunglücklichkeit

 ジーレンオングリックリッヒカイト。魂の不幸。

 文中ではSeelenunglücklichkeitと長大な一単語として書かれてあるが、Seelen unglücklichkeitという二つの言葉であるようだ。

……かかるseelenunglücklichkeitは人間が、真に人間として願うべき願いが満たされない地上の運命を感ずるところから起こる。

レフュージ

 Refuge。避難所。

……仕事場にあっても、家庭にあっても、教会にあっても、絶えず心がいらいらする、レフュージを芸術に求むれば胸を刺し貫くようなことが何の痛ましげも、なだめるような調子もなく、むしろそれを喜ぶように書いてある。

 文脈から言って「逃げ道」とでも解するのが適切か。

イルネーチュアード

 Ill-natured。意地の悪い。不健全な。

……文壇はその門をくぐる人をイルネーチュアードにさせる空気を醸しているようにみえる。

 これも前後の文脈から言って、「意地悪」と解するのが適切だろう。それにしても、その数行前には

 一、私の尊敬している少数の人々も周囲に対するときは意地の悪い文章を書く。

……という文章が現れるのだが、ではなんで百三(ヒャクゾー)っち、ここでは「意地悪」と書かずにわざわざ「イルネーチュアード」なんて書くのか。まるで意味がワカンネェ(笑)。

ハンブル

 Humble。謙虚な。控えめな。謙遜な。

 『出家とその弟子』がこのたび当地で上演されることについては、私はいま本当にハンブルな心持になっている。

ハンドルング

 Handlung。筋書き。

……それもハンドルングばかりに動かされるようなことではあの作は面白くないに違いない。

次の収録作

 さて、平凡社世界教養全集第3の次の収録作は、鈴木大拙(だいせつ)の「無心と言うこと」である。今度は少し爽やかな読書になるだろうと思う。倉田百三は私には合わない。