メディアとしての憲法

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 やろうと思えばまだできる、という時期に「もうしません、永久にやめました」とアピールするのと、やろうと思ってももうできない、という時期に同じことを言うのでは、相手の受け取り方は全く違う。

 前者なら、「よくぞ言った!偉いッ!」と受け取られたかも知れない。

 後者だと、「いや、永久にやめましたもヘッタクレも、そもそもお前んとこ、元からそんなこと出来ねぇだろうがよ。ナニわかり切ったこと言ってんだ。アホか」とバカにされるだけだ。

 私などは「何が憲法改正だ。改正などとは手ぬるい。最善は『破棄』である。それができないくらいなら、いっそ一切何も手を付けず、千年くらいこのままがよい」などと(うそぶ)いている。これを聞く人は「またこの変人佐藤が、キチガイみたいなこと言ってるぜ」と笑って流してくれるが、私は大真面目なのだ。

「何が『緊急事態の宣言』だ!ここは『戒厳令』と書かねばならぬ。条文もあんな臭い口語体ではダメだダメだダメだッ!『天皇ハ戒厳ヲ宣告ス 戒厳ノ要件及効力ハ法律ヲ以テ之ヲ定ム』にせんかァ!」

「おいおいおいおい佐藤さん、それは旧帝国憲法のパクりでしょうが」

「キミキミっ!今『旧帝国憲法』と言ったね!?『旧』とは何だ『旧』とは!まだ生きているものについて言うのに『旧』なんてつけなくていいんだッ!『大日本帝國憲法』、と言いなさい、この際、『国』という字は旧字体で『國』と書いたものを音読する気持ちで、さあ、言ってみよう、さん、ハイッ!!

「(……またはじまったよ、マジ面倒臭いオッサンだなあ) ハイハイ、わかりましたって(笑)」

……なぞという狂った会話を普段からしていれば、そりゃあ誰も相手になどしてくれないのは当然ではあるが……。

 だが、落ち着いて考えれば、癇癪を起して、喧騒(けんそう)、興奮、混乱、分断のうちに改定ないし破棄するというのも慌て過ぎだ。

 反面、喧騒や興奮などすれば、諸外国はそれに注目する。憲法に盛り込まれた文言は、内に向かっては、その縛ろうとするものが権力であろうとはた国民であろうと、外に対しては、日本が諸外国に向かって誓約する宣言としての機能が大きい。

 つまりは最高法規の姿をした強力な媒体(メディア)となることは疑いない。そう思う時、喧騒、興奮、混乱、分断もまたそれに期待される機能を自然に持つのだ、とも思う。

褒める朝日はまた入り組んでる

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 「SEALDs」とかいう不逞の連中に対する朝日の書きっぷりが常人の理解を超越している。

 いや、朝日がこういう連中を持ち上げたりテコ入れしたりするのは、それは、わかるよ。本来そういうキチガイ新聞だし、だいたいそもそも「アカ」、共産主義の人殺し礼賛記者集団なんだから、SEALDsみたいな連中を支持するのは当たり前で、やむを得ないということは十分理解できる。まあ、朝日民主主義人民共和株式会社も仕事でやってるわけだから、記者さんや社員さん全員が悪と決まったわけでもなし、仕方ないですわ、これは。

 私が理解できないというのは、SEALDsなんて連中が下手くそなデモなど煽ったせいで、彼らが大好きな旧民主党(現民進党)を逆に政権与党の座から引きずり下ろしてしまい、本来彼らの味方であるはずの18歳以下の若者が大挙選挙権を持たされて参入してきたこの7月の参院選では、SEALDsが大嫌いな自民党を圧勝させてしまうという、「お前ら何がしたかったんだ!?」と、反対の立場の人たち全部がその卓越した、ギャグセンスと言うより他ない支離滅裂な彼らの感覚に、むしろ畏敬を覚えざるを得ない状態であったのにもかかわらず、朝日新聞がこれを手放しでほめちぎっているという点である。

 もしあれが政治的情熱だと言うなら、彼らの知能のほどには疑義を覚えざるを得ないが、これを「よくやった」と褒めちぎりまくって記事にする、という、その朝日新聞の方針は、もう、乱れ乱れた麻のようなものと言わざるを得ない。

 はっきり言えば、SEALDsは、朝日的立場の正義や、朝日的平和、朝日的道徳(そんなものがあれば、だが)、社民党的、民進党的、共産党的、護憲平和主義左ソビエト中華人民共和国北朝鮮的ゆとり美学……みたいなものを、ケチョンケチョンに汚してしまった連中なのである。

 SEALDs連中だって、それが自分たちでよくわかっていて、むしろ慙愧に堪えないから、この前の参院選をしおに、すごすごと頭をかきながら引き下がるの(てい)だったのではあるまいか。

 いや、私はいいんですよ、私は頭の悪い右翼で、SEALDsなんて連中は大嫌いとは言うも愚か、死んでくださいなどと言ったら脅迫になってしまうから決してそうは言いませんが、なにか、4次元の隙間みたいなところとか重力密度の歪みの谷間みたいなところへ挟まって、ヒョッ、とか間抜けな音を立てて消えてくれませんかね、などと思っている人非人(にんぴにん)ですからね、私は。

 だから、彼らがその実力を余すところなく発揮し、これからも余計な活動によってますます憲法改正論を活発化させてしまったり、いわんや憲法改正どころか「憲法破棄」とかいう非常にアレな方向へ心ならずも誘導してしまったり、大々的なデモをブチかまして中国や朝鮮の言い分を完全に封殺してしまったり、テレビに出まくって喋りまくった結果、ついにウッカリ「再軍備宣言」にまで日本を推しまくってしまったり、国会議事堂前でラップをやったらなぜか原子力発電所積極増設+核武装というところにまでなぜか大躍進してしまったり、ええ、どんどんやってくれればいいんですけれども、いえ、ほんと、私は馬鹿右翼なんでそれでいいんですけど、……。

 朝日新聞さんとか民進党さんとか社民党さん、共産党さん、まあ、反社会的な人々はなんだか他にも変なのが沢山ウジャウジャいるから全貌はよくわかんないですけれども、みなさんはそれで、本当にいいんでしょうか?。

 私には、みなさんにとって、どうも、彼らSEALDsは、厄介な敵だったんじゃないかと思えるのですが。

 その点、邪魔者が解散してしまって、皆さんがた、反社会的な方々の大多数にとっては、たいへん良かったですね。おめでとうございます。

水論(すいろん)と水掛け論

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 日本は瑞穂(みずほ)の国ともいわれるほどの米の特産地である。したがって米農業にかかわる俳句の季語は極めて多い。田植え時季だけに、今時分の季語も多岐にわたる。

 「水論(すいろん)」という季語がある。水喧嘩(みずげんか)水争(みずあらそい)水敵(みずがたき)……などと言った類語があり、どれも同じような意味の傍題だ。

 いずれも、今の時期、農民が自分の田により多くの水を引こうとして争い事になってしまうことをいう。「論」とは口争いの意である。

水論に勝ち来し妻と思はれず  清水越東子

 水論、という言葉はあまり聞き慣れないが、似た言葉で、「水掛け論」という言葉はよく耳にする。ごく一般的な会話でもよく使う。

 ところが、この「水掛け論」、内容は「水論」なのである。

 狂言に「水掛聟(みずかけむこ)」という演目があり、これは文字通り水論の(しゅうと)(むこ)が主人公だそうな。ついに婿が舅に水をかけるような争いを描写したものだという。この演目こそが「水掛け論」の語源であるそうな。

 「我田引水」という故事成語にもつながる。これもよく見聞きする言葉だ。

 しかし、よく使われる「水掛け論」や「我田引水」という言葉の意味は知っていても、その背景にある米農業の風景を季節感を伴って想起出来るような人は、もはや日本にはほとんどいないのではあるまいか。

 日本の米農業は、実はいまだにダグラス・マッカーサーの呪縛の下にあり、企業的経営が許されていない。それこそ、白人が45歳の酸いも甘いも嚙み分けた中年なら日本など未熟な12歳の少年に過ぎぬとこき下ろした暴政元帥の我田引水である。

 憲法改正論も尤も(もっとも)なことだとは思うが、これを振り回して国論を混乱させるのもいかがなものかと思う。オキュパイド・ジャパンの屈辱的悪弊を整理したいという精神的動機なら、農地に関すること、貿易に関することなど、他にも主体的に改正できること、手が付けられることが多くある。世の中でも「リーン・スタート」などという言葉が流行っている。大(なた)を振り回すのは一見男らしいが、出刃で繊細に刺身をつくるというのもまた渋い仕事であるということを(わきま)えておきたい。