天皇陛下万歳
日本の祝日は、その多くが記紀などに記された古来の伝統に由来するが、「成人の日」は古来からの伝統の日ではなく、「新たな祝日」の一つである。
いずれにしても、若者の節目を祝い、励ましたい。
オッサンは生きている。
天皇陛下万歳
曇天だが、軒先に高々と国旗を掲揚する。
長女がようやく成人式を迎えることができた。まだ学生の
長女は気分が乗らないらしく、今日は特に衣装を整えたり盛り場に出かけたりと言ったことはしないようだ。せっかく準備していた振袖も、キャンセルしてしまった。それもよい。いろいろな成人式があるということなのだろう。
私自身も、30年前、自分の成人式に出ていない。これは、長女と違って、その日は仕事をしていたからである。
だから、数年前まで「荒れる成人式」というようなニュースを見聞するたび苦々しく思っていた。しかし今は、そういうふうに思っていない。自由に喜べ、と思う。乱痴気騒ぎをする無軌道な若者も許され、また、長女のように、静謐に成人式を送る喜び方も、また許容されるのだ。
成人式だけではない。いまや、人のあらゆる
たとえ苦しくとも、間尺に合わないと感じようとも、これまで自分が我慢し、それを受け入れてきた、というようなことを、相手も同様に受け入れられる、相手もできるはず、それを相手がしないのは、相手が怠けているからだ、相手に忍耐の精神がないからだ、相手の努力不足だ……などと思うのは、自分の思い上がりと言うものなのだろう。
私などは、国民たるもの、
私は、それをも寛容しようと思う。
しかし付言しておけば、だから、逆に、かつて「一旦緩急あれば義勇公に報……」じてきた人々、というものも、相手に受け入れられ、寛容されなければならない、というのは自然の流路と言える。
明日は成人の日だ。
一日前に行事をしてしまう自治体も多いようで、もう「荒れる成人式」というようなニュースが流れてくる。苦々しい。
私の子供たちはまだ成人しないので、成人式の所感というと、どうしても自分が成人した頃のことになる。
私は、自分の成人式の時は仕事をしていたので、晴れやかな思い出はない。
○ 成人の日所感(7年前に書いた記事)
しかし、それももう既に枯れた記憶で、だからどうだというふうには、今は思っていない。この記事を書いたときほどには、苦々しい感情は、今はない。
只々、若者が健やかに幸せに暮らしていってほしいと思う。そういう気持ちに変わったのは、私の子供たちもだいぶ大きくなり、まだ成人ではないものの、もうあと1年2年のことだから、ということも関係していると思う。
成人の日、祝日である。朝から我が家の玄関先には日章旗を掲げて祝意を表した。
だが、本心を言えば、私はあまり喜ばしく思っていない。
テレビや新聞は、どうせ今年も荒れる成人の日、などという面白くもないニュースで塗りつぶされているのだろう。見る気もしない。電気代や新聞代を自腹で払って不愉快な思いをする必要などない。
20年以上前、自分の成人式の日、私は仕事をしていた。だから、いわゆる世間一般の人が言う「成人式」というものには出ていない。その日は朝からなぜか一日中忙しかった。職場の下の者に私と同い歳の者が何人かおり、午前中、時間になると彼らを成人式に送り出してやった。私は職場に残ってなんやかやと深夜までコマのように働いて、自分の成人式がどうとか言っている暇はなかった。深夜1時、職場のきしむベッドにもぐりこみながら「ああ、成人式だったな。日がまわっちゃった。俺、成人じゃないか、ハハ」と、ひとりごちたものだ。
社会人として責任を果たした、自分なりの成人式だったと思う。いや、そのずっと前から、私は社会の一員としての責任を果たしていた。だから、既に成人だったのだと思う。何ぞ我を他人が祝うことやある、と言うぐらいの内心を私は抱いていたようにも思う。
親の金で高校や大学を出てぬるく生きている者には、成人の日における私の行動など、知能の低い者が自業自得によって仕方なくとった愚かさの代償に見えることだろう。2ちゃんねる流の言い回しなら「ドキュソ」である。「そうなる前になんで勉強して大学出るなりしないわけ?バカじゃねぇの?」とでも言い捨てることだろう。
自分のことや当時のことをわかってもらおうと他人に説明する気など私にはない。親兄弟、妻や子供にすらわかってもらおうと思わない。理解などできまい。こんな話をすれば、「大げさだ、ウソだ」と言う。言わば言え、なんとでも。哀れまれたいと思っているわけではさらにない。
自分のことをどうこうではない。ただ私は、高等教育を受ける機会を与えられておきながら、モラトリアムだのニートだのフリーターだのと称して怠け、寧日をむさぼっているスネ齧りの馬鹿者たちを腹の底から軽蔑し抜いているだけだ。
手放しで誉められ、甘やかされてきた若者たちは、祝福されるにふさわしい人間となれるよう、自分たちを責め抜き、鍛え上げ、懺悔しなければならない。そうしなければ、今日という日は永久に、誰からも本当の本心からは祝ってもらえない、ゴミか痰唾のような蔑まれるべき成人式のままである。