コッチからもバラまいてやったらどうか

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 亡命した元北朝鮮駐英公使の会見記事を見て思ったのだが……。

(産経新聞記事から引用)

 統制社会の中で、北朝鮮の人々は隠れて韓国ドラマを見ているとし、摘発されても賄賂を渡せば、逃れられるのが実情だと指摘した。

 以前、たしか韓国の民間有志がやっている、と、何かで見るかどこかで聞くかしたことなのだが、その韓国民間有志は、北朝鮮に韓国ドラマや映像を詰め込んだUSBメモリを、アンダーグランドでどんどんばら()いているそうだ。

 今時のUSBメモリは、ほんとうに親指の爪サイズでも動画の10本や20本ぐらい軽く呑み込んでしまうから、なるほど、これはビラなんか撒くより、謀略にはいい手段だ。

 そこで思いついたのだが、日本もやったらどうか。

 日本のニュース番組や魅力的なドラマなどを目いっぱいにUSBメモリに詰め込み、あらゆる手段を講じて北朝鮮の人々の手に渡らせるのである。勿論、非合法な手段になるだろう。それに、ドラマなどには念入りにハングルの字幕を付けてやらなければなるまい。公式にはできないから、何か、有志団体に自発的にやってもらうより他はないだろう。

 資金の捻出とハングル翻訳者の確保、著作権等の処理が極めて難しいが、やる意味は大いにあるだろう。

 これは、北朝鮮体制崩壊を早めることに寄与すると思う。

 しかし、体制崩壊が早まったとして、その先、半島情勢をどう持っていきたいのか、と言われると、私には確たるアイデアはない。自分でもどうしたいのかわからない。

 永久にこのまま安定していてください、すまんが北朝鮮の民衆はずーっとガマンしていてください、……という方向もある。北朝鮮の一般民衆がどうなろうと知ったこっちゃない、日本が太平安泰なら別にそれでよい、拉致被害者もそーっと黙っておいてくれ、などというような考え方だ。しかし、それも如何なものか、というところだろう。

昔のソ連のほうがよっぽど怖かった

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 (かね)てから「新聞ばかり読んでいると、アホになるばかりか、死ぬぞ」なぞという極論、暴言を振りかざしている私である。

 例えば、昨今、新聞記事の影響でか、軍事問題への関心が高まっているように感じられる。日本をとりまく軍事的脅威はますます高まっている、不安だ心配だ、国はなにをやっている、憲法はどうなんだ、官僚は軍備を真面目に整えとるのか、自衛隊はどうなっとるんだ……というような論調に傾いてきたように見えるのだ。

 が、私は、現在の我が国を取り巻く軍事情勢、就中(なかんづく)中国や北朝鮮がどれほど怖いかということは、比較論で言って、昔の対ソ連の時代の足元にも及ばないと思っている。

 ところが、どうも、人々は「昔のソ連や北朝鮮なんか怖くなかった、はっきり言って日本に関係なんかなかった、戦後の日本は戦争を放棄して、安心で安全だった、あの頃はバブルでお金もいっぱいあって幸せだった」と思い込まされているように思う。あるいは、単にその頃若かったか子供だったかして、そういう感覚を持っていなかった、という人もいるかも知れない。

 昔のほうが切実な軍事問題があった、ということには、感覚に訴えやすい好例がある。よく思い出してみてほしい。昔の北朝鮮のほうがよほど怖かった。その例は拉致問題である。

 気の毒にや、日本人が北朝鮮に相次いで拉致されていた頃。考えても見てほしい、かの横田めぐみさんがさらわれたのは、今を去る30年以上も前のことなのだ。今の北朝鮮はさすがに人(さら)いなどしていない。つまり、今の北朝鮮が怖いのではない、「30年前の北朝鮮のほうが現実の意味で怖かった」のである。

 その一方で、30年前の一般の人々の意識はどうであったか。かわいそうに、30年前、拉致の被害者なぞ一顧(いっこ)だにされなかった。自分が30年前、そんなことを問題にしていたかどうか、思い出してほしい。金があった者は財テクなどと言って利殖にうつつを抜かし、かわいそうな拉致の被害者なんかほったらかしだった。北朝鮮だけを例にとってさえ、このとおり、昔のほうが怖かったのだ。

 そればかりではない、ソ連によって日本に照準された核ミサイルはいつでも発射可能な状態に温められ、その数は何百発という途方もない数だった。しかもなお、彼らには上陸戦闘をやってのける潜在力があった。

 韓国も恐ろしく、竹島近辺で拿捕された何百という日本の漁民の中には殴り殺される者すらいた。

 そして、何千万という粛清が続いていることだけが断片的に伝わってくる、国交のない中共の不気味さと言ったらなかった。しかも、中共は昭和39年にはとっとと核実験をすませ、核武装国になりおおせていた。田中角栄大活躍の国交回復後、日本がせっせと献上した金で、せっせと核ミサイルを増備して日本に照準を合わせていたのだから、笑えぬ冗談もいいところだ。

 たとえ日本に直接の関係はなくても、子供の頃、クラスにインドシナ難民の子がいたという人もいるだろう。兵庫県の人には覚えがあると思う。難民キャンプが姫路にあったからだ。ベトナム戦争を持ち出すまでもない。あの頃、人々が国を捨てて逃げ出すようなアジアの戦乱は、即、日本にも指向されておかしくなかった。

 そして、日本に原爆を叩き込んで虐殺の限りをつくし、沖縄の人々を虐げていたアメリカ人を、誰も彼もが大好きという、もう、脳味噌はどうなっているんですかと言わざるを得ない、狂気のような状況に日本はあった。

 昔のほうがよほど、日本とその周辺国がそういう不気味な殺戮の嵐に包まれていたのに、ほんのごくわずかな人しかそれを直視しようとせず、何とかしようという努力を誰もしていなかった。そして、防衛費はGNP比1%の枠に(かたく)なに固定され、軍事問題に理解のない国民が圧倒的大多数を占め、自衛隊は土木作業員か賤民のような地位にしかなく、弾薬すらないありさまだった。

 新聞にそれらの問題が論じられることはまったくなかった。狂気の中でちいさい平和を見つけては、平和経済大国日本万歳とみんながみんな言い続けていた。

 私に言わせれば、むしろ最近は日本をとりまく軍事的脅威の絶対量なんか弱まっている。そうなってから、みんな軍事問題に首を突っ込み出した。

 勝手なものだ。

 アラビア~イスラムと言うけれど、9.11でどれほどの人が死んだか、広島・長崎の10倍も人が死んだのか、アメリカ人もよくよく自問自答すべきだ。

 これらがすべて、新聞の作用によると言ったら、言い過ぎだと非難されるだろうが、私は言い過ぎだと思わない。

 ただ、なにか、私自身がルサンチマンめいたねじれ方をしている、ということは、多少なりとも認めざるを得ないとは思う。