もとよりキリスト教徒などではなく、むしろキリスト教など大嫌いな私であるが、上記書第18節、「イエス・キリストの
オッサンは生きている。
もとよりキリスト教徒などではなく、むしろキリスト教など大嫌いな私であるが、上記書第18節、「イエス・キリストの
クリスマスだが、一昨日家族のために新調したハードディスクレコーダー(PanasocicのDIGA DMR-UCX4060)が昨日届き、その使い方などを試していたから、いつものように読書三昧というわけにはいかなかった。
今日は更に、日立の乾燥機が届いた。今日届く予定というから、外出もせず今か今かと待ち受けていたら夜の20時近くにもなって届く始末である。
乾燥機は大きいので、これをえっちらおっちら運ぶやら、開梱するやら、説明書を読むやら。本格的な据え付けは明日にするとして、結局今の時間になった。22時半。
さて、クリスマスである。
毎年毎年同じことをこのブログに書いているが、私はキリスト教徒ではないから、クリスマスに縁はない。むしろ、キリスト教など嫌いである。
伝説の宗教者、ナザレのイエスがいつ生まれたのであろうと、はたまたいつどこで死んだのであろうと、自分にはまったく関係ない。
だが、子供の頃から大人になるまで、クリスマスにはプレゼントを交換したり御馳走を食べたりケーキを切ったり、そういう楽しみ方はしていた。キリスト教が好きとか嫌いとか言うような観念がなかったし、何より自分も周囲もそうすることが楽しかったからである。
長じて結婚し、子供が生まれてからも、自分自身が子供の頃、父母が私にそうしたように、自分の子供たちも楽しませてやろうと思ったので、殊更クリスマスを否定することはなく、御馳走を作ったりケーキを焼いたりプレゼントを奮発したり、のみならずクリスマスツリーの飾り付けは年々大きくなり、しまいには2メートルにもなんなんとするポップアップ式のものに満艦飾にオーナメントをぶら下げたりもしてきた。
勿論、今も「否定」まではしていない。キリスト教徒が大切にしている祭日を、頭ごなしに唾棄するようなことは、人間らしくない。他人が大切にしているものは、やはり尊重すべきであろう。
だから、今の私は聖書などを紐解くことにしている。
私が若い頃から持っている聖書はこの文語訳の「
日が変わる前に、「マタイ
イエス・キリストの誕生は
左 のごとし。 その母マリヤ、ヨセフと許嫁 したるのみにて、未だ偕 にならざりしに、聖靈 によりて孕 り、その孕りたること顯 れたり。夫ヨセフは正しき人にして、之を公然にするを好まず、私 に離縁せんと思ふ。かくて、これらの事を思ひ囘 らしをるとき、視 よ、主の使、夢に現れて言ふ『ダビデの子ヨセフよ、妻マリヤを納 るる事を恐るな。 その胎 に宿る者は聖靈によるなり。かれ子を生まん、汝その名をイエスと名づくべし。 己が民をその罪より救ひ給ふ故なり』すべて此の事の起りしは、預言者によりて主の云ひ給ひし言の成就せん爲なり。 曰く、『視よ、處女 みごもりて子を生まん。その名はインマヌエルと稱 へられん』之 を釋 けば、神われらと偕 に在 すといふ意なり。ヨセフ寐 より起き、主の使の命ぜし如くして妻を納れたり。されど子の生るるまでは、相知る事なかりき。 かくてその子をイエスと名づけたり。
ユダヤの王ヘロデの時、アビヤの組の祭司に、ザカリヤという人あり。その妻はアロンの
裔 にて、名をエリサベツといふ。二人ながら神の前に正しくして、主の誡命 と定規 とを、みな缺 なく行へり。エリサベツ石女 なれば、彼らに子なし、また二人とも年邁 みぬ。さてザカリヤその組の
順番 に當 りて、神の前に祭司の務 を行ふとき、祭司の慣例にしたがひて、籤 をひき主の聖所に入りて、香を燒 くこととなりぬ。香を燒くとき、民の群みな外にありて祈りゐたり。時に主の使あらはれて、香壇の右に立ちたれば、ザカリヤ之を見て、心さわぎ懼 を生ず。御使いふ『ザカリヤよ、懼るな、汝の願 は聽 かれたり。汝の妻エリサベツ男子を生まん、汝その名をヨハネと名づくべし。なんぢに喜悦 と歡樂 とあらん、又おほく の人もその生るるを喜ぶべし。この子、主の前に大 ならん、また葡萄酒と濃き酒とを飮まず、母の胎を出づるや聖靈にて滿されん。また多くのイスラエルの子らを、主なる彼らの神に歸らしめ、且エリヤの靈と能力 とをもて、主の前に往かん。これ父の心を子に、戻れる者を義人の聰明に歸 らせて、整へたる民を主のために備へんとてなり』ザカリヤ御使にいふ『何に據 りてか此の事あるを知らん。我は老人にて、妻もまた年邁 みたり』御使 こたへて言ふ『われは神の御前に立つガブリエルなり、汝に語りてこの嘉 き音信 を告げん爲 に遣 さる。視 よ、時いたらば必ず成就すべき我が言 を信ぜぬに因 り、なんぢ物言へずなりて、此 らの事の成る日までは語ること能 は じ』民はザカリヤを俟 ちゐて、其の聖所の内に久しく留まるを怪しむ。遂に出で來りたれど語ること能はねば、彼らその聖所の内にて異象を見たることを悟る。ザカリヤは、ただ首にて示すのみ、なほ唖 なりき。斯 て務 の日滿ちたれば、家に歸りぬ。此の後その妻エリサベツ孕りて、五月ほど隱れをりて言ふ、『主わが恥を人の中に
雪 がせんとて、我を顧み給ふときは、斯く爲し給ふなり』その六月めに、御使ガブリエル、ナザレといふガリラヤの町にをる
處女 のもとに、神より遣さる。この處女はダビデの家のヨセフといふ人と許嫁 せし者にて、其の名をマリヤと云ふ。御使、處女の許にきたりて言ふ『めでたし、惠まるる者よ、主なんぢと偕 に在 せり』マリヤこの言によりて心いたく騷ぎ、斯 る挨拶は如何なる事ぞと思ひ廻らしたるに、御使いふ『マリヤよ、懼るな、汝は神の御前 に惠 を得たり。視よ、なんぢ孕りて男子を生まん、其の名をイエスと名づくべし。彼は大ならん、至高者 の子と稱 へられん。また主たる神、これに其の父ダビデの座位 をあたへ給へば、ヤコブの家を永遠に治めん。その國は終ることなかるべし』マリヤ御使に言ふ『われ未だ人を知らぬに、如何にして此の事のあるべき』御使こたへて言ふ『聖靈なんぢに臨み、至高者の能力 なんぢを被 はん。此の故に汝が生むところの聖なる者は、神の子と稱へらるべし。視よ、なんぢの親族エリサベツも、年老いたれど、男子を孕めり。石女といはれたる者なるに、今は孕りてはや六月 になりぬ。それ神の言 には能 は ぬ所なし』マリヤ言ふ『視よ、われは主の婢女 なり。汝の言のごとく、我に成れかし』つひに御使はなれ去りぬ。その頃マリヤ立ちて山里に急ぎ往き、ユダの町にいたり、ザカリヤの家に入りてエリサベツに挨拶せしに、エリサベツその挨拶を聞くや、兒は胎内にて躍れり。エリサベツ聖靈にて滿され、
聲 高らかに呼 は りて言ふ『をんなの中にて汝は祝福せられ、その胎 の實 もまた祝福せられたり。わが主の母われに來る、われ何によりてか之 を得 し。視 よ、なんぢの挨拶の聲 、わが耳に入るや、我が兒 、胎内にて喜びをど れり。信ぜし者は幸福 なるかな、主の語り給ふことは必ず成就すべければなり』マリヤ言ふ、『わが心、主を崇 め、わが靈はわが救主 なる神を喜びまつる。その婢女の卑しきをも顧 み給へばなり。視よ、今よりのち萬世 の人、われを幸福とせん。全能者われに大なる事を爲したまへばなり。その御名 は聖 なり、その憐憫 は代々 、畏 み恐るる者に臨むなり。神は御腕 にて權力をあらはし、心の念 に高ぶる者を散らし、權勢ある者を座位 より下し、いやしき者を高うし、飢ゑたる者を善き物に飽かせ、富める者を空しく去らせ給ふ。また我らの先祖に告げ給ひし如く、アブラハムとその裔とに對 するあはれみを永遠に忘れじとて、僕 イスラエルを助け給 へり』かくてマリヤは、三月ばかりエリサベツと偕 に居りて、己が家に歸 れり。さてエリサベツ産む
期 みちて男子を生みたれば、その最寄のもの親族の者ども、主の大 なる憐憫 をエリサベツに垂れ給ひしことを聞きて、彼とともに喜ぶ。八日 めになりて、其の子に割禮 を行はんとて人々きたり、父の名に因 みてザカリヤと名づけんとせしに、母こたへて言ふ『否、ヨハネと名づくべし』かれら言ふ『なんぢの親族の中には此の名をつけたる者なし』而 して父に首 にて示し、いかに名づけんと思ふか、問ひたるに、ザカリヤ書板 を求めて『その名はヨハネなり』と書きしかば、みな怪しむ。ザカリヤの口たちどころに開け、舌ゆるみ、物いひて神を
讃 めたり。最寄に住む者みな懼 をいだき、又すべて此等のこと徧 くユダヤの山里に言ひ囃 されたれば、聞く者みな之を心にとめて言ふ『この子は如何なる者にか成らん』主の手かれと偕に在りしなり。かくて父ザカリヤ聖靈にて滿され預言して言ふ、『讃むべきかな、主イスラエルの神、その民をかへりみて贖罪 をなし、我らのために救 の角 を、その僕 ダビデの家に立て給へり。これぞ古へより聖預言者の口をもて言ひ給ひし如く、我らを仇より、凡 て我らを憎む者の手より、取り出したまふ救 なる。我らの先祖に憐憫 を垂れ、その聖なる契約を思 し、我らの先祖アブラハムに立て給ひし御誓 を忘れずして、我らを仇 の手より救ひ、生涯、主の御前 に、聖と義とをもて懼 なく事 へしめたまふなり。幼兒 よ、なんぢは至高者 の預言者と稱 へられん。これ主の御前に先だちゆきて、其の道を備へ、主の民に罪の赦 による救 を知らしむればなり。これ我らの神の深き憐憫 によるなり。この憐憫によりて朝のひかり、上より臨み、暗黒と死の蔭とに坐する者をてらし、我らの足を平和の路 にみちびかん』かくて幼兒は漸 に成長し、その靈強くなり、イスラエルに現るる日まで荒野にゐたり。その頃、天下の人を戸籍に
著 かすべき詔令、カイザル・アウグストより出づ。この戸籍登録は、クレニオ、シリヤの總督 たりし時に行はれし初のものなり。さて人みな戸籍に著かんとて、各自その故郷 に歸る。ヨセフもダビデの家系また血統 なれば、既に孕 める許嫁の妻マリヤとともに、戸籍に著かんとて、ガリラヤの町ナザレを出でてユダヤに上り、ダビデの町ベツレヘムといふ處に到りぬ。此處 に居るほどに、マリヤ月滿ちて、初子 をうみ、之を布に包みて馬槽 に臥 させたり。旅舍 にをる處 なかりし故 なり。この地に野宿して夜、群を守りをる
牧者 ありしが、主の使その傍 らに立ち、主の榮光 その周圍 を照したれば、甚 く懼 る。御使 かれらに言ふ『懼るな、視よ、この民一般に及ぶべき、大なる歡喜 の音信 を我なんぢらに告ぐ。今日ダビデの町にて汝らの爲に救主 うまれ給へり、これ主キリストなり。なんぢら布にて包まれ、馬槽に臥しをる嬰兒 を見ん、是 その徴 なり』忽 ちあまたの天の軍勢、御使に加はり、神を讃美して言ふ、『いと高き處には榮光、神にあれ。地には平和、主の悦び給ふ人にあれ』御使 等 さりて天に往きしとき、牧者 たがひに語る『いざ、ベツレヘムにいたり、主の示し給ひし起れる事を見ん』乃 ち急ぎ往 きて、マリヤとヨセフと、馬槽に臥したる嬰兒とに尋ねあふ。既に見て、この子につき御使の語りしことを告げたれば、聞く者はみな牧者の語りしことを怪しみたり。而してマリヤは凡 て此等のことを心に留めて思ひ囘 せり。牧者は御使の語りしごとく凡ての事を見聞せしによりて、神を崇めかつ讃美しつつ歸れり。八日みちて幼兒に割禮を施すべき日となりたれば、未だ胎内に宿らぬ先に御使の名づけし如く、その名をイエスと名づけたり。