引き続き平凡社世界教養全集第10巻を読んでいる。3つ目の収録作、「
歎異鈔講話の前に収録されているほかの二つの著作(『釈尊の生涯』と『般若心経講義』)とはガラリと違う内容である。というよりも、「浄土真宗って、こんなんだったっけ……?」「南無阿弥陀仏って、こんな偏狭な信じ方なんだったっけ……?」と感じてしまうような、よく言えばひたむき、悪く言えば狂信的、もう、ひたすらひたすら、「南無阿弥陀仏」一直線である。「南無阿弥陀仏」と書かずに南無阿弥陀仏を表現しろ、と言われたら、こんな本になるのではないか、と思われる。
多分、歎異鈔そのものは、それほど徹底的なことはないのではないか。歎異鈔に向き合う著者暁烏敏が、著作当時はたまたまそういう人である時期だったのではないか、と感じられる。
実際、末尾の「解説」(船山伸一記)によれば、暁烏敏は戦前のこの著作の後、昭和初年頃から讃仰の対象が親鸞から聖徳太子、神武天皇、古事記などに移っていき、戦後は平和主義を経て防衛力強化是認論者となっていったのだという。
気になった箇所
他の<blockquote>タグ同じ。p.254より
六 法然聖人が、親鸞聖人に送られた手紙のなかに「餓鬼は水を火と見候、自力根性の他力を知らせ給はぬが憐れに候」という語がある。これはまことにきびしい恐ろしいようないい方であるが、これはもっとも明白に、自己という考えの離れられぬ人が宗教の門にはいることのできぬということを教えられた親切なる教示である。
七 今法然聖人の言葉をここにひき出したのはほかでもない。『歎異鈔』一巻はもっとも明白にもっとも極端に他力信仰の宗教を鼓吹したる聖典なるがゆえに、自力根性の離れられぬ餓鬼のような人間たちでは、とうていその妙味を味わい知ることができぬのみならず、かえってその思想を危険だとかあぶないとかいうて非難するのもむりでないかもしれぬ。がしかし餓鬼が水を火と見るように、自力根性で他力の妙味を知らず、この広大なる聖典『歎異鈔』を読みながら、これによって感化を受くることもできず、かつまたこの思想をもっとも明瞭に表白しつつある私どもの精神主義に対してかれこれ非難や嘲弄するのは憫然のいたりである。
しかし、こうまで書くと、非難・嘲弄とまで言うのは被害妄想であり、度し難き衆生を「憫然のいたり」とまでコキ下すのは、「大乗」ということから言って違うのではなかろうか。
すべて哲学にしろ、科学にしろ、学問というものは、真と偽とを区別してゆくのがだいたいの趣旨である。宗教はそうではなく、その妙処にゆくと宗教は真即偽、偽即真、真偽一如の天地であるのだから、けっして科学や哲学を以って宗教を律することはできないのである。
これは鈴木大拙師や高神覚昇師も似たことを書いていたような気がする。そういう点では違和感はない。
善人なほもて往生をとぐ、いはんや悪人をや。しかるを世の人つねにいはく、悪人なほ往生す、いかにいはんや善人をや、と。この条一旦そのいはれあるに似たれども、本願他力の意趣にそむけり。その故は、自力作善の人は、ひとへに他力をたのむ心欠けたるあひだ、弥陀の本願にあらず。しかれども自力の心をひるがへして、他力をたのみたてまつれば、真実報土の往生をとぐるなり。煩悩具足のわれらは、いずれの行にても生死をはなるることあるべからざるをあはれみたまひて、願をおこしたまふ本意、悪人成仏のためなれば、他力をたのみたてまつる悪人、もとも往生の正因なり。よりて善人だにこそ往生すれ、まして悪人は、と仰せられ候ひき。
歎異鈔からの引用である。歎異鈔で最も知られた一節は、この節であろう。「いかなる者も摂取不捨の阿弥陀如来であってみれば、悪人の方が救われる度合いは善人よりも多いのである。」ということが前提になっている。善人よりも悪人の方が救われるというのが浄土真宗の芯と言えば芯ではあろう。
三 陛下より勲章を下さるとすれば、功の多い者にはよい勲章があたり、功の少ない者には悪い勲章があたる。ところがこれに反して陛下より救助米が下るとすれば功の多少とか才の有無とかを問わずして、多く困っておる者ほどたくさんの米をいただくことができる。いま仏が私どもを救いくださるのは、私どもの功労に報ゆるためではなくて、私どもの苦悩を憐れみて救うてくださるる恩恵的のであるからして、いちばん困っておる悪人がもっとも如来の正客となる道理である。
悪人の方が救われる、ということをより噛み砕いた解説である。しかし、卑俗な
言葉
摂め取る
これで「
他方、仏教用語では「摂取不捨」、仏の慈悲によりすべて包摂され捨てられない、というような意味に使い、この「摂取」を訓読みすれば「
私は仏の本願他力に助けられて広大円満の人格に達し、大安慰をうるにいたるべしと信じ、南無阿弥陀仏と親の御名を称えて力ある生活をしましょうという決定心の起こったとき、そのとき待たず、その場去らず、ただちにこの他力光明のなかに摂め取られて、いかようなことがあろうとも仏力住持して大安尉の境に、すなわち仏の境界に導き給うにまちがいはないというのが、この一段の大意である。
軈て
「
其の上人の心は頓機漸機とて二品に候也、頓機はきゝて軈て解る心にて候。
設ひ
「設ひ」で検索すると「しつらい」というような訓みが出て来るが、ここでは「
設ひ我仏を得んに、十方世界の無量の諸仏、悉く咨嗟して我が名を称へずんば正覚を取らじ。
咨嗟
直前の引用で出てきている。「
- 咨嗟(goo辞書)
設ひ我仏を得んに、十方世界の無量の諸仏、悉く咨嗟して我が名を称へずんば正覚を取らじ。
炳焉
「
私どもはこの「案じ出したまひて」とある一句のうちに、絶対他力の大道の光輝の炳焉たるを喜ばねばなりません。
牢からざる
「
「牢」という字は「牢屋」の牢であるが、別に「かたい」という意味がある。よく使われる「堅牢」などという言葉は、「
- 牢(漢字ペディア)
p.349より
是に知りぬ、雑修の者は執心牢からざるの人とす、故に懈慢国に生ずるなり。
次
次は、「禅の第一義」(鈴木大拙著)である。鈴木大拙の著作はこの平凡社世界教養全集では第3巻にも出ていて(『無心ということ』読書記(このブログ))、2作目である。