読書訥々(とつとつ)

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 引き続き約60年前の古書、平凡社の世界教養全集第10巻「釈尊の生涯/般若心経講義/歎異鈔講話/禅の第一義/生活と一枚の宗教」を読んでいる。

 この巻の4つ目の収載作品、「禅の第一義」(鈴木大拙著)を帰りの電車の中で読み終わる。

 鈴木大拙師は第3巻の「無心と言うこと」の著者でもあり、昨年の初秋、8月末に読んだところである。

 全部文語体で書かれた古い著作ではあるが、平明に書かれてあり、わかりやすい。ただ、「什麽(そも)」だの「恁麼(いんも)」だのと言った禅語が何の解説もなくポンポン出てきたり、返り点などは打ってあるものの、延々と漢文が引用されたり、「常にこの心がけあらざるべからず」みたいな否定の否定の言い回しが多く、そういうところに限っては(はなは)晦渋(かいじゅう)というか、実にわかりづらい。

 そうはいうものの、私も含め、いまや「ナンチャッテ欧米人」とでもいうべきヘンチクリンなものになってしまっている日本人にとって、遠く明治の頃に十数年以上も欧米に在住して西洋の思想を吸収し、東西宗教の深い理解の上に立って欧米に禅の思想を普及した鈴木大拙師の論は、西洋思想を例にとるなどしながら述べているところなど、かえってわかりやすいかもしれない。

 本論中では、繰り返し繰り返し、「禅は学問ではなく、哲学でもなく、(いわん)や精神修養や健康法などではない」「学問~哲学が目指す『分別(ふんべつ)()』こそ、禅と相容れないものの極北である」「体験こそが禅である」ということを力説している。

 他に、(たん)()(しょう)の記述などにも的確に触れつつ「他力・自力の相違こそあれ、浄土宗ないし真宗と、禅は根本において同じ」と(かっ)()してみたり、キリスト教の教義を()(てき)概括(がいかつ)した上で、「キリスト教にも根本(こんぽん)において禅と同じ部分が多く認められる」という意味のことをも指摘しており、師の(ふところ)の深さ、幅の広さに(きょう)(たん)せざるを得ない。

気になった箇所
平凡社世界教養全集第10巻「釈尊の生涯/般若心経講義/歎異鈔講話/禅の第一義/生活と一枚の宗教」のうち、「禅の第一義」より引用。
他の<blockquote>タグ同じ。p.376より

換言すれば、仏陀は仏教の開山、元祖というべく、キリストはキリスト教の本尊となすべし。実際をいえば、今のキリスト教を建立したるはキリストその人にはあらずして、その使徒中の元首ともいうべきパウロなり。これを呼びてキリスト教といえども、あるいはパウロ教というほう適切なるべし。キリストのキリスト教における関係は仏陀の仏教における関係と同一ならざること、これにて知るべし。

 上の喝破から、鈴木大拙師の、他宗派のみならず、他宗教への該博な理解と知識が、あふれんばかりに伝わってくる。実際、引用箇所の周辺の1ページほどで「キリスト教の大意」と一節を起こし、手短(てみじか)にキリスト教について述べているが、これほど端的・適確・至短なキリスト教の解説を、私はこれまでに見たことがない。

言葉
咄、這鈍漢

 読みは「(とつ)這鈍漢(はいどんかん)」で、「咄」というのは漢語で「オイオイ!」というほどの意味である。

 「這鈍漢」というのが、これがサッパリわからない。ネットで検索すると中国語の仏教サイトが出て来る。それも「這鈍漢」ではなくて「這漢」と、微妙に違う字だ。

 意味がわからないながらも、前後の文脈から「これこれ、愚か者め」「オイオイ、このスットコドッコイが」くらいの意味ではないかと思われる。

下線太字は佐藤俊夫による。p.363より

もし釈迦なり、達磨なりを歴史のうちから呼び起こしきたりて、我が所為を見せしめなば「咄、這鈍漢、何を為さんとするか」と一喝を下すは必定なり。

盈つ

 「()つ」と()む。「満つ」「充つ」とだいたい同じと思えばよい。音読みは「ヨウ」「エイ」の二つで、「盈月(えいげつ)」というようなゆかしい単語がある。盈月は満月と同じ意味で、蛇足ながら対語に「()(げつ)」という言葉があり、これは「欠けた月」のことである。

  •  (漢字ペディア)
p.364より

「道は冲なり、而して之を用ゐれば盈たざることあり、淵乎として万物の宗に似たり」

清霄

 「清霄(せいしょう)」と読む。「霄」は空のことで、よって「清霄」とはすがすがしい空のことである。

p.368より

「江月照らし、松風吹く、永夜の清霄何の所為ぞ。」

燬く

 「()く」である。「焼く」と同じ意味であるが、(つくり)が「(こぼ)つ」という字になっている点からわかる通り、「激しく焼いて壊してしまう」ような意味合いが強い。

p.371より

丹霞といえる人は木像を燬きて冬の日に暖をとれりといえど、その心には、尋常ならぬ敬仏の念ありしならん。

剴切

 「剴切(がいせつ)」と読み、形容動詞である。意見などが非常に適切なことを言う。

p.374より

 しかしかくのごとき神を信ずるだけにては、キリスト教徒というを得ず、そはキリスト教の要旨は神のうえにありというよりもキリストのうえにありというがむしろ剴切なればなり。

一踢に踢翻す

 「一踢(いってき)踢翻(てきほん)す」と読む。「踢」という字は訓読みで「()る」と訓み、「蹴る」と大体同じである。

 で、「一踢に踢翻する」というのは「ひと蹴りに蹴っ飛ばしてひっくり返す」が文字通りの意味であるが、使われている文脈には「一気に脱し去って」というくらいの意味で出てくる。

p.378より

何となれば禅の禅とするところは、よろずの葛藤、よろずの説明、よろずの形式、よろずの法門を一踢に踢翻して、蒼竜頷下の明珠を握りきたるにあればなり。

 それにしても、「一踢」「踢翻」などという単語で検索しても、中国語のサイトしか出てこないので、日本語の文章でこんな難しい単語を使うことはほとんどないと言ってよく、一般に出ている書籍では、多分、仏教書を除いては、鈴木大拙師くらいしか使っていないだろう。……あ、そうか、この作品、仏教書か。

倐忽

 「倐忽(しゅっこつ)」と読む。「(しゅく)」も「(こつ)」も「たちまち」という意味があり、よって「倐忽」というのは非常に短い時間、またたくまに、というような意味である。

p.379より

我いずれよりきたりて、いずれに去るか、わがこの生を送るゆえんは何の所にあるか、かくのごときの疑問みな倐忽に解け去る。禅の存在の理由はまったくこの一点にあり。

氛氳

 これもまた、こんな難しい字、見たことがない。「氛氳(ふんうん)」と読み、盛んで勢いが良い様子を表す形容動詞である。

p.380より

また万物の底に深く深く浸みわたれる一物を感じたるごとくにて崇高いうべからず、しかしこの一物は、いまや没し去らんとする太陽の光明と、かぎりなき大海と、生々たる氛氳の気と、蒼々たる天界と、またわが心意とを以ってその安住の所となせり。

乾屎橛

 「(かん)()(けつ)」と読む。禅宗ではよく使う言葉だそうである。意味は、「ウンコ」と、昔ウンコをぬぐい取るのに使った「クソべら」の両方の意味がある。しかも、乾いて下肥(しもごえ)にすらならないようなブツのことを言う。「クソべら」もこびりついたウンコが乾いてカチカチになってしまっていると、尻を拭う用には立たない。「乾」いた、「屎」すなわちクソ(『()尿(にょう)処理車』などという言葉があるが、ここからも『屎』とはクソ、『尿』とはオシッコであることがよくわかる)の、「橛」、これは「棒」というような意味があるが、そういう()(づら)の単語である。

 それにしても、仏教書にして、なんでまたこんな()(ろう)な言葉が出て来るのか。

 それには(わけ)がある。禅寺ではなにかと極端な(たと)えを持ち出して問答し、そこから電光のような霊感を得ようとするのが修行のひとつなのだ。そんな問答、つまり、いわゆる「禅問答」のひとつに、

問 「仏とは何か」
答 「ウンコと同じである」

……というような、非常に深い(笑)極端な問答があるのだ。形の上では文語体の問答で、

問 「如何なるや(これ)、仏。」
答 「乾屎橛。」

……などと短い問答をするわけである。これぞ、知る人ぞ知る「禅問答」というもので、ある意味象徴的、代表的な極端な例と言えるだろう。

p.383より

凡夫と弥陀とを離してみれば、救う力は彼にあり、救わるる機はこれにありとすべからんも、すでに「一つになし給い」たるうえよりみれば、不念弥陀仏、南無乾屎橛、われは禅旨のかえって他力宗にあるを認めんと欲す。

竭くす

 「()くす」と訓む。「あるかぎり振り絞る」ということで、「尽くす」でも同じ意味と思えばよい。

p.386より

 ここに眼を注ぐべきは全体作用の一句子にあり、全体作用とはわが存在の一分をなせる智慧、思量、測度などいうものを働かすの謂いにあらず、全智を尽くし、全心を尽くし、全生命を尽くし、全存在を尽くしての作用なり、一棒一喝はただ手頭唇辺のわざにあらず、その身と心を竭くし、全体の精神を傾注してのうえの働きなり。

卓つる

 ここでは「()つる」と訓む。ネットの漢和辞典にはそんな訓みは出てこないが、私が持っている「大修館新漢和辞典改訂版」(諸橋轍次他著)には「たかい」「とおい」「すぐれている」という意味の他、「たつ。また、立っているさま」との意味があると書かれている。よって「()つる」の訓みに無理がないことがわかる。

 この「卓つる」という言葉は「臨刃偈」という有名な禅句のなかで使われており、本作品中ではそれを引用している。

ルビは佐藤俊夫による。p.389より

 昔、仏光国師の元兵の難に逢うや、「乾坤(けんこん)()(きょう)()つる()なし、(しゃ)()すらくは(ひと)(くう)(ほう)もまた(くう)(ちん)(ちょう)大元(だいげん)(さん)(じゃく)(つるぎ)電光影(でんこうえい)()(しゅん)(ぷう)()る」と唱えられたりと伝う。

 もとの漢文は次のとおりである。

臨刃偈
乾坤無地卓孤笻
且喜人空法亦空
珍重大元三尺劍
電光影裡斬春風

 仏光国師こと無学祖元は鎌倉時代に日本に来た中国僧である。日本に来る前のこと、元軍に取り巻かれ、もはや処刑されるばかりになった。いよいよ危機一髪の時、元兵の剣の前で(臨刃)これを詠じ、刎頸(ふんけい)(まぬが)れたと伝わる。

佐藤俊夫試訳

(そら)(つえ)など 立ちはせぬ
人は(くう) 法も(くう)とは 面白(おもしろ)
さらばぞ(げん)の 鬼武者よ
わしの首なぞ ()ねたとて 稲妻が斬る 春の風
錯って

 「(あやま)って」と訓む。「錯誤」という言葉があることから、「錯」という字にはごちゃごちゃにまじりあうという意味の他に、「まちがえる、あやまる」の意味があることが理解される。

p.393より

這個の公案多少の人錯って会す、直に是れ咬嚼し難し、儞が口を下す処なし。

 「()」と読む。意味は「(いき)」と同じと考えてよい。

 禅における呼吸法について解説しているところに出てくる。

p.403より

 「胎息を得る者は能く鼻口を以て噓吸せず、胞胎の中に在るが如くなれば則ち道成る。初めはを行ふことを学ぶ。鼻中を引いて之を陰に閉ぢ、心を以て数へて一百二十に至る。

跼蹐

 「跼蹐(きょくせき)」と読む。「跼」はちぢこまること、「蹐」は忍び足で恐る恐る歩く様子を言う。そこから、おそれかしこまり、ちぢこまっている様子を「跼蹐」という。

p.454より

しかも性として見らるるものなく、眼として見るものなし、禅はもと分別的対境のなかに跼蹐するものにあらざればなり。

 次はこの巻最後の収載作品「生活と一枚の宗教」(倉田百三著)である。著者の倉田百三については、第3巻の「愛と認識の出発」の著者でもあり、これも昨年の晩夏、8月のはじめに読んだところだ。

読書

投稿日:

 鈴木大拙の「無心ということ」を読み終わる。平凡社の60年前の古書「世界教養全集第3」に収められている。

 「こういう風にしたい」「こういうふうにあるべきだ」という分別・差別・区分、あるいは(とら)われ、(こだわ)り、妄執、我執、相対論、企み、(はから)い、そういったものから超越すること、そういうことが「無心」ということであろうかと読みとった。

 また、大拙師はそれを概念・観念として捉えたり理解しようとしたりすることを戒めている。曰く「宗教とは論理的把握ではなく体験である」と。自ら境地を体験するのでなければならないと言うのである。

 この著作を読むに先立ち、ウィル・デュラントの「哲学物語」、モンテーニュの「随想録」、ロシュフコーの「箴言と省察」、パスカルの「パンセ」、サント・ブーヴの「覚書と随想」、そして日本人ではあるが倉田百三の「愛と認識との出発」という順序と組み立てで西洋哲学を速習してきた。実は、これらにはウンザリした。馴染(なじ)めないし、読むほどに鬱勃(うつぼつ)たる抵抗を覚えざるを得なかったからだ。

 だが、鈴木大拙師の説く「無心」は、スッと心に入る気がした。

言葉
抛向(ほうこう)
(太線囲み引用(Blockquoteタグ)は鈴木大拙著「無心と言うこと」(平凡社世界教養全集第3)から。以下、他の引用も同じ。ただし、ルビについては佐藤俊夫が増補している。)

 これを南無阿弥陀仏の一句子にまとめて、我らの面前に抛向したのが……

 文字(づら)のみの意味から言えば、(なげう)ち、向ける、ということであるから、目の前に放り出す、提示する、とでもいう意味になる。

 だが、この「抛向」というのは禅宗でよく使う言葉らしく、単に「放り投げる」というだけの意味には使わないようだ。

 検索すると「(ぜん)知識(ちしき)は是れ(さかい)なることを弁得(べんとく)し、把得(はとく)して坑裏(こうり)抛向(ほうこう)す」などという使い方がなされている。

 「提示する」と言うと丁寧過ぎるから、ありのまま、更に言うならぶっきらぼうに、弟子や他の人の目の前に放り出して見せ、相手が自身の力で真実を掴むように仕向ける、そういう宗教体験の伝達のようなことを指して「抛向」と言っているのでもあろうか。

闡明(せんめい)

 まことに難しい字(づら)である。ものごとをハッキリさせ、明らかにすることだ。

 次に心学の祖である石田梅巌の『都鄙(とひ)問答』中にある、南無阿彌陀仏観を紹介してみましょう。これにもまた往生はこの土での往生、往くことなくして往くところの往生だとの義を闡明しています。

(みた)らず

 無心の働きということは、実際無心の境地を何かの方面で体得したものでないと、いくら説いても画餅飢えに充らずということになるのでしょうか。

 特段難しい言葉というわけではないが、読んでいて、ハテ、「アタらず」だろうか、「ミタらず」だろうか、とひっかかった。

 「絵に描いた餅では空腹を満たすことはできない」という意味であって、意味さえ判っておれば()み方に(こだわ)るところではないと思うが……。

 「()ちる」の文語体の活用はタ行の上二段活用で、「ミちず・ミちたり・ミつ・ミつるとき・ミつれども・ミちよ」か、あるいは「ミタさず・ミタしたり・ミタす・ミタすとき・ミタせども・ミタせ」のサ行四段活用だと思う。「画餅飢えを充たさず」などと言うのがどうも正しいのではないか。「ミたる」という活用がなければ「ミたらず」という訓み方もないはずだ。しかし、「アたらず」では、訓み方は正しくても、意味が遠くなってしまう。

 ここは闊達な口述の講義録を編集したという本著作の性格から言って、「ミたらず」と()んでおくのが無難であろうか。

(いか)でか

 そこで雪竇(せっちょう)()わく、「(いか)でか()かん独り虚窓の下に坐せんには」と。

 「アラソイでか」ではなく、「イカでか」である。「争でか如かん」とは「なんでそのようになるだろうか」というほどの意味だ。だから、「争でか如かん独り虚窓の下に坐せんには」というのは「孤独に虚窓の下に坐している者に、どうしてそのようなことがあろうか」という意味になる。

江戸する

 心学というものが、徳川時代の末ごろに江戸したものですが、……

 これがまた、聞いたことも見たこともない表現だ。検索してもわからない。だが、前後のコンテキストから判断するに、どうやら「都会で取り上げられて、盛り上がりを見せてきた」というような意味で「江戸した」と言っているように思う。

 しかし、注意が必要なのは、当時、物でも文化でも、上方から東海道を経て江戸に入ってくるものは「(くだ)りもの」と言っていたことだ。江戸がいかに徳川大将軍の御膝下(おひざもと)とは言え、工業・工芸、あるいは文化、どのようなものであろうと、どうしても「上方」の水準の後追いをせざるを得ぬ。もしかするとこの「江戸したものであった」という表現は、「ようやく江戸でも取りざたされ、名実ともに公式となった」というような、江戸を「下」に見るが如き、微妙な意味合いを含めているものかもしれない。

(はる)かに

……「雲門室中に垂語して人を接す、汝等(なんじら)諸人脚跟(きゃっこん)下に各〻(おのおの)一段の光明あり、今古(こんこ)輝騰(きとう)して、逈かに見知を絶す。(しか)も光明ありと(いえど)も、……

 普通に「はるかに」というそのままの意味でよいようだ。

什麼(じゅうま)

……若し明暗を坐断せば、(しばら)()え是箇の什麼ぞ

 なんとまあ難しい言葉だこと。こんな言葉は聞いたことも見たこともない。

 禅語でよく使われる言葉のようで、「じゅうま」も「いんも」も、どちらも同じ意味のようだ。「什麽ぞ」というのは、「なんぞ」「いかにぞ」と()んでもよく、つまり「いったいどういうことであろうか?」という疑問語、問いかけの意味である。

掀翻(きんぽん)

 ところが概念の世界もそのもとは体験の世界なので、体験を離れて概念はないのである。概念の世界は地図の世界で、この世界も天文も一目の下に見ることは誠に結構だが、それは実際に踏んだ山や川、そのものではないのである。それ故概念の世界だけなら、天地を一呑みに呑みほしてしまうともいわれ得る。何でもないことだ。だが、宗教の世界では、つまり体験の世界では、むやみにそういうことはいわれない。が、宗教の世界でも天地を掀翻する、そういうこともいう。しかし概念的掀翻と体験的掀翻との間には大いなる差異がある。これを知らなくてはならぬ。

 平たく言えば「ひっくり返してしまうこと」だ。

 だが、もう少し深いところを言っているようにも思う。西洋哲学で言う「止揚・揚棄(アウフヘーベン)」に近い意味のことを言っているのではないだろうか。「体験的なアウフヘーベン」と言うと、少し深味が増す。

 ところで、引用の部分は、本著作の中ほどの「熱い……」ところにある。大拙師が「仏教は概念や知識ではなく体験である」ということを、手を変え品を変え、切々と説いているところであり、本著作中の重要部分の一つであると私は思う。

逕庭(けいてい)

……自分らが今いわんと欲するところの見性体験と、大いに逕庭あるを覚ゆるのもやむを得ぬ。

 「隔たりがある」という意味である。

封疆(ほうきょう)

 これがまた難しい言葉で、聞いたこともない。特に「封疆」の「疆」の字の(へん)は、よく見ると弓偏(ゆみへん)ではなく、下のところに小さい「土」がついている。しかも部首はこの偏ではなく、「田」だそうな。

……恵寂は恵寂で、どこへでも流用せらるべき名ではないのだ。各自その封疆を守るべきである。

 さかいめ、国境、仕切りのことを「封疆」というそうな。

錦上(きんじょう)に花を()

……この呵呵大笑が大なる曲者だ。この一条の問答は、この一句の点破により、無限の妙趣を添え来たるのである。錦上に花を鋪くというべきであろう。

 「錦上に花を添える」という言葉は聞いたことがある。二つの意味があり、一つは「より美しくする」、もう一つは「わざわざ余計なものを付け加える」だ。(すなわ)ちポジティブ・ネガティブ両面の意味がある。

 「錦上(きんじょう)鋪花(ほか)」というふうにも書き、これも検索すると禅宗関連のサイトによくヒットするので、禅語ではよく出てくるもののようである。

 上の引用の通り、本著作中では「よりよくする」という方の意味で使っている。

火を(はら)って浮漚(うたかた)(もと)むるが如し

 これもまたサッパリわからない、難しい言葉である。検索すると禅宗関係のサイトがよくヒットするから、禅宗ではよく使う言葉なのであろう。

道を見て(はじめ)に道を修する、
見ざれば()た何をか修せん。
道の性は虚空の如し、
虚空に何の所修かあらん。
(あまね)く道を修するものを観るに、
火を(はら)って浮漚(うたかた)(もと)むるが如し。
但〻(ただただ)傀儡(かいらい)を弄するものを()よ、
線断ずるとき一時に休する

 全体としては「ゴールに到達するための正しい道すじなんてものは存在しない、道なんかない」というふうに突き放したようなことを言っていて、このコンテキストから意味を(おしはか)るに、「修行している者を見ていると、ただただ降ってくる火の粉を払い、溺れて(わら)(すが)ろうとしているようなもので、無暗矢鱈にもがいているだけであって、そこに『目標』や『体系』なんか、あるはずもない」というようなことを言っている。

 私自身のことであるが、こうした言葉に非常に救われるように思う。近頃、「意志の力」だなどとヒトラーみたいなことを言ってみたり、あるいはまた、体系だ仕組みだ改革だ目標だというようなことを言い立てて他人を苦しめ、実際には我執(がしゅう)を追っているだけである(やから)が多すぎるように感じる。そうした無明迷妄の(ともがら)のことを、最近は「意識が高い人々」などと呼んでいるようだが、それは実は「到達の程度が低い」ということでもあろう。

 「世界教養全集第3」。鈴木大拙の「無心と言うこと」の次に収載されている著作は、ぐっと色が変わって、芥川龍之介の「侏儒の言葉」である。これは小学生の頃に読んだことがある。なかなか皮肉な文章のオンパレードであったように記憶している。反権力、反道徳、アナーキズム風の味わいだけが胸底に残っていて、細部の記憶は消えている。あまり剛直・単純な強者の言葉、質朴・正直な箴言とも思えなかったように記憶しており、今となっては嫌な感じもするが、反面、数十年ぶりの再読は楽しみでもある。

読書

投稿日:

 引き続き60年近く前の古書、平凡社の世界教養全集第3「愛と認識との出発/無心ということ/侏儒の言葉/人生論ノート/愛の無常について」を読んでいる。

 第1巻から延々と西洋哲学を読んできて、この第3巻でやっと日本人の著作に来たと思ったら、よりにもよって最初が倉田百三である。

 ドイツ哲学へドップリ傾倒しつつなぜかプロテスタンティズムへも我が身をなすり込んで慟哭し、しまいには親鸞に(すが)って啼泣(ていきゅう)するという、倉田百三のもはや何が何だかわけの分からぬ懊悩満載の文章に、多少うんざりしていた私である。

 そこへ、やっと来ました、鈴木大拙師の「無心と言うこと」。

 心に沁みる。疲労がたまりにたまっていたところへ、温かい茶を一服のむような安らいだ感じがする。この達観、達意。どうだろう。

 この「平凡社世界教養全集」、38巻あるうちのまだ3巻目に手を付けたにしか過ぎないが、当時の編集陣による配列の妙に驚嘆せざるを得ない。

言葉
(以下、引用(blockquote)は特に断りなき限り、平凡社世界教養全集第3(昭和35年(1960)11月29日初版)所収の「無心ということ」(鈴木大拙著)からの引用である)
一竹葉堦を掃って塵動かず

 本書の文中には

(ふりがなは筆者)

 よく禅宗の人の言う句にこういうのがある。

 「一竹葉(いっちくよう)(かい)(はら)って(ちり)動かず、(つき)潭底(たんてい)穿(うが)ちて水に(あと)なし

……というふうに書かれているが、どうも「一竹葉」というところなどが「……?」と思えなくもない。

 検索してみると、「竹影掃堦塵不動、月穿潭底水無痕」(竹影(ちくえい)(かい)(はら)って(ちり)動かず、(つき)潭底(たんてい)穿(うが)ちて水に(あと)無し)等とあり、出典も明記されているところから、おそらくこちらが正しいのであろう。

 意義は読んで字のごとく、竹の影が石の(きざはし)をはらっても塵が動くわけではなく、月の光が(ふかみ)の底を照らしても水に波一つ立つわけではない、というほどの意味である。なかなか味わいのある禅語である。

 この泰然自若、この不動、不変。自称「改革派」などに聞かせてやりたいと思う。

止揚(しよう)

 そういえばこの言葉、以前にどこかで見たなと思った。開高健の「最後の晩餐」で読んだのだった。

 ドイツ語の「Aufheben(アウフヘーベン)」である。

……今の哲学者の言葉で言うと、揚棄するとか、止揚するとでもするか。

応無所住、而生其心

 「まさに住する所なくしてその心を生ずべし」と()み下す。

 ところが無住ということが『金剛経』の中にある、『般若経』はどれでもそういう思想だが、ことに禅宗の人はよく「応無所住、而生其心」と申します。よほど面白いと思うのです。

 (作品中では返り点が打ってあるのだが、このブログでは返り点の表現は無理なので、上記引用には打っていない。)

 で、この言葉の意味よりも、「応」という字は確か漢文では「再読文字」なのだが、忘れてしまっていて、パッと()み下すことができなかった、というそのことが気になって、ここに書き出した。

 これは「まさに~べし」である。

 漢文を読んでいると、この「応(まさに~べし)」もよく出てくるが、他に、

  •  「将」(まさに~んとす)
  •  「且」(まさに~んとす)
  •  「当」(まさに~べし)
  •  「須」(すべからく~べし)
  •  「宜」(よろしく~べし)
  •  「未」(いまだ~ず)
  •  「蓋」(なんぞ~ざる)
  •  「猶」(なお~がごとし、なお~の
  • ごとし)

  •  「由」(なお~がごとし、なお~のごとし)

……なんてのがあって、覚えておきたいが、……いや、忘れる(笑)。忘れるからここに書いとく。

 これもなんだっけ、再読なんだったっけどうだったっけ、……と少し考えてから、ああ、「而」なんかと同じ「置き字」だった、……と思い出す。それほど気にして読まなくてもいい字だ。音読は「兮(ケイ・ゲ)」である。同じ置き字でも、「而」などは「て」とか「して」と()ませる場合も多いが、置き字の中でもこの「兮」だけは漢語での音読上の調子を整えるために置かれることが多く、日本語の()み下しではほとんど無視されるという気の毒そのものの字である。

 本文中には

大道寂無相、万像窃無名。

……とあった。()み下し文は付されていなかったのだが、多分、「大道(たいどう)(さび)れて(おもて)無く、万像(ばんぞう)(ひそ)やかにして()無し。」と()むものと思う。

表詮(ひょうせん)

 ネットではこの語の意味はわからず、手元の三省堂広辞林を引いても見当たらず、同じく手元の「仏教語辞典」を引いてもわからなかった。

 但し、「表」は見た通り「(あらわ)す」であり、「詮」は「あきらか」という訓読があるので、「明確に示す」というような意味でよかろうかと思われる。

……道元禅師が静止の状態を道破したとすれば、この方は活躍の様子を表詮(ひょうせん)しているといってよかろうと思います。

肯綮(こうけい)

 「腱」のことのようである。転じて、ものごとのポイント、そのものずばりの急所のことを「肯綮」と言うそうな。

……また甲と乙と同じ世界だ、自他あるいは自と非自というものが一つになった、それが実在の世界だといっても、どうも肯綮(こうけい)に当たらぬのです。

(せん)新羅(しんら)を過ぐ

 これがまた、検索してもサッパリわからない単語である。

……動くものが見えるときには、対立の世界がおのずから消えてゆく、すなわちこの世界は(せん)新羅(しんら)を過ぎて作り上げたものになってしまう。

 唯一、このサイトに解らしきものがあった。

(上記「佛學大辭典」より引用)

(譬喻)新羅遠在支那東方,若放矢遠過新羅去,則誰知其落處,以喻物之落著難知。

 「((たと)(たと)う)新羅は支那の東方遠くに()り,()し矢を(はな)ちて遠く新羅を過ぎて去らば、(すなわ)()()の落つる(ところ)を知る、()って物の落ち()くところ知り(がた)きを(たと)う。」

……とでも()み下すのであろうか。

 そうすると「この世界は箭新羅を過ぎて作り上げたものになってしまう」という文は、この世界は目標や着地点がまったくわからないまま作り上げられたものになってしまう、……という意味になろうか。

 本書中では「(せん)新羅を過ぎる」とルビが振ってあったが、サイトによっては「()新羅を過ぎる」と訓読しているところもあるようだ。

只麼(しも)にいる

 これもまた、実に難しい言葉である。只々(ただただ)、麼(ちっぽけ、矮小)、というほどの意味であるようだ。

……独坐大雄峰とは、ここにこうしている、ただ何となくいる、只麼(しも)にいるということ、これが一番不思議なのだ。

蹉過(さか)(りょう)

 「蹉過(さか)」というのは「無駄にしてしまうこと」だそうである。「蹉」という字にはつまづく、足がもつれる、というような意味がある

 してみると、「蹉過了」というのは「蹉過し(おわ)る」ということであるから、「とうとう全部が無駄だ」とでもいうような意味であろうか。

……これほど摩訶不思議なことはないのだ。こうしているというと、もうすでに蹉過了というべきだが、しかしそういわぬと、人間としてはまた仕方がない。