雑感色々

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Atomospheric Lens

 こんな研究もあるんだな、はは~ん、と単純に感心。

 まあ、でも、気体をプラズマにするほどの高出力なレーザーの電源は、多分航空機には積めないんでしょうね。原子力発電所みたいなのを搭載しないと、多分ダメでしょう。

APA代表、やりおるのう

 ええぞ、もっとやれ、キシシシシシ……

 頑張れ頑張れ元谷~、フレーフレー右翼ぅ~っ!……てなもんである。私も無責任そのものだ。

 しかしまあ、スポーツ大会関係者などが「すんません、もうちょっと穏便になりませんか?」みたいなことをAPAホテルに申し入れた、なんてのは、まあ、大人としてはしょうがないんでしょうけどねえ。

ゴネて丸得、か?ケッ

 また「警察というのはデフォルトで『悪』だ!!」というような決めつけを人々に流布するような記事を見かけ、腹が立つ。

 読んでみたが、要するに、「疑いも間違いもなく信号無視をしたジジイが、ゴネまくって無用の裁判沙汰まで引き起こし、公器を混乱させた挙句、ゴネ得・逃げ得になった」という許せない話であって、警察が悪いという話じゃないじゃないか。

 ところが、世の中、こんなのをまた、そうだそうだ、悪いのは警察だ、警察が全部悪い、とばかり、溜飲下げつつ有り難がって読む人ばっかりなんだろうなあ、とウンザリする。

生活保護とジャンパーの件

 某市職員達がかなり前から生活保護不正受給を嫌うジャンパーやTシャツを作って着ていた。それが今頃になって叩かれている。

 まあ、無論、小田原市の職員も、言いたいことがあるんなら、もう少し考えて言いなよ、というところはある。

 しかし、私はネット一般の論調、すなわち「小田原市の職員は間違っている!謝れ!!」みたいな調子には反対だ。ただ、真向反対、というほどではない。どちらかというと反対、という程度だ。

 私費で買って着ていただけで、底辺職員の自発的な、ボトムから上がっていった運動のようなものであるように見受けられるところがある、というのも、一つだ。

 私費で何かをして悪いということなら、本来不党不偏であるべき地方公務員が、私費で赤旗新聞なんぞを半強制購読させられていることなどのほうがよっぽど悪い、というのも、もう一つ、まあ、ある。

 しかし、それよりも何よりも、このジャンパーには品がない。それがいけない。端的に言うと、私がツイッターにチョイと書いた、右のようなことが私の感想だ。

 「日本死ね」をOKとする人は、やはりこのジャンパー「保護なめんな」もOKとすべきだろう。

 逆に、「保護なめんな」をNGとする人は、「日本死ね」もNGとすべきだろう。

「何言ってんだこのオッサン。『日本死ね』は困っている一市民が言ったことで、『保護なめんな』は公僕が市民に向かって言ったんだぞ?!、発言の向きが根本的に違う、問題が違うわ!!」

……と言われそうだが、私が言っているのはそういうことではない。品がない、詩がない、知性もヘッタクレもない、そこのところなのだ。

昔話

 ある論評に違和感を持った。

 一口で言えば「イジメはいけない」という単純な一事を言っているだけなので、そのことには何の異存もない。大略、まったくその通りであり、私も大きく頷くばかりである。

 違和感と言うのは小さなことだ。

 この人は「昔(ばなし)」を取り上げて、

……退治された悪人(鬼)も、改心し反省すれば味方(子分)にするという寛容さがあった。『桃太郎』がその代表作であるのだが、絵本の中の鬼は悪行を働くときは正に鬼の形相だが、懲らしめられた後の子分として追従するときの顔はやたら柔和で仏の顔の如く変身している……

……としている。

 この部分について、「この人は、本当にリアルタイムで昔話を見聞したことがあるのだろうか」と感じたということが私の違和感だ。

 昔話の口承は、この人が桃太郎について言うような生(ぬる)いものではない。

 例えば、かちかち山の狸は婆さんを惨殺しただけではなく、死体をバラバラに凌断(りょうだん)し、これを煮て(むさぼ)り喰ったばかりでは(あきた)らず、自らは()ぎ取った婆さんの生皮を(かぶ)って変装し、(あまつさ)え爺さんに婆さんの肉を食わせるという地獄の悪鬼も逃げ出すだろうというほどの所業に出るわけだが、その報復に、放火されて大火傷(やけど)を負わされ、泣き叫ぶところに薬品(辛子味噌ですが)を塗り込められて悶絶し、大怪我で身動きもできなくなっているところを、最後には欠陥品の舟(泥船ですが)に強制乗船させられて溺死するのである。

 桃太郎の鬼どもは、乗り込んできた桃太郎に(ことごと)く惨殺され、金品をすべて略奪されて、あわれ鬼ヶ島は壊滅するのだ。

 猿蟹合戦の猿は、柿をぶつけて蟹の父を殺した報復に、火傷や怪我を負わされ、毒薬を注射され(蜂ですが)、臼に腰骨を砕かれて死んでしまう。

 つまり、

「狸に意地悪されたお婆さんのために、お爺さんと兎が狸をこらしめて注意し、狸が(あやま)ったので許してやり、その後は皆で仲良く暮らしました」

……だとか、

「降参した鬼たちは桃太郎の村に行って反省し、宝物を差し出したので、村の人たちは鬼を許し、皆末永く仲良く暮らしました」

……であるとか、

「猿は非を認めて謝ったので許してやり、皆で仲良くおむすびと柿を分け合って食べました」

……なんていうのは、実はこの30年ほどの間に捏造され改変された、いい加減で生(ぬる)い差し替えに過ぎないのである。これは、古い時代に民俗学者が聞き取って収集した昔話集成、例えば上掲の岩波文庫などを読めば、まことによく納得がいくことだ。

 昔話というのは、本来はゾッとするほど残酷なのだ。

 この部分については、論者の例えの引き方は、むしろ逆のほうが良かったのではないか。

「恐ろしい罪の観念、報復の恐怖、ひとたび犯した過ちの許されなさ、こういったものが、寛容な現代社会に生きる私たちには希薄になっていないか。「イジメをしようがどうしようが、嘘でも(あやま)っときゃ大人は許すワイ。『許すこと』は正義なんだから、ケッ」……などというなめた意識が悪い子供をイジメに走らせてはいないか。かつては昔話や、地獄の話が素朴な『(おそ)れ』の気持ちを子供たちに植え付け、それがブレーキになって弱い者いじめなどを思い(とど)まらせていたものだ。」

……というような論のほうが、昔話を引いてくるのには向いていると思う。

言葉
夷険一節(いけんいっせつ)

 上司からの部下への要望事項として、この言葉を掲げている人の話を見聞した。一体どこの爺さんかな、と思ったが、それがうら若い女性だったので、へえ、若いのによい言葉を知っているな、と思った。

 これは漢籍で、欧陽脩(おうようしゅう)の「相州昼錦堂記(そうしゅうちゅうきんどうき)」にある。

 大凡(おおよそ)これは、信念を()げない、というほどの意味と思えばよい。

 しかし、融通無碍(ゆうづうむげ)、状況に合わせて柔軟に、迅速に、男児三日見ざれば刮目(かつもく)してなんとやら、というような風がもて(はや)される昨今の世情にあって、よくうら若い女性がこれを掲げたな、と再度思うのである。(むし)天晴(あっぱれ)と言うべきか。
 

ウラがあるな

 例の「福島原発いじめ」のニュースだが……。

 ネット一般の批判は、「横浜教委はおかしい」と言っているふうに感じられる。

 しかし、私はこのネット一般の批判には反対だ。

 これには、多分、文字になっていない、報道されていないウラがある。それを視聴者読者が納得できる形にしてしまうと、たとえば個人情報やプライバシーの領域に触れてしまうため報道できない、とか、あるいは、被害者とされる側に何らかの事情があって、彼らをさらに追い込んでしまうことになってしまうからそれ以上の理由は発表や報道ができない、とか、何らかのさまざまな理由があるのではなかろうか。

 そういう制限された情報で「公務員、学校、教師、役所、警察官等が悪い、ってことにしとけばオッケー。彼らはデフォルトで極悪人集団だから」のような感想を持つのはやめたほうがよい。「こんなことするか、フツー……?」というようなニュースには、何かしら、ウラがあるのだ。

 自分自身がインサイダーであるニュースに接したことがある向きには、それがわかると思う。そういうニュースになったことがなければ、なった時にわかる。

 ま、これも仮定に過ぎませんがね。だいたい当たらずとも遠からずでしょうよ。

 例えば、こんな意見もある。

 この記事の2ページ目に「福岡教師いじめ事件」の顛末が参考として挙げられている。痛ましいことだ。ニュースだけで盛り上がるとこうなるからいけない。古い話だが、「松本サリン」だって、ニュースで盛り上がった人々によって、罪のない人がさんざんな目に遭った。それをよく思い出すべきだ。新聞やテレビなんてものは、そのことに関する責任を何も取らないのだ。謝罪記事だって隅っこの目立たないところに「すんませんでした(ケッ」みたいな吐き捨て気味の一行二行を載せるだけだ。そこを攻撃すると、「自由な報道が委縮する」だのなんだのと言って逃げるのだ。従軍慰安婦報道の朝日だってそうだしな。「百人斬り」報道の毎日だってそうだ。

空目

 「1月14日(土)」を1月14日(±(プラスマイナス))と空目してしまい、「なんだこりゃ、日にちに多少の前後があるってことか!?なんだ、こんないい加減な文書を起こしやがって……」などと憤慨しかけて、空目に気付く。憤慨しなくてよかった。

 老眼だ。

 もう、こりゃ、俺も老害の範疇だよなあ、これじゃ。

傭兵の二千年史 (講談社現代新書)

 引き続き。

 はしがきから、

 「歴史家のベネディクト・アンダーソンが、『想像の共同体』(白石隆他訳)のなかでこんなことを書いている。

 今世紀の大戦の異常さは、人々が類例のない規模で殺しあったということよりも、途方もない数の人々が自らの命を投げ出そうとしたことにある。

 つまり、「祖国のために死ぬこと」の「祖国」が途方もない規模に広がっていることに、アンダーソンは首をかしげているのだ。」

……と始まって、なかなかハナッからとばす。

 近代のナショナリズムに繋がる戦争史を支えたのは紛れもなく傭兵たちであったが、ところがこの男たちはナショナリズムとはまったく無縁の位置にいた。この男たちを追うことで近代のナショナリズムが解き明かせないか、というところから本書は書き起こされる。

 世界最古の職業は言うまでもなく売春であることは知る人ぞ知るが、その次に古いのは傭兵である。傭兵は世界で二番目に古い職業であることを本書は指摘する。

 ギリシャ、ローマの正規兵から、騎士団はだんだん傭兵化していく。時折挟み込まれる日本の事情も、遠く離れていながら実はヨーロッパの傭兵とそれほど変わらない。平家から始まる日本の武士たちも、ヨーロッパの傭兵団が略奪に精を出していたのと同じく、実は追剥(おいはぎ)や強盗を繰り返していた。

p.44

 ちょっとこれとは質が違うが、告発人と被告人が決闘で裁判の黒白をつける決闘裁判というのがある。イギリスではなんと、一八一九年まで合法とされていたこの決闘裁判ですら代理人を雇うことが多く見られた(『決闘裁判』山内進)。これも傭兵の一種と言っていいかもしれない。

 ついに分裂割拠の14世紀イタリアが、傭兵たちの大金脈となる。当初、最強の戦士集団として各地の戦場になくてはならなかったスイス傭兵団であったが、次第にドイツの「ランツクネヒト」傭兵団にその座を譲っていく。

 戦乱につぐ戦乱を経て、フランス革命、ナポレオン戦争へと時代が下るほどに、傭兵は国民軍に入れ替わっていく。

 だが、そのような時代に至ってもまだなお、傭兵は消えない。アメリカの独立戦争において、アメリカ側にフランスが援軍を差し向けたことは誰しも知るところだが、イギリス側にはドイツ諸領が多くの傭兵を金で売っていたことなどが記されている。

 現代のフランス外人部隊のことにわずかに触れたあたりで本書は終わる。本書は現代のナショナリズムを解き明かしているだろうか、と最後に著者は読者に問いかけている。

IT技術者の長寿と健康のために

 ツイッターのタイムラインだったか、FBのタイムラインだったか、どちらかで見たので、読んでみた。

 標題通りの本ではない。むしろ、医師であり、かつITプロフェッショナルであるという異色の人物をはじめとする専門家集団による面白い健康本、と見た方が良い。内容はIT技術者をターゲットにしてはいるが、それだけに限る話ではなく、非常に中正な健康と医学、成人病等に関する本である。著者の一人の、肥満や心筋梗塞の治療に関する挿話は、実体験だけに面白い。