読書

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 引き続き60年前の古書、平凡社の世界教養全集第12巻、「美の本体(岸田劉生)/芸術に関する101章(アラン)/ロダンの言葉(A.ロダン)/ゴッホの手紙(V.ゴッホ)/回想のセザンヌ(E.ベルナール)/ベートーヴェンの生涯(ロマン・ロラン)」を読んでいる。

 収載書の三つ目、「ロダンの言葉」(A.ロダン François-Auguste-René Rodin 著・高村光太郎訳・今泉篤男編)を読み終わった。

 ロダンと言えば知らぬ人のない大彫刻家であり、学校の教科書にも「考える人」の写真が載っているし、日本では上野の西洋美術館に「地獄の門」や「考える人」、「カレーの市民」の同鋳作品があるから、多くの人がその作品にも(じか)に接している。

 一方、訳者の高村光太郎というと、日本の誇る大芸術家で、こちらも知らぬ人などない。

 本書の成り立ちについては、「ロダンの言葉」というロダンその人の著作がもともとあったわけではなく、ロダンが数多く残した断章を、高村光太郎が収集・翻訳してまとめたものだ。高村光太郎は、ここにおいては透明な翻訳者であるが、しかし、その選択や表現におのずと高村光太郎の芸術に対する気持ちやロダンへの畏敬が現れ、自然「高村光太郎を通したロダンの言葉」となって本書はまとまり、光彩を放っている。また、さすがは彫刻家であることは勿論、詩人にして歌人、多くの文筆を残した高村光太郎の翻訳で、翻訳専業家や研究者の翻訳とは異なり、日本語として成り立たないような解りづらい表現が少なく、格調、詩的な美などが横溢していて読みやすい。

 本書の底本として挙げられている資料のうち、「クラデル編『ロダン』」というのがあり、ひょっとして「クラデル」というのは「クローデル」の古い書き方で、かのカミーユ・クローデルのことか!?愛じゃないか!……などと少し動悸が高まったが全然違っていて、この「クラデル」というのはジュディット・クラデルというロダンと同時代のフランスの女性ジャーナリストである。

気になった箇所
平凡社世界教養全集第12巻「ロダンの言葉」より引用。
他の<blockquote>タグ同じ。p.330より

 私の目指すのは、忘れてくださるな、諸君の旅する時ランス、ラン、ソワツソン、ボーヹーという光栄ある道筋を諸君が取るように納得させることである。

 ここで、「ランス」はランス・ノートルダム大聖堂 (Cathédrale Notre-Dame de Reims)、「ラン」はラン・ノートルダム大聖堂(Cathédrale Notre-Dame de Laon)であるが、「ソワツソン」「ボーヹ―」は聞き慣れないし、だいいち「ヹ」ってどう読むんだよ、などという声も聞こえてきそうである。これは「ヴェ」と思えばよい。古い翻訳なので、こういう仮名遣いが出て来るわけである。似たような古い仮名遣いには、「(ヴァ)」・「(ヴィ)」・「(ヴォ)」などがある。

 「ソワツソン」は想像のつく通り「ソワッソン」あるいは「ソワソン」で、ソワソン・サン=ジェルヴェ・サン=プロテ大聖堂(Cathédrale Saint-Gervais-et-Saint-Protais de Soissons)、ボーヹ―は「ボーヴェ」で、ボーヴェ聖ピーター大聖堂(Cathédrale Saint-Pierre de Beauvais)のことである。

 本書には他に、「ヹヌス(ヴェーナス)(ビーナス)」「(ヴァ)チカン」「(ヴェ)ネチヤ(ネチア)」というような標記も多々出て来る。

p.336より

ずいぶん長い間、中世期の芸術というものは存在していなかったと定められてあった。それは――わかるまで飽かずに繰り返すが――三世紀間も飽かずに繰り返していわれた侮辱であった。

 上の言葉は、ランスやサン・レミの大聖堂とそのキリスト教芸術に心からの賛嘆を述べた後に出て来る言葉である。

p.346より

 辛抱です! 神来を頼みにするな。そんなものは存在しません。芸術家の資格はただ智慧と、注意と、誠実と、意志とだけです。正直な労働者のように君たちの仕事をやり遂げよ。

 これは、同じようなことをアランも、ヴァン・ルーンも言っている。アランはミケランジェロの書簡の中にそうしたことを見出して戒めとしている。

p.358より

 芸術家は傾聴さるべきものである。

 ()ねられるのではない。聴かれるのだ!

p.361及びp.380より

 自然を矯正し得ると思うな。模写家たることを恐れるな。見たものきり作るな。この模写は手にくる前に心を通る。知らぬところにいつでも独創はあり余る。

 ……この言葉は、私の趣味の俳句にもあてはまるように思え、感じるところがあった。

 このようにあるためには、家から出て、多くのものを見なければならぬ。それを写さなければならぬ。

p.388より

 (クレールが彼の素描を見て日本芸術を思うといった時)

 ――それは西洋の手段で出来た日本芸術です。日本人は自然の大讃美者です。彼らはそれを驚いたやりかたで研究しまた会得しました。御存知の通り、芸術というものは自然の研究に過ぎませんからね。古代やゴチックを偉大にしたのはこの研究です。自然です。何もかもそこにあります。私たちは何にも発明しません。何にも創造しません。

p.404より

 自分の描形におめかしをする芸術家だの、自分の文体で賞讃をを博そうとする文学者だのは、軍服を着て威張るけれども、戦争にゆくのを断わる兵卒や、光らせるために鋤の刃を年中研いでいながら、地面へそれを打ち込まない農夫のようなものです。

言葉
塋崛

 そのまま音読みすれば「えいくつ」だが、本書中にはこの言葉に「カタコンブ」とルビが打ってある。

 「塋崛」で検索しても判然とはしないが、「塋」「崛」と文字ごとに調べれば、「塋」とは墓地のこと、「崛」とは山などが聳え立ち、抜きん出る、独立している様子を表すという。

 これらの意味からすると、「塋崛」でカタコンブを指すのも、無理はないようには思うが、しかし、同じ「クツ」でも、「窟」をあてて「塋窟」とした方が、地下墓地であるカタコンブには合っているのではなかろうか。……などと思って「塋窟」で検索してみると、やはりこのほうがヒットする。

 いずれにせよ、古い古い書き方と文字である。決して日本語の普通の文脈に出てくる文字ではあるまい。

下線太字は佐藤俊夫による。以下の<blockquote>タグ同じ。p.336より

 形律の感動! じつに古くからのものだ。かすかな道すじによって、思念は遡りまた流れ下り、ついにフランス建築の大河の源、塋崛(カタコンブ)にいたる。

靉靆

 「あいたい」と読む。(もや)(かすみ)のかかった、ボンヤリとした様子のことである。「靉」も「靆」も、「たなびく雲」という意味の漢字である。

  •  靉靆(goo辞書)
  •  (漢字ペディア)
  •  (同じく)
p.349より

 この朝は最後の地平線にいたるまで静かである。いっさいが休む。いたるところのんびりとした、整然とした効果に満ちる。幸福はそこら中に見えている。好い日和に色づき薫らされた靉靆(あいたい)の気。

剜型

 「剜型(くりかた)」だが、()み方は(わか)っても、なんのことやらさっぱり知らず、この字で検索しても出てこない。

p.354より

 剜型(ムーリユール)は、その内面精神で、その本質で、製作家のあらゆる思想を再現する。言明する。剜型(くりかた)を見、剜型を会得する者は建築を見る。

 最初のルビの「ムーリユール」で検索しても、さっぱりわからない。

 ところが、「繰形」でWikipediaを見ると、「廻り縁」のことであるとわかり、更にそのフランス語版を見ると、「Moulure」とあって、「ムーリヨ」みたいな発音である。

 しかし、ここで言っている「剜型」というのは、次のようなもののことであろう。

 本書中の他の部分でも、「卵型を埋め込んだ……」云々、と言及しているところがあるからである。

冕冠

 「冕冠(べんかん)」と読む。古い時代の日本の天皇はもちろん、東洋の国王や皇帝が着用した冠のことである。

 「冕冠」の「冕」の字は、「冠」とほぼ同じ意味と思ってよい。

  •  (モジナビ)
p.357より

 私が人体に多くの変化ある美があり、多くの偉大があるという時、私は、閉じ込められているこの傑作の中の魂が、すなわちこの傑作の冕冠であり、主権であるということを、明らかな真理として仮定しているのである。体躯の中から魂を発見しましょう。

盤桓

 「盤桓(ばんかん)」。のろのろと歩き回ることである。

p.361より

 心は傑作の上に盤桓する。われわれは傑作に対してしか心を持たない。

甕想

 これが、辞書を引いても、漢和辞典を引いても、まったく意味が解らなかった。どなたか教えていただきたい。読みは多分「甕想(おうそう)」でいいと思う。意味は、字義から言うと、恐らく胸に抱いている想い、というようなことではないかと思う。

p.391より

世人の考えるところでは、私は何かしらぬ異常なもの、夢幻、文学的彫刻、つまりあの人たちの想像の中にしか存在しないような甕想を求めていたというのです。

 次は四つ目、「ゴッホの手紙 Correspondance generale de Vincent Van Gogh 」(V.ゴッホ Vincent Willem van Gogh、三好達治訳)である。

 美術家のゴッホの手紙を、これまた高名な詩人である三好達治が訳したというものだ。