時事雑挙

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 通勤経路の他所(よそ)のお宅の庭に木槿(むくげ)が咲いた。

 美しい。

 写真にでも撮りたいところだが、他所のお宅の庭なんか写真に撮って、犯罪者だと思われても困るし、向こうでも気味悪くて迷惑するだろうから勝手なことはできず、残念である。

自然な農業を歪めているのは誰

 私は農業関係者ではない。しかし、おいしい野菜や果物を食べたいという単純な欲求は持っている。

 去年の話題ではあるが、「種苗法」の運用により、自然な農業のなりゆきと感じられるような、例えば「収穫から種を採り、それを分けあって()き、更に収穫を増やして共存する」などということが出来なくなっていくであろう、……というふうに書いているメディアがある。

 パッ、と、そこだけ切り取って聞くと、「なんと不自然なことだ。天然自然の農業を歪めるものだ」という感じがしてしまう。上掲は去年の記事だが、この記事のように、「米国の大企業の支配構造に農業を組み入れる暴挙であると同時に、生態系や人間の健康に重大な影響を及ぼしかねない」というようなことを書きたてているところが多いようだ。

 しかし、冷静に見ていくと、そういうことばかりではなさそうである。

 もともと、苦労を重ねて改良された、日本の優れた農産品が、無秩序に中国や韓国に持ち去られ、勝手に播種(ばんしゅ)栽培、更には増産されて日本に輸入され、平穏な日本の農業需給を荒らすというような、そういうことが問題となったから、種苗の取引に一定の秩序を付与しよう、ということらしい。

 言われてみれば、苺や柑橘類、米穀などで損害を被る事態になっていることがニュースになっていたのを、深刻に思い出す。

 どうも、落ち着いて見ていくと、「米国の支配」云々、ということを言い立てているところは、地方紙など、反社会活動に(くみ)するような、変なところが多いようだ。

 何であれ政府や役所のすることは全部間違いだ、などということを言うのが好きな人が多いかのように感じられるよう仕向けて行く、というのは困ったものだ。

「余っている」

 企業の経営は苦しいらしく、リストラもよく行われる。本当に企業が苦しいのか、お金を多く儲けようという商売の自然な道理に従っているだけなのかは私にはよくわからないが、こんな記事があった。

 この中に、

(引用)

余った従業員は介護などを手掛けるグループ企業に配置転換し、新卒採用も抑える。

 というくだりがある。

 これにびっくりする人もいる。

 まあ、「余った従業員」という言葉に、労働者の悲哀を(かえりみ)ることもない巨大利権構造と政府及び社会の冷酷無情を見て取るか、最近の新聞記者の語彙(ごい)(すさ)み方を見て取るか、それはまあ、人それぞれだと思う。

 私はどちらかと言うと、記事が乱暴な態度で無造作に書かれているだけではないかと思う。つまり、新聞記者の語彙が低劣化しているのだと見る。

 種類の違う話だが、(かしこ)し、()ぐる年、上皇后陛下が「『生前退位』なる新聞やテレビの言葉に痛みを覚えた」と漏らしあそばされたことがあった。

 余談だが、なんと(いきどお)ろしいことに、大新聞・大テレビは上皇后陛下のこのお言葉をすべて無視したのである。新聞・テレビなど、悪しき呪術にも似て、怨念や不安を増大させ、世の中を混乱と恐怖に(おとしい)れようとしているとしか思えない。いっそ天罰でも下るがよいわ。……と言って、私のブログの時事エントリなど、大新聞や大テレビの記事やニュースがなくては表すことができないのだが(苦笑)。

 さておき、その時と同じような痛みを共感すると同時に、私は「余った従業員」という言葉しか書けない新聞記者を哀れに思う。

 その新聞記者が悪いのではないのだ。教科書や国語のテストに出てきた言葉しか、彼らは知らないのだ。新聞記者と言うのは学歴が高く、子供時代は勉強に明け暮れているから、余裕のある時を過ごして読書したり人と話したりする機会を持てなかったのだ。しかもなお、光輝ある新聞記者の地位を得てみたら思いの(ほか)、取材に追いまくられ執筆に追いまくられ社内の雑用に追いまくられ、のんべんだらりと文章を推敲している暇などあるわけもなかろう。自分の貧弱な言葉をひねり出して日々の仕事をこなしていくしかない。生来言葉にいたわりや悲しみ、温かみなど盛り込むことに縁のない怜悧な人物たちだ。だから、人をいたわる言葉が書けず、「余った従業員」だの、場合もあろうに「生前退位」などと記して、しかもその言葉の何が悪いのかもわからないのだ。

パジェロ販売終了

 ほほ~……。

 パジェロは官公署、例えば自衛隊などでも採用されているので、何かと波乱がありそうだ。

 私も若い頃、パジェロが欲しかったが、それよりやっぱり小粒でイカしたスズキ・ジムニーのほうが好きで、長いことジムニーの幌車に乗っていた。結婚を機に四駆への興味が薄れ、パジェロもどうでもよくなったが、販売終了となるとまた懐古の情がそこはかとなく胸に生じる。

まあ、普通かなあ

 時代に照らして、まあ、そうでしょうねえ……。

 ただ、まあ、「職場のことをネットに流すなッ!」というのは、若い人には、折に触れ教育しておかなくてはいけない。警察官が取り調べ中の事件のことをツイッターに書いたり、銀行員が有名人の貯金残高をFacebookに書いたり、メーカーの人が開発中の新商品のことをYouTubeで流したり、そんなこと、法律や社規以前に、常識で判断したってダメですからね。

 一方、「今日、叱られて落ち込んだ」とだけ、ポツリとTwitterに書いたとして、それは、今時、責められぬ気はする。暑苦しい人間関係を避けることが望まれる昨今、その受け皿はSNSだったりするんだろうし。

ものの作り方も国際的になっていて

 産業振興などにつながるならそれも(むべ)なるかな、と感じなくもない。

 昔、三菱重工が「F1戦闘機」を開発した頃は「日本、『ゼロ』から『1』へ」などと海外メディアに書かれたものだそうだ。

 なんとなく連想するのは、ヨーロッパなどは第1次大戦や第2次大戦で、ドロドロの国際関係を持っていて、むしろその昔の第1次大戦の時代の方が、自国以外の兵器、ともすれば敵国の兵器で戦っていたりするのだ。

 ドイツ製の火砲をフランスが重宝していたりしたと聞いたことがある。いつぞや読んだ本によると、第2次大戦中のスイスなんか、中立国だが、ドイツのメッサーシュミットを買って領空侵犯機を叩き落としている。

 余談だが、中立国であるスイスの上空をアメリカの戦闘機が領空侵犯したため、スイスはこれを撃墜した。戦時下だから、アメリカ・イギリスだろうとドイツだろうと、どの国に対してもそうしたのである。ところがこれに激昂したアメリカは報復の挙に出た。国もあろうにスイスにB29を差し向け、都市無差別爆撃を敢行したのだ。この爆撃で、スイスの一般市民にはおびただしい死者が出た。あまり知られていないがこれは史実で、アメリカ側にとっては思い出したくもない汚点となり、スイスとのしこりともなって今も残っている。

 話がそれたが、仮に国産で戦闘機を作ったとして、部品の多くはやっぱり米国製で、サプライ・チェーン上、もはや国産がどうとか論ずること自体が無意味なのではないだろうか。

へえ、「みさき公園」がねえ……。

 私の生まれ育ちは大阪の堺市だ。その近くの岬町に昔からある「みさき公園」が閉園するのだという。

 私なども子供の頃、何度か行ったものだったが。しかし、うんと小さい頃だったものだから記憶は遠い。確か伯母も一緒だった。陽光の中、青い芝生の中で遊び疲れ、土管のような大きな遊具に入って楽しんだような気がする。追憶、と書けば的確だ。その伯母も先頃亡くなった。……まあ、私にとっては懐古の情(ノスタルジー)の場所ではある。

 まあ、そりゃあ、当時と違って今は子供も減っているし、どうしたって子供相手の場所であることを否定できない遊園地が赤字になるのは、これはもうしょうがないわなあ……。大人、就中(なかんづく)、子供の減少とは逆に増え続けている、退職老人などが日参するような場所にでもなれば別なんだが。

だいぶ前の記事だけど

 ……(こわ)ッ!

 不動産屋(ぢめんし)怖いッ。……私は土地なんか持ってなくて、良かったと思う。私の親も地面の財産なんかないし、貧乏人で本当に良かった。

け、経団連?……て……。

 私は会社の経営のことなどサッパリわからないが、Facebookみたいな、なんとなく「若者の企業」みたいな感じのするところが、口に出して言うとおっさん集団の代表みたいな響きの感じられる「経団連」なんてところへ、入るもんなんだなあ。

 他にも、GoogleもAppleもAmazonも、み~んな入ってる、などと書いてあって、へぇ~……、と思う。

いやこれ、いくらなんでも

 う~ん、どうなんだろ。

 「言葉に痛みを覚える」ということには私は共感する。人間に対して「その他」とは、雑な書き方だなァ、とも思う。

 が、しかし、「その他」以外、どうにも書きようがないだろ、こんなの(苦笑)。

 「男 女 性的マイノリティ」なんて書いた方がよっぽど無残な書き方になっちゃうし。

イソ子

 あ~、この映画、やっぱりイソ子関連なんだ。

 でも、イソ子も悪いと思うよ。官房長官にハラスメントみたいなことするからだよ。

大泥棒がやくざの嫁ってのは、逆に普通な感じすらするな

 なんか、生まれる場所や状況が違ってたら、すごい才能を発揮したのかもしれんな。職人とか、名人とか。

繁盛店・潰れ店雑想

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 Facebookのタイムラインに、時々「更科堀井」の広告が出る。更科堀井は私が好きな蕎麦(みせ)の一つで、麻布十番にある。(たま)さかに麻布や六本木近くに寄ることがあると手繰(たぐ)りに行く。

 独特の白い更科蕎麦は(しなや)かで旨い。勿論その味は昔から名代(なだい)のものだ。とても繁盛していて、いつ行っても混んでいる。

 更科堀井の広告には、季節ごとに、おいしそうな種物(たねもの)がよく出る。

 蕎麦屋は季節の蕎麦をいろいろと用意できる。一見バリエーションがなさそうな(もり)蕎麦や(ざる)蕎麦でも、桜や茶、海老、柚子など、季節のものを練り込んだ「変わり打ち」が出る。天婦羅蕎麦であれば、天種には色々なものがあるから、季節ごとに様々な天婦羅が蕎麦と一緒に楽しめる。汁掛けの温かい蕎麦になると、山菜、(にしん)、松茸、牡蠣(かき)、大晦日には年越蕎麦など、季節の味に事欠かない。

 冬だから牡蠣蕎麦を手繰りに行こうか、春だから桜の変わり打ちを手繰りに行こうか、と、季節ごとに味覚を思い出し、食べに行きたくなる。その季節にしか食べられないから、なんとしても行こうという気になる。

 そんなわけだから、更科堀井のFacebook広告は、折々、季節感一杯に表示され、食欲が刺激される。

 多分、更科堀井は、これからもずーっと人気店のままだろう。よほどのことがない限りは(つぶ)れることなどあるまい。

 他方、ふと、これが新規開店のラーメン屋だったらどうだろう、と思う。

 ラーメン屋は新規開店後、4年から7年でほとんどが潰れてしまい、軌道に乗って生き残るのは8%ぐらいしかない、と何かで聞いたことがある。生き残る店は1割以下だということだ。

 念のために書き添えれば、これは何もラーメン屋に限ったことではなく、更科堀井のような大老舗は別として、蕎麦屋だって同じことだ。潰れるのは飲食店だけのことではなくて、起業した会社は平均すると日本の場合7年で潰れ、世界的には4年で潰れるのだそうである。日本には明治時代から100年も残る会社があるが、こんなのは稀有な例だ。そんな中には例の「東芝」もあるが、アメリカの毒饅頭入り会社など買い取ったせいで軒先が傾いたのは、実に惜しいことだった。

 さておき、ラーメン店が広告を出すにしても、蕎麦屋のように季節ごとに何か、というわけにはいかない。ラーメン店で季節感が出せるものなんて、せいぜい冷やし中華くらいで、あとは年がら年中同じ味、同じメニューである。だから店ごと独自に何かのイベントでも打つか、近隣のイベントに合わせて何かするしかない。あるいは商品開発をしてメニューにどんどん新しいものを加え、それを機会に広告を出し続けるかだ。

 私の住む街に開店するラーメン店は、確かに、まったく長持ちせず、続々と潰れている。特に個人の店は無残に潰れていく。個人で商品開発を行うなんて、経営しながらでは無理というものだろう。いきおい同じメニューばかり出すしかなく、客は開店時に物珍しさで1回行けば、それでもう飽きてしまい、二度と行かない。

 ふと、中小企業診断士の先生がラーメン屋を開店したとしたらどうだろう、うまくいくのかな、いや、ダメなのかな、などと思い浮かぶ。

 結論は多分見えていて、うまくいかないだろう。ラーメンの技術は診断士の先生にはないし、現実のラーメン店経営は経営理論どおりでもないだろう。