同窓生と雑談チャットをしていて、「堺・乳守」というゆかしい地名を聞いた。
私は大阪・堺、世界最大の陵墓として有名な伝・仁徳天皇陵や、東京・府中に次ぐ規模の巨大刑務所、大阪刑務所に程近い、田出井町というところの生まれ育ちである。
乳守。乳守と書いて「ちもり」と読む。たしかに、聞き覚えがある。昔、大人たちの雑談の端にあらわれていた。「堺の旦那衆」の御大尽な遊びの話の中に「戦前にナ……」などという前置きとともに語られていたものだ。
だが、忘れていた。だから、「乳守」は、同窓生にほとんどはじめて教わった地名と言ってよい。
遊里である。同窓生によると、京・祇園よりもまだ古い、鎌倉・室町のむかしにまでさかのぼる遊郭(正しくは花街)であったそうな。堺の古い遊里は高須、乳守の両地区が渾然一体となっていたようだ。
だがさきの大戦は由緒にも容赦なく、乳守は戦災で壊滅し、今はその片鱗すらもない。現在の地図ではこのあたり(Google Maps)である。
かの一休禅師宗純が傾城地獄太夫に会ったのは、乳守の廓であるようだ。一休は堺の名刹・南宗寺に住んだので、乳守の遊里に遊んだとしても不思議はなかろう。「門松は冥途の旅の一里塚めでたくもありめでたくもなし」という歌や、「聞きしより見て美しき地獄かな」「生き来る人の落ちざらめやも」という歌が乳守と一休の由緒として伝えられてあるようだ。
上方落語に「すみよし茶屋」という噺があり、その中に、この地獄太夫と一休禅師の話がでてくるらしい。また、「三枚起請」という噺にも出てくる。三枚起請のほうは、舞台を吉原に直して、東京でもかかるという。手元の蔵書「上方落語」(ISBN4-06-203330-5)を繰ってみると、「すみよし茶屋」は載っていないが、「三枚起請」は載っている。だが、この蔵書では由緒のある乳守ではなく、「堺の新地から難波の新地へ移った妓」ということになっているようだ。
この「三枚起請」のサゲは、「別に烏に怨みはないけども、あたいも勤めの身。世界中の烏を殺してゆっくり朝寝がしてみたい」となっている。東京では高杉晋作の作と言われている都々逸「三千世界の烏を殺し主と朝寝がしてみたい」にからめて語られるようだ。
子供の頃の私などが度々耳にすることがあった遊所というと、旧軍隊の衛戍地にはつきものの「新地」(『青線』であったろうか)、「信太山新地」などである。乳守は、いわゆる「新地」の信太山などとは比べものにならぬ、「一見さんはお断り……」の、由緒と格式を持ったれっきとした遊里であったものであるらしい。