深大(じんだい)()

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 祝日「敬老の日」の一日、調布市にある古名刹「深大(じんだい)()」へ詣でて過ごした。

 私の(すま)()越谷市からは、日比谷線で秋葉原まで行き、「岩本町」(実質秋葉原と同じ駅と思ってもよい)で都営新宿線へ乗り換える。そこからは調布駅まで乗り継ぎなしの一本である。

 調布は円谷プロダクションと何かゆかりがあるらしい。調布駅に着いてみると構内の壁にはいろいろな怪獣特撮映画のデザインが施してあった。写真は「大魔神」のデザインである。



 深大寺のサイトなどを見るとバスやタクシーでのアクセス案内が出ているが、調布駅から深大寺まではせいぜい2km強の道のりしかなく、歩いても30分かそこいらであるから、のんびり風物でも見ながら歩くことにする。

 都内とはいえいわば地方都市に過ぎぬ調布市ではある。しかし土地柄は古く、深大寺の周りには多くの神社仏閣がある。拝めるものは全部拝んでしまえ、とばかり、いちいち入って参拝する。

 写真は上から新義真言宗三栄山大正寺布多(ふだ)天神(てんじん)()(はく)神社である。

 そんなわけで、30分のところを1時間くらいかけて歩く。

 調布駅を出て、北へ北へ適当に歩けば、目的地、すなわち天台宗別格本山・浮岳山深大寺に着く。写真は山門である。

 天台密教、すなわち「台密」の道場であるから、お布施をすると護摩(ごま)修法(しゅほう)加持(かじ)()(とう)をしてもらえる。土日祝日は11時から、とのことであったので、私もさっそく申し込む。身体健全を願文(がんもん)(したた)める。

 護摩修法の本尊は天台宗比叡山延暦寺中興の祖、元三(がんざん)(だい)()こと慈恵(じえ)大師(りょう)(げん)である。

 お三方の僧職が護摩を修法し、加持祈祷してくださる。

 私の宗旨は真言宗であるが、受け(がた)()つ聞き難くして(なお)今まさに聞く広大なる仏法、甚深微妙な加持祈祷に何の(さわ)りがあろう。そういうわけで、宗旨にはこだわらず加持祈祷して頂く。

 真言宗のお寺だと加持祈祷には「歸命毘盧遮那佛(みょう~びるしゃな~)」と理趣経を唱えて貰えるが、台密道場の深大寺では「観音経」、すなわち「世尊妙相具(せそんみょうそうぐ~) 我今重問彼(がこんじゅうもんぴ~)……」で始まる「妙法蓮華経観世音菩薩普門品(みょうほうれんげきょうかんぜおんぼさつふもんぼん)第二十五」の「()」と、よく知られる「般若心経」での加持祈祷であった。

 そのあと、導師がありがたい法話を聞かせてくれる。たまたま赤ちゃんを連れてきていたご家族があって、赤ちゃんが大きな声で泣いていたのだが、そのことをよい題材にして、赤ちゃんが大声で泣いたところでなんであろう、我々大人もかつては頑是ない赤ん坊であった、子供も大人も支え合っている、自他を認め合うということ、それは昨今話題になることの多い交通安全も同じこと。米一粒であっても農業従事者だけではない、それを運ぶ物流の働き手、その働き手が動かす自動車、自動車を動かす油、等々、何百何千という人々が支え合ってはじめて一粒の米が我々の口に入ることを思いみれば、社会をつくっていく上でも自他を認め合っていくことほどよいことが他にあろうか……。そういった「ダイバーシティ」にも通ずる内容であった。

 見受けるところ、密教修法のみならず(けん)(ぎょう)(せん)()にも大いに力を入れているようだ。顕密(けんみつ)(りょう)()ての寺と見た。

 お札を貰い、境内を見物して回る。

 深大寺は東国では最古と言われる国宝・釈迦如来像が有名だ。通称「白鳳佛(はくほうぶつ)」と呼ばれ、造像は遠く飛鳥時代に(さかのぼ)る。写真は拝観所「釈迦堂」への入り口なのであるが、お堂は鉄筋コンクリートで厳重に造営され、拝観料300円は特別に納めるようになっていた。無論、写真撮影などはもってのほかの厳禁である。

 そうはいうものの、しかし、さすがに貴重な仏像で、拝んでいるとなにやら清澄な気分となり、法悦が味わえたように思われる。

 境内には句碑・歌碑が数多くあり、これも面白い。写真はそのうち、高浜虚子の句碑で、「遠山に日の当たりたる枯野かな」である。

 伽藍(がらん)はアップダウンの大きい山中にあり、堂宇数多(あまた)、拝むところは沢山(たくさん)ある。うろつきまわって、大概の堂塔尊像を拝んで回る。

 やがて、昼時となる。深大寺と言えば有名なのが門前の「深大寺蕎麦」である。蕎麦好きの私としては、実際コッチのほうが目的なのでは、などと皮肉られても文句は言えないところだ(苦笑)。

 深大寺はもともと豊富な湧水を持ち、それで水車を運用して蕎麦を挽き、これが()(だい)となったもののようである。寺の縁起も水神「深沙大王」の顕現にあるというから、さもあろうか。

 写真は実用のものではないが、往時この地点にあった、4メートルにも及ぶ大きな蕎麦挽き水車の記念復元だそうである。さすがに今は4メートルもの大きさはないが……。

 蕎麦店は寺域内だけでも20店を超える。どのお店に入ろうか迷うが、私は山門の西の方にある「大師茶屋」というところへ行ってみた。

 10分ほど待ったが、すぐに先客が()け、窓際の、庭の眺めがいい奥の席に案内された。

 窓は開け放ってある。庭はいい感じに日陰の濡れた木立で、(せみ)時雨(しぐれ)が心地よい。

 とりあえず天婦羅と、酒を一本。

 酒が冷えていて、旨い。天婦羅は獅子唐辛子(シシトウ)、南瓜、椎茸、海老、茄子。

 盃に一杯酒が残っている頃合いで、「もり」を頼む。

 さすが有名どころの有名蕎麦である。手慣れた味で完成されており、実にうまい。

 そろそろと帰りかけようとしていると、Twitterで相互フォローのコリコムタンさんが、「調布に来たら『鬼太郎広場』というのが面白いですよ」と教えてくれたので、そこへ行ってみた。

 ドッチが妖怪なのだか、よくわからない写真など撮って楽しむ私なのであった。

 ほどほどに歩き、帰宅した。連休中の楽しい一日であった。

キリスト教と北朝鮮

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 今日は話題の映画二本をハシゴしてきた。以前も見たいなあと書いた「沈黙」「太陽の下で」だ。映画のハシゴなんてことは、生まれて初めてした。

 どちらも見応えがあった。



 「沈黙 ―サイレンス―」は原作に忠実な映画だったが、ラストシーンにはかなり野心的というか、原作に対して挑戦的な解釈が加えられていたと思う。

 「太陽の下で」は興味深く、私としては見応えはあったが、反面淡々とした映画で、映画評で騒ぎ立てられているほどの見応えでもなかった。とは言え、平壌の景色風物、主人公の少女の心の動きが活写されていて、それに費やした制作陣の労苦を思うと興味深かった。あのような映画が公開されて、製作陣や、(いわ)んや少女の一家が苦難に()ったりしていなければよいが、と思う。

 二つの映画を見て、洗脳、という言葉が我知らず反芻される。キリスト教の洗脳と、北朝鮮主体(チュチェ)思想の洗脳だ。その二つの共通項にどうしても思いが向いてしまう。

 多分、私などが「往古のキリスト教宣教師など、教会に洗脳された狂信者集団だ、その教会はエホバの威圧によせて支配と圧迫を強制するもので、所詮北朝鮮の中間軍人や官僚と異なるところなどない、彼らが(さげす)む特攻隊、カミカゼよりも残酷で非人道だ」と(うそぶ)けば、いやそれは違う 、それは偏った見方だ、純粋なキリスト教徒を洗脳したのは日本の幕府の方だろうなどと本気で反論されるだろう。だが私に言わせれば、キリスト教だからと言って正義だ洗練されているカッコいい頭良さそう、とばかり無条件に加点から始めるような人の方が偏っている。「アメリカサイコー!」も「金日成(きんにっせい)マンセー」も、結局一緒だということだ。

 筋金入りのキリスト教徒・遠藤周作はそこが分かっていたと思う。文庫でたった300ページほどに過ぎないあの短い原作で、それを言内言外両面からえぐり出して見せている。

 残念ながら、名監督マーティン・スコセッシにしてなお、多少見解に相違があるようだ。スコセッシは最後のシーンの作り込みで、そこのところを惜しくも取り(こぼ)してしまったのではないかと私には感じられた。

 他に、読書感というのは変わるものだと強く思った。

 私が「沈黙」を読んだのは二十年以上前で、神戸松蔭を出た妻の持ち物の中にあったから手に取ったものだった。

 私はキリスト教なぞ大嫌いだ。その説くところも嫌いだし、歴史的背景や、まとっている空気感も生理がうけつけない。

 だが、数十年来それを理解すべく、無駄なこととは知りながら努力をしている。なぜそんな努力をするかというと、殺し合いが良くないことだと思うからだ。相互に解り合おうとしなければ、また殺し合いが繰り返される。

 今日映画を見るつもりだったからこの機会に読み直そうと思い、妻に「あれ、どこにいったかな」と問うてみても、この数十年、引っ越しを繰り返した後のこととて詮もない。

 昨日駅前の書店で文庫を(もと)めなおし、今日映画を見る迄の間、久しぶりに読み直してみたのだ。

 私にとっては沁み入るように美しく、かつ、尖った文体と構成だと再び思う。

 昔読んだときと違って登場人物が若く感じられる。

 覚える痛みの質も違う。若い頃はキリスト教徒の痛みに強く共感したが、今は主人公の敵である日本の武士たちの描写すら痛く感じる。思えば老練の書き手遠藤周作は、それを当時から全て書きとってあった。作品は発表当時から寸分も変化していないのだ。

 遠藤周作は、情報取得不自由な往時にあって、調布にある岡本三衛門ことジュゼッペ・キアラ(主人公ロドリゴ・岡田三衛門のモデル)の墓所をも訪ね調べたものであろうか。そうした営為を思うと、作家と言うのは(あだ)(おろそ)かなものではない。こんなに苦しく痛く残酷で緊張した文章を、読み手にとっては読めば半日のこととはいえ、書くのにどうやったらいいのだろうかと、想像すらつかぬ。