読書

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 約60年前の古書、平凡社世界教養全集第6巻「日本的性格/大和古寺風物誌/陰翳禮讃/無常といふ事/茶の本」のうち、最後の収録作、天心岡倉覚三の「茶の本」、帰りの通勤電車内で読み終わる。

 晩年米国ボストン博物館内に暮らしたという異色の人物の、全文英文で(あらわ)された、これまた異色の書である。

 日本の茶道を、世界中での喫茶の習慣や、中国における歴史的な喫茶の風儀と関連づけて論じるとともに、禅との関係性によって定義しようとするものであった。

 上のように書き出してみると現代に生きる私たちにはあまり違和感はないが、その私たちの茶道に対する認識の基礎になっているものは、他ならぬこの岡倉天心が近代において唱えたものであり、「茶の本」が著された明治時代の末頃では、むしろ異色の見解であったと言えるのではないだろうか。


気に入った箇所
平凡社世界教養全集第6巻「日本的性格/大和古寺風物誌/陰翳礼讃/無常という事/茶の本」のうち、「茶の本」から引用。
他の<blockquote>タグ同じ。
p.424より

茶道の影響は貴人の優雅な閨房(けいぼう)にも、下賤の者の家にも行き渡ってきた。我が田夫は花を生けることを知り、我が野人も山水を()でるに至った。俗に「あの男は茶気(ちゃき)がない」という。もし人が、わが身の上におこるまじめながらの滑稽(こっけい)を知らないならば。また浮世の悲劇にとんじゃくもなく、浮かれ気分で騒ぐ半可通(はんかつう)を「あまり茶気があり過ぎる」と言って非難する。

p.435より

 翻訳は常に叛逆(はんぎゃく)であって、明朝(みんちょう)の一作家の言のごとく、よくいったところでただ(にしき)の裏を見るに過ぎぬ。縦横の糸は皆あるが色彩、意匠の精妙は見られない。が、要するに容易に説明のできるところになんの大教理が存しよう。(いにしえ)の聖人は決してその教えに系統をたてなかった。

p.438より

昔、釈迦牟尼(しゃかむに)、孔子、老子が人生の象徴酢瓶(すがめ)の前に立って、おのおの指をつけてそれを味わった。実際的な孔子はそれが()いと知り、仏陀(ぶっだ)はそれを(にが)いと呼び、老子はそれを甘いと言った。

p.438~439より

われわれはおのれの役を立派に勤めるためには、その芝居全体を知っていなければならぬ。個人を考えるために全体を考えることを忘れてはならない。この事を老子は「虚」という得意の隠喩(いんゆ)で説明している。物の真に肝要なところはただ虚にのみ存すると彼は主張した。例えば室の本質は、屋根と壁に囲まれた空虚なところに見いだすことができるのであって、屋根や壁そのものにはない。水さしの役に立つところは水を注ぎ込むことのできる空所にあって、その形状や製品のいかんには存しない。虚はすべてのものを含有するから万能である。虚においてのみ運動が可能となる。おのれを虚にして他を自由に入らすことのできる人は、すべての立場を自由に行動することができるようになるであろう。全体は常に部分を支配することができるのである。

p.445より

利休はその子紹安(じょうあん)が露地を掃除(そうじ)し水をまくのを見ていた。紹安が掃除を終えた時利休は「まだ充分でない。」と言ってもう一度しなおすように命じた。いやいやながら一時間もかかってからむすこは父に向かって言った、「おとうさん、もう何もすることはありません。庭石は三度洗い石燈籠(いしどうろう)や庭木にはよく水をまき蘚苔(こけ)は生き生きした緑色に輝いています。地面には小枝一本も木の葉一枚もありません。」「ばか者、露地の掃除はそんなふうにするものではない。」と言ってその茶人はしかった。こう言って利休は庭におり立ち一樹を揺すって、庭一面に秋の(にしき)を片々と黄金、紅の木の葉を散りしかせた。利休の求めたものは清潔のみではなくて美と自然とであった。

p.452より

 実に遺憾にたえないことには、現今美術に対する表面的の熱狂は、真の感じに根拠をおいていない。われわれのこの民本主義の時代においては、人は自己の感情には無頓着(むとんじゃく)に世間一般から最も良いと考えられている物を得ようとかしましく騒ぐ。高雅なものではなくて、高価なものを欲し、美しいものではなくて、流行品を欲するのである。一般民衆にとっては、彼らみずからの工業主義の尊い産物である絵入りの定期刊行物をながめるほうが、彼らが感心したふりをしている初期のイタリア作品や、足利(あしかが)時代の傑作よりも美術鑑賞の(かて)としてもっと消化しやすいであろう。

p.454より

原始時代の人はその恋人に初めて花輪をささげると、それによって獣性を脱した。彼はこうして、粗野な自然の必要を超越して人間らしくなった。彼が不必要な物の微妙な用途を認めた時、彼は芸術の国にはいったのである。

言葉
カメリヤの女皇

 「カメリヤ」とは椿(つばき)のことである。他方、「茶の木」はツバキ科ツバキ属の常緑樹であることから、岡倉天心は茶を楽しむことを「カメリヤの女皇に身をささげる」と(たと)えたのである。

下線太字は佐藤俊夫による。
p.425より

してみれば、カメリヤの女皇に身をささげ、その祭壇から流れ出る暖かい同情の流れを、心ゆくばかり楽しんでもよいではないか。

 今、「カメリヤの女皇」で検索してみると、岡倉天心に関する論文などが上位に来る。やはり本書中でも有名な比喩なのだろう。

 次は同じく世界教養全集第7巻「秋の日本/東の国から/日本その日その日/ニッポン/菊と刀」である。今度は第6巻と打って変わって、すべて外国人による日本論である。


読書

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  60年前の古書、平凡社世界教養全集第6巻「日本的性格/大和古寺風物誌/陰翳禮讃/無常といふ事/茶の本」のうち、谷崎潤一郎の「陰翳禮讃(いんえいらいさん)」を朝の通勤電車内で読み終わる。

 ひとつ前の収録作品「大和古寺風物誌」も非常によく私の体質に合い、読んで楽しかったが、こちらも非常に楽しかった。大和古寺風物誌は純粋な古寺古佛への信仰と美への讃仰(さんぎょう)、そして抒情に溢れた真面目な随筆であったが、この「陰翳禮讃(いんえいらいさん)」には少し砕けた、ふざけたところやユーモアが感じられ、さすがは小説家谷崎潤一郎、と思った次第である。評論家は正しい文章を書くが、小説家は楽しい文章を書くのだ。正しさは二の次であるに違いない。

 収録は標記の「陰翳禮讃」の他、「現代口語文の缺點(けってん)について」「半袖ものがたり」「厠のいろ〳〵」「旅のいろ〳〵」「顔のいろ〳〵」「所謂痴呆の藝術について」「雪」の計8作品が収められている。

 非常に多くのボリュームを割いて、昔の日本式便所への懐古と愛着を再度にわたって述べているところなど、それこそ読んでいて昔の旧家の厠のほのかな臭いまで漂ってきそうで、おもわずクスリと笑ってしまった。

気に入った箇所

 本作品には「われわれ」「いろいろ」といった言葉に、かつてよくあった「くの字点」の使用が多い。「くの字点」とは、縦組み活字に見られる次のような「繰り返し記号」のことである。

旅のいろ〳〵

あるいは、

顔のいろ〳〵

 縦組みだと上のようにそれほど違和感はないのだが、横組みにすると「旅のいろ〳〵」「顔のいろ〳〵」となり、どうにも収まりが悪い。しかし、原文にできるだけ忠実に写すため、やむを得ず以下の如くとなった。

平凡社世界教養全集第6巻「日本的性格/大和古寺風物誌/陰翳礼讃/無常という事/茶の本」のうち、「陰翳禮讃」から引用。
一部のルビを佐藤俊夫が補った。
他の<blockquote>タグ同じ。
p.313より

水洗式の場合は、自分で自分の落したものを厭でもハツキリ見ることになる。殊に西洋式の腰掛でなく、跨ぐやうにした日本式のでは、水を流すまでは直ぐ臀の下にとぐろを卷いてゐるのである。これは不消化物を食べた時など容易に發見することが出來て、保健の目的には叶ふけれども、考へて見れば不作法な話で、少くとも雲鬢花顔(うんびんかがん)の東洋式美人などには、かう云ふ便所へ這入つて貰ひたくない。やんごとない上臈などゝ云ふものは、自分のおゐどから出るものがどんな形をしてゐるか知らない方がよく、譃でも知らない振りをしてゐて貰ひたい。

p.314より

料理屋やお茶屋などで、臭氣止めに丁子を焚いてゐる家があるが、矢張厠は在來の樟腦かナフタリンを使つて厠らしい上品な匂をさせる程度に止め、あまり好い薰りのする香料を用ひない方がよい。でないと、白檀が花柳病の藥に用ひられてから一向有難味がなくなつたやうになるからである。丁子と云へば昔はなまめかしい連想を伴ふ香料であつたのに、そいつに厠の連想が結び着いてはおしまひである。丁子風呂などゝ云つたつて、誰も漬かる奴がなくなつてしまふ。私は丁子の香を愛するが故に、特に忠告する次第である。

 長谷川如是閑の文章の引用が出てきた。この巻の最初の収録作品は長谷川如是閑の「日本的性格」であった。

p.331より

「西洋人の顔にはどこか人間以外の(けだもの)臭い感じがある、眞に人間の顔らしい顔をしてゐるのは中國人である」――もとの言葉はわすれましたけれども、嘗てさう云ふ意味のことを長谷川如是閑さんが仰つしやつたことがございました。随分古いことで、ずうつと昔朝日新聞記者時代にお出しになつた「倫敦」と申す著書の中にあつたのではないかと存じますが、あれはまことに名言だと存じましたので、今以て時々思ひ出すことがございますので、何かの機會にもう何囘となく引用させていたゞいたことがございました。
昔は黄色人種の方が世界文明の中心であつた時代もあるやうに承つてをりますが、そのせゐかどうか中國人は勿論のことゝいたしまして、縁に繋がるわれ〳〵日本人たちも、少くとも容貌姿態の點に於て白人に劣つてゐるとは思へませんな。

p.346より

この間或る亞米利加の進駐軍の將校が、何の芝居であつたか歌舞伎の切腹の場面を見て、腹を切つてからあんなに長い間ものを云つてゐるのは可笑しい、と云つたと云ふ話を聞いたが、われ〳〵も幼年の頃、父母につれられて初めて舊劇を見た時分には等しく此のことを異様に感じたものであつた。たゞわれ〳〵はその後たび〳〵さう云ふ場面を、明治以來數々の名優の名演技に依つて繰返し見せられてゐるうちに、次第に歌舞伎とはさう云ふものだと思ひ込ませられ、それを訝しむ神經が麻痺してしまつたので、今日六代目の勘平などを見れば、訝しむどころか大いに感激するのであるが、たま〳〵外國人がさう云ふ感想を洩らすのを聞けば尤も至極に思ふばかりでなく、あの不自然さに氣がつかないで感心して見てゐるわれ〳〵日本人を、外人たちはどう思ふであらうかと、耻しくさへなるのである。

p.355より(地唄『雪』の引用)

花も雪もはらへば淸き袂かな、ほんにむかしのことよ、わが待つ人もわれを待ちけん、鴛鴦(をし)雄鳥(をとり)にもの思ひ()の、凍る(ふすま)に鳴く音はさぞな、さなきだに、心も遠き夜半の金、きくもさびしきひとり寢の、枕にひゞくあられのおとも、もしやといつそせきかねて、おつる涙のつらゝより、つらき命は惜しからねども、戀しき人は罪ふかく、思はぬ、ことの悲しさに、捨てた憂き、捨てた浮世の山かづら

p.356より

「この曲の合の手は一般の三味線に於いて雪とか冬とかを現はす場合必ず用ひられることになつてゐて、義太夫、江戸唄、江戸浄瑠璃の各流までこの手が取り入れられ、芝居や寄席曲藝手品の囃子に至るまで雪の手を使つて雪や冬の氣分を生かしてゐる」

p.356より

近代の人はとかく頭が論理的になつてゐるので、かういふ風な章句と章句とのあひだに幾分の間隔やズレのあるやうな詞章は作りにくく、どうしても理詰めなものになり易いのでそれだけ味のうすいものが出來てしまふ。

p.369より(地唄『殘月』の引用)

前びき磯邊の松に葉がくれて、沖の方へと入る月の、光や夢の世を早う、さめて眞如の明けき月の都にすむやらん手事五段今は()てだにおぼろ夜の、月日ばかりはめぐり來て

p.363より

私が特に聞きたいと思ふやうな曲は大概發賣されてゐない。

p.363より

私の妻はショパンの夜想曲の盤を懸けてはひとり涙を流してゐたが、私は「雪」を聞きながら又と歸らぬ日のことを思ひ、嵯峨や東山あたりの風物を空想しては時間を消した。

言葉
啻に

 これは、第4巻のうち、阿部次郎の「三太郎の日記 第一」を読んだときにも出てきた字で、これで「(ただ)に」と()む。

下線太字は佐藤俊夫による。
p.268より

私は前に、蒔繪と云ふものは暗い所で見て貰ふやうに作られてゐることを云つたが、かうしてみると、啻に蒔繪ばかりではない、織物などでも昔のものに金銀の糸がふんだんに使つてあるのは、同じ理由に基づくことが知れる。

罩める

 これで「()める」と訓む。「込める」と同じであるが、「込」には入り込む、集まる、というような意味があるのに対し、「罩」には鳥籠の「籠」と似たような、「かご」だとか、「入れ包む」というような意味がある。

p.269より

そして彼の手を見ながら、しば〳〵膝の上に置いた自分の手を省みた。そして彼の手がそんなにも美しく見えるのは、手頸から指先に至る微妙な(てのひら)の動かし方、獨特の技巧を罩めた指のさばきにも因るのであらうが、それにしても、その皮膚の色の、内部からぽうつと明りが射してゐるやうな光澤は、何處から來るのかと訝しみに打たれた。

孰方

 「孰方(どちら)」と訓む。古い書き方である。

p.278より

お月見の場合なんかはまあ孰方でもいゝけれども、待合、料理屋、旅館、ホテルなどが、一體に電燈を浪費し過ぎる。

翠巒

 「翠巒(すいらん)」である。「緑の山々」のことだ。「巒」という字は長くつながる山の峰々のことを言う。

p.278より

彼處は北向きの高臺に據つてゐて、比叡山や如意ケ嶽や黑谷の塔や森や東山一帶の翠巒を一眸のうちに集め、見るからすが〳〵しい氣持のする眺めであるが、それだけになほ惜しい。

邊陬

 また見たことも聞いたこともない言葉である。これは「邊陬(へんすう)」である。辺鄙(へんぴ)な片田舎のことだ。

p.284より

今でもよく、たとえば琉球とか、青森とか、邊陬の地から都會へ出て來る人たちは、教育のある者であればある程、「であります口調」や新聞雑誌の文體に近い口語體で、切り口上で物を云ふのはしば〳〵見受けるところである。

 見たこともない漢字で、IMEでは出すこともできなかった。これは音読みは「キョウ」だが、訓読みは「つえ」と訓む。

p.290より

……なほ西の國の歌枕見まほしとて、仁安三年の秋は、葦がちる難波を經て、須磨明石の浦ふく風を身にしめつも、行く行く讃岐の眞尾坂の林と云ふにしばらくを停む。……

ジニアス

 「genius」は「天才」だが、文脈では「雰囲気や特性、風潮、精神」というような意味で使用している。

p.295より

もと〳〵西洋と日本では言葉のジニアスが違ふのであるから、模倣したところで程度は知れたものである。

漁史

 「漁史(ぎょし)」は敬称で、雅号や文名につけるものだそうである。

 ところが、この「陰翳禮讃」でも「鷗外漁史」と、森鴎外を指してこの語を使っているが、各辞書類の例文なども、ほとんどが「鷗外漁史」を例として挙げており、どうも、森鷗外の他に使うところはないような感じである。

 「漁」には「あさる」の意、「史」には「ふびと」すなわち文筆家の意味がある。文筆に徹底する人、とでもいう意味となろうか。

p.295より

もしわれわれが西洋物を譯するのに直譯體に依らないで純然たる日本風の表現法を取るとしたら、むしろ原文より短((ママ))いくらゐになることは、鷗外漁史の「即興詩人」などを見ても分る。

吝む

 「(おし)む」である。「吝嗇(りんしょく)」と書いて「吝嗇(ケチ)」という訓み方もあるところからわかる通り、ケチることだ。

p.299より

久保田氏の方はそれと反對に、出來るだけ言葉を愼しみ、云はないで濟むことは成るたけ云はないやうにして、守錢奴が錢を吝むやうに一語一語を惜しみつゝ暗示的に使つてゐる。

垂んとする

 「タれんとする」ではない。これで「(なんな)んとする」と訓む。「なんなんとする」というのは音便で変化した言葉で、「なるなんとする」と同じ意味、つまり「まさしくそうなろうとする」というほどの意味になろうか。これに「垂」の字をあてるのは、「垂」には大地の果ての意があるというから、果てしないところにまさしく届こうとする、というような意味から転じてきたものであろうか。

p.315より

爾來二十有餘年に(なんな)んとするけれども、まだ此の英語は實地に應用する機會がない。

寔に

 「()に」である。「実に」と書いても、「じつに」「げに」の両方で訓めるが、「げに」と訓ませたいときは「じつに」との混同を避けるため、この「寔に」を書くべきではあろう。

 この字も、このブログでは、以前読んだ阿部次郎の「三太郎の日記 第一」の読書記録に出てきている。

p.316より

これは寔に矛盾した話で、たまたま泊りあはせた宿が大そう居心地がよかつたり……

慥に

 「(たしか)に」である。「慥」という字にはあわただしいとか急ごしらえとかいう意味があるが、日本に限って、「確実な」という意味があるのだという。

p.324より

成る程、大阪人は此の點に於いて東京人よりも慥にだらしがない。

苟くも

 「(いやし)くも」である。「(いやしく)も」と、「く」を送ったり送らなかったりするが、これは文脈によるだろう。

 「卑しくも」とはまるで意味が異なることは言わずもがなで、「苟」の字には「かりそめ」との訓みがあり、そこから「かりにも」「かりそめにも」といった意味合い、「いやしくも教師たるもの」というような、身分や地位にふさわしい規範が求められるような表現に使うものだ。

p.330より

苟も接客業者たるものはそのくらゐな用意があつて然るべきではないであらうか。

合邦

 読んで字のごとく、国が合併することであるが、ここでは義太夫節の「摂州(せっしゅう)合邦(がっぽうが)(つじ)」のことであるようだ。略して「合邦」というのだそうである。

 Youtubeあたりで演奏が見られないかと探してみたが、どうも見当たらないようだ。

 摂州合邦辻は歌舞伎の演目にもあり、中国のサイトで昭和31年に中村時蔵・芝雀によって演じられたもののモノクロ動画があることはある。歌舞伎の音曲(おんぎょく)方には、「竹本連中」などと称して出演する義太夫節の人たちは勿論のこと、長唄、常磐津、清元の人たちも錚々(そうそう)たる顔ぶれで出演する。とまれ、歌舞伎の動画を見ると、それでだいたい義太夫節「合邦」の雰囲気はわかる。

p.342より

全體的に見て合邦と云ふ義太夫がいかに馬鹿々々しいものであるかは、多分此れを聞いたことのある人は誰でも氣が付いてゐる筈であるが、しかし所謂痴呆の藝術のうちでも此れなぞは最も典型的なものであるから、今試みにその馬鹿々々しさの二三を指摘して見よう。

 それにしても、なんと散々な評し方であること。