読書訥々(とつとつ)

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 引き続き約60年前の古書、平凡社の世界教養全集第10巻「釈尊の生涯/般若心経講義/歎異鈔講話/禅の第一義/生活と一枚の宗教」を読んでいる。

 この巻の4つ目の収載作品、「禅の第一義」(鈴木大拙著)を帰りの電車の中で読み終わる。

 鈴木大拙師は第3巻の「無心と言うこと」の著者でもあり、昨年の初秋、8月末に読んだところである。

 全部文語体で書かれた古い著作ではあるが、平明に書かれてあり、わかりやすい。ただ、「什麽(そも)」だの「恁麼(いんも)」だのと言った禅語が何の解説もなくポンポン出てきたり、返り点などは打ってあるものの、延々と漢文が引用されたり、「常にこの心がけあらざるべからず」みたいな否定の否定の言い回しが多く、そういうところに限っては(はなは)晦渋(かいじゅう)というか、実にわかりづらい。

 そうはいうものの、私も含め、いまや「ナンチャッテ欧米人」とでもいうべきヘンチクリンなものになってしまっている日本人にとって、遠く明治の頃に十数年以上も欧米に在住して西洋の思想を吸収し、東西宗教の深い理解の上に立って欧米に禅の思想を普及した鈴木大拙師の論は、西洋思想を例にとるなどしながら述べているところなど、かえってわかりやすいかもしれない。

 本論中では、繰り返し繰り返し、「禅は学問ではなく、哲学でもなく、(いわん)や精神修養や健康法などではない」「学問~哲学が目指す『分別(ふんべつ)()』こそ、禅と相容れないものの極北である」「体験こそが禅である」ということを力説している。

 他に、(たん)()(しょう)の記述などにも的確に触れつつ「他力・自力の相違こそあれ、浄土宗ないし真宗と、禅は根本において同じ」と(かっ)()してみたり、キリスト教の教義を()(てき)概括(がいかつ)した上で、「キリスト教にも根本(こんぽん)において禅と同じ部分が多く認められる」という意味のことをも指摘しており、師の(ふところ)の深さ、幅の広さに(きょう)(たん)せざるを得ない。

気になった箇所
平凡社世界教養全集第10巻「釈尊の生涯/般若心経講義/歎異鈔講話/禅の第一義/生活と一枚の宗教」のうち、「禅の第一義」より引用。
他の<blockquote>タグ同じ。p.376より

換言すれば、仏陀は仏教の開山、元祖というべく、キリストはキリスト教の本尊となすべし。実際をいえば、今のキリスト教を建立したるはキリストその人にはあらずして、その使徒中の元首ともいうべきパウロなり。これを呼びてキリスト教といえども、あるいはパウロ教というほう適切なるべし。キリストのキリスト教における関係は仏陀の仏教における関係と同一ならざること、これにて知るべし。

 上の喝破から、鈴木大拙師の、他宗派のみならず、他宗教への該博な理解と知識が、あふれんばかりに伝わってくる。実際、引用箇所の周辺の1ページほどで「キリスト教の大意」と一節を起こし、手短(てみじか)にキリスト教について述べているが、これほど端的・適確・至短なキリスト教の解説を、私はこれまでに見たことがない。

言葉
咄、這鈍漢

 読みは「(とつ)這鈍漢(はいどんかん)」で、「咄」というのは漢語で「オイオイ!」というほどの意味である。

 「這鈍漢」というのが、これがサッパリわからない。ネットで検索すると中国語の仏教サイトが出て来る。それも「這鈍漢」ではなくて「這漢」と、微妙に違う字だ。

 意味がわからないながらも、前後の文脈から「これこれ、愚か者め」「オイオイ、このスットコドッコイが」くらいの意味ではないかと思われる。

下線太字は佐藤俊夫による。p.363より

もし釈迦なり、達磨なりを歴史のうちから呼び起こしきたりて、我が所為を見せしめなば「咄、這鈍漢、何を為さんとするか」と一喝を下すは必定なり。

盈つ

 「()つ」と()む。「満つ」「充つ」とだいたい同じと思えばよい。音読みは「ヨウ」「エイ」の二つで、「盈月(えいげつ)」というようなゆかしい単語がある。盈月は満月と同じ意味で、蛇足ながら対語に「()(げつ)」という言葉があり、これは「欠けた月」のことである。

  •  (漢字ペディア)
p.364より

「道は冲なり、而して之を用ゐれば盈たざることあり、淵乎として万物の宗に似たり」

清霄

 「清霄(せいしょう)」と読む。「霄」は空のことで、よって「清霄」とはすがすがしい空のことである。

p.368より

「江月照らし、松風吹く、永夜の清霄何の所為ぞ。」

燬く

 「()く」である。「焼く」と同じ意味であるが、(つくり)が「(こぼ)つ」という字になっている点からわかる通り、「激しく焼いて壊してしまう」ような意味合いが強い。

p.371より

丹霞といえる人は木像を燬きて冬の日に暖をとれりといえど、その心には、尋常ならぬ敬仏の念ありしならん。

剴切

 「剴切(がいせつ)」と読み、形容動詞である。意見などが非常に適切なことを言う。

p.374より

 しかしかくのごとき神を信ずるだけにては、キリスト教徒というを得ず、そはキリスト教の要旨は神のうえにありというよりもキリストのうえにありというがむしろ剴切なればなり。

一踢に踢翻す

 「一踢(いってき)踢翻(てきほん)す」と読む。「踢」という字は訓読みで「()る」と訓み、「蹴る」と大体同じである。

 で、「一踢に踢翻する」というのは「ひと蹴りに蹴っ飛ばしてひっくり返す」が文字通りの意味であるが、使われている文脈には「一気に脱し去って」というくらいの意味で出てくる。

p.378より

何となれば禅の禅とするところは、よろずの葛藤、よろずの説明、よろずの形式、よろずの法門を一踢に踢翻して、蒼竜頷下の明珠を握りきたるにあればなり。

 それにしても、「一踢」「踢翻」などという単語で検索しても、中国語のサイトしか出てこないので、日本語の文章でこんな難しい単語を使うことはほとんどないと言ってよく、一般に出ている書籍では、多分、仏教書を除いては、鈴木大拙師くらいしか使っていないだろう。……あ、そうか、この作品、仏教書か。

倐忽

 「倐忽(しゅっこつ)」と読む。「(しゅく)」も「(こつ)」も「たちまち」という意味があり、よって「倐忽」というのは非常に短い時間、またたくまに、というような意味である。

p.379より

我いずれよりきたりて、いずれに去るか、わがこの生を送るゆえんは何の所にあるか、かくのごときの疑問みな倐忽に解け去る。禅の存在の理由はまったくこの一点にあり。

氛氳

 これもまた、こんな難しい字、見たことがない。「氛氳(ふんうん)」と読み、盛んで勢いが良い様子を表す形容動詞である。

p.380より

また万物の底に深く深く浸みわたれる一物を感じたるごとくにて崇高いうべからず、しかしこの一物は、いまや没し去らんとする太陽の光明と、かぎりなき大海と、生々たる氛氳の気と、蒼々たる天界と、またわが心意とを以ってその安住の所となせり。

乾屎橛

 「(かん)()(けつ)」と読む。禅宗ではよく使う言葉だそうである。意味は、「ウンコ」と、昔ウンコをぬぐい取るのに使った「クソべら」の両方の意味がある。しかも、乾いて下肥(しもごえ)にすらならないようなブツのことを言う。「クソべら」もこびりついたウンコが乾いてカチカチになってしまっていると、尻を拭う用には立たない。「乾」いた、「屎」すなわちクソ(『()尿(にょう)処理車』などという言葉があるが、ここからも『屎』とはクソ、『尿』とはオシッコであることがよくわかる)の、「橛」、これは「棒」というような意味があるが、そういう()(づら)の単語である。

 それにしても、仏教書にして、なんでまたこんな()(ろう)な言葉が出て来るのか。

 それには(わけ)がある。禅寺ではなにかと極端な(たと)えを持ち出して問答し、そこから電光のような霊感を得ようとするのが修行のひとつなのだ。そんな問答、つまり、いわゆる「禅問答」のひとつに、

問 「仏とは何か」
答 「ウンコと同じである」

……というような、非常に深い(笑)極端な問答があるのだ。形の上では文語体の問答で、

問 「如何なるや(これ)、仏。」
答 「乾屎橛。」

……などと短い問答をするわけである。これぞ、知る人ぞ知る「禅問答」というもので、ある意味象徴的、代表的な極端な例と言えるだろう。

p.383より

凡夫と弥陀とを離してみれば、救う力は彼にあり、救わるる機はこれにありとすべからんも、すでに「一つになし給い」たるうえよりみれば、不念弥陀仏、南無乾屎橛、われは禅旨のかえって他力宗にあるを認めんと欲す。

竭くす

 「()くす」と訓む。「あるかぎり振り絞る」ということで、「尽くす」でも同じ意味と思えばよい。

p.386より

 ここに眼を注ぐべきは全体作用の一句子にあり、全体作用とはわが存在の一分をなせる智慧、思量、測度などいうものを働かすの謂いにあらず、全智を尽くし、全心を尽くし、全生命を尽くし、全存在を尽くしての作用なり、一棒一喝はただ手頭唇辺のわざにあらず、その身と心を竭くし、全体の精神を傾注してのうえの働きなり。

卓つる

 ここでは「()つる」と訓む。ネットの漢和辞典にはそんな訓みは出てこないが、私が持っている「大修館新漢和辞典改訂版」(諸橋轍次他著)には「たかい」「とおい」「すぐれている」という意味の他、「たつ。また、立っているさま」との意味があると書かれている。よって「()つる」の訓みに無理がないことがわかる。

 この「卓つる」という言葉は「臨刃偈」という有名な禅句のなかで使われており、本作品中ではそれを引用している。

ルビは佐藤俊夫による。p.389より

 昔、仏光国師の元兵の難に逢うや、「乾坤(けんこん)()(きょう)()つる()なし、(しゃ)()すらくは(ひと)(くう)(ほう)もまた(くう)(ちん)(ちょう)大元(だいげん)(さん)(じゃく)(つるぎ)電光影(でんこうえい)()(しゅん)(ぷう)()る」と唱えられたりと伝う。

 もとの漢文は次のとおりである。

臨刃偈
乾坤無地卓孤笻
且喜人空法亦空
珍重大元三尺劍
電光影裡斬春風

 仏光国師こと無学祖元は鎌倉時代に日本に来た中国僧である。日本に来る前のこと、元軍に取り巻かれ、もはや処刑されるばかりになった。いよいよ危機一髪の時、元兵の剣の前で(臨刃)これを詠じ、刎頸(ふんけい)(まぬが)れたと伝わる。

佐藤俊夫試訳

(そら)(つえ)など 立ちはせぬ
人は(くう) 法も(くう)とは 面白(おもしろ)
さらばぞ(げん)の 鬼武者よ
わしの首なぞ ()ねたとて 稲妻が斬る 春の風
錯って

 「(あやま)って」と訓む。「錯誤」という言葉があることから、「錯」という字にはごちゃごちゃにまじりあうという意味の他に、「まちがえる、あやまる」の意味があることが理解される。

p.393より

這個の公案多少の人錯って会す、直に是れ咬嚼し難し、儞が口を下す処なし。

 「()」と読む。意味は「(いき)」と同じと考えてよい。

 禅における呼吸法について解説しているところに出てくる。

p.403より

 「胎息を得る者は能く鼻口を以て噓吸せず、胞胎の中に在るが如くなれば則ち道成る。初めはを行ふことを学ぶ。鼻中を引いて之を陰に閉ぢ、心を以て数へて一百二十に至る。

跼蹐

 「跼蹐(きょくせき)」と読む。「跼」はちぢこまること、「蹐」は忍び足で恐る恐る歩く様子を言う。そこから、おそれかしこまり、ちぢこまっている様子を「跼蹐」という。

p.454より

しかも性として見らるるものなく、眼として見るものなし、禅はもと分別的対境のなかに跼蹐するものにあらざればなり。

 次はこの巻最後の収載作品「生活と一枚の宗教」(倉田百三著)である。著者の倉田百三については、第3巻の「愛と認識の出発」の著者でもあり、これも昨年の晩夏、8月のはじめに読んだところだ。

読書

投稿日:

 引き続き平凡社世界教養全集第10巻を読んでいる。3つ目の収録作、「(たん)()(しょう)講話」(暁烏(あけがらす)(はや)著)を行きの通勤電車の中で読み終わった。

 歎異鈔講話の前に収録されているほかの二つの著作(『釈尊の生涯』と『般若心経講義』)とはガラリと違う内容である。というよりも、「浄土真宗って、こんなんだったっけ……?」「南無阿弥陀仏って、こんな偏狭な信じ方なんだったっけ……?」と感じてしまうような、よく言えばひたむき、悪く言えば狂信的、もう、ひたすらひたすら、「南無阿弥陀仏」一直線である。「南無阿弥陀仏」と書かずに南無阿弥陀仏を表現しろ、と言われたら、こんな本になるのではないか、と思われる。

 多分、歎異鈔そのものは、それほど徹底的なことはないのではないか。歎異鈔に向き合う著者暁烏敏が、著作当時はたまたまそういう人である時期だったのではないか、と感じられる。

 実際、末尾の「解説」(船山伸一記)によれば、暁烏敏は戦前のこの著作の後、昭和初年頃から讃仰の対象が親鸞から聖徳太子、神武天皇、古事記などに移っていき、戦後は平和主義を経て防衛力強化是認論者となっていったのだという。

気になった箇所
平凡社世界教養全集第10巻「釈尊の生涯/般若心経講義/歎異鈔講話/禅の第一義/生活と一枚の宗教」のうち、「歎異鈔講話」より引用。
他の<blockquote>タグ同じ。p.254より

 六 法然聖人が、親鸞聖人に送られた手紙のなかに「餓鬼は水を火と見候、自力根性の他力を知らせ給はぬが憐れに候」という語がある。これはまことにきびしい恐ろしいようないい方であるが、これはもっとも明白に、自己という考えの離れられぬ人が宗教の門にはいることのできぬということを教えられた親切なる教示である。

 七 今法然聖人の言葉をここにひき出したのはほかでもない。『歎異鈔』一巻はもっとも明白にもっとも極端に他力信仰の宗教を鼓吹したる聖典なるがゆえに、自力根性の離れられぬ餓鬼のような人間たちでは、とうていその妙味を味わい知ることができぬのみならず、かえってその思想を危険だとかあぶないとかいうて非難するのもむりでないかもしれぬ。がしかし餓鬼が水を火と見るように、自力根性で他力の妙味を知らず、この広大なる聖典『歎異鈔』を読みながら、これによって感化を受くることもできず、かつまたこの思想をもっとも明瞭に表白しつつある私どもの精神主義に対してかれこれ非難や嘲弄するのは憫然のいたりである。

 しかし、こうまで書くと、非難・嘲弄とまで言うのは被害妄想であり、度し難き衆生を「憫然のいたり」とまでコキ下すのは、「大乗」ということから言って違うのではなかろうか。

p.273より

すべて哲学にしろ、科学にしろ、学問というものは、真と偽とを区別してゆくのがだいたいの趣旨である。宗教はそうではなく、その妙処にゆくと宗教は真即偽、偽即真、真偽一如の天地であるのだから、けっして科学や哲学を以って宗教を律することはできないのである。

 これは鈴木大拙師や高神覚昇師も似たことを書いていたような気がする。そういう点では違和感はない。

p.294より

 善人なほもて往生をとぐ、いはんや悪人をや。しかるを世の人つねにいはく、悪人なほ往生す、いかにいはんや善人をや、と。この条一旦そのいはれあるに似たれども、本願他力の意趣にそむけり。その故は、自力作善の人は、ひとへに他力をたのむ心欠けたるあひだ、弥陀の本願にあらず。しかれども自力の心をひるがへして、他力をたのみたてまつれば、真実報土の往生をとぐるなり。煩悩具足のわれらは、いずれの行にても生死をはなるることあるべからざるをあはれみたまひて、願をおこしたまふ本意、悪人成仏のためなれば、他力をたのみたてまつる悪人、もとも往生の正因なり。よりて善人だにこそ往生すれ、まして悪人は、と仰せられ候ひき。

 歎異鈔からの引用である。歎異鈔で最も知られた一節は、この節であろう。「いかなる者も摂取不捨の阿弥陀如来であってみれば、悪人の方が救われる度合いは善人よりも多いのである。」ということが前提になっている。善人よりも悪人の方が救われるというのが浄土真宗の芯と言えば芯ではあろう。

p.299より

 三 陛下より勲章を下さるとすれば、功の多い者にはよい勲章があたり、功の少ない者には悪い勲章があたる。ところがこれに反して陛下より救助米が下るとすれば功の多少とか才の有無とかを問わずして、多く困っておる者ほどたくさんの米をいただくことができる。いま仏が私どもを救いくださるのは、私どもの功労に報ゆるためではなくて、私どもの苦悩を憐れみて救うてくださるる恩恵的のであるからして、いちばん困っておる悪人がもっとも如来の正客となる道理である。

 悪人の方が救われる、ということをより噛み砕いた解説である。しかし、卑俗な(たと)えではある(笑)。

言葉
摂め取る

 これで「(おさ)め取る」と()む。「摂取」という言葉があるが、現代語のイメージでは「栄養を摂取する」というような使い方が一般的であろう。

 他方、仏教用語では「摂取不捨」、仏の慈悲によりすべて包摂され捨てられない、というような意味に使い、この「摂取」を訓読みすれば「(おさ)め取る」ということになるわけである。

下線太字は佐藤俊夫による。p.261より

私は仏の本願他力に助けられて広大円満の人格に達し、大安慰をうるにいたるべしと信じ、南無阿弥陀仏と親の御名を称えて力ある生活をしましょうという決定心の起こったとき、そのとき待たず、その場去らず、ただちにこの他力光明のなかに摂め取られて、いかようなことがあろうとも仏力住持して大安尉の境に、すなわち仏の境界に導き給うにまちがいはないというのが、この一段の大意である。

軈て

 「(やが)て」と訓む。

p.329より

其の上人の心は頓機漸機とて二品に候也、頓機はきゝて軈て解る心にて候。

設ひ

 「設ひ」で検索すると「しつらい」というような訓みが出て来るが、ここでは「(たと)()」と訓む。ネットの漢和辞典などにはこの訓みは載っていないが、私の手元にある大修館新漢和辞典(諸橋轍次他著)の「設」の項には、「もし。かりに。たとい。仮定のことば。『仮設・設使・設令・設為』などもみな、「もし・たとい」と読む。」と記されている。

p.340より

 設ひ我仏を得んに、十方世界の無量の諸仏、悉く咨嗟して我が名を称へずんば正覚を取らじ。

咨嗟

 直前の引用で出てきている。「咨嗟(しさ)」と読み、検索すると「嘆息すること」と出て来るが、仏教用語としては「ため息をつくほど深く感動する」というようなポジティブな意味で使われる。

p.340より

 設ひ我仏を得んに、十方世界の無量の諸仏、悉く咨嗟して我が名を称へずんば正覚を取らじ。

炳焉

 「炳焉(へいえん)」である。「炳」は「あきらか」とか「いちじるしい」などの意味がある。「焉」は漢文でいう「置き字」で、読まなくてもいいわけではあるが、断定の意味がある。あえて訓めば「あきらかならざらんや」とか「(いずくん)ぞあきらかならんや」とでもなるかもしれないが、「我関せず(えん)」というふうに断定を強めるために「(えん)」と読むこともある。

p.343より

私どもはこの「案じ出したまひて」とある一句のうちに、絶対他力の大道の光輝の炳焉たるを喜ばねばなりません。

牢からざる

 「(ろう)からざる」でも「(かた)からざる」でもどちらでもよいようである。しかし、「(ろう)からざる」と読む時は、音読するとすると「ろう、からざる」と、一呼吸置くような読み方になるだろう。

 「牢」という字は「牢屋」の牢であるが、別に「かたい」という意味がある。よく使われる「堅牢」などという言葉は、「(かた)く、(かた)い」という意味であるから納得がいく。他にも「(ろう)()として」というような言葉もある。

  •  (漢字ペディア)

p.349より

是に知りぬ、雑修の者は執心牢からざるの人とす、故に懈慢国に生ずるなり。

 次は、「禅の第一義」(鈴木大拙著)である。鈴木大拙の著作はこの平凡社世界教養全集では第3巻にも出ていて(『無心ということ』読書記(このブログ))、2作目である。

読書

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 約60年前の古書、平凡社の世界教養全集全38巻のうち、第10巻を読み始めた。第10巻には「釈尊の生涯」(中村元)、「般若心経講義」(高神覚昇)、「歎異鈔講話」(暁烏敏)」、「禅の第一義」(鈴木大拙)、「生活と一枚の宗教」(倉田百三)の5著作が収められている。今度は前の第9巻とは違って、全編これ仏教一色である。

 一つ目の「釈尊の生涯」を行きの通勤電車の中で読み終わった。

 全編キリスト教一色であった前第9巻の中の「キリストの生涯」と似た趣きの著作で、宗教的な超能力や奇跡よりも、歴史上の人物としてのゴータマ・ブッダの生涯を、パーリ語の古典籍などから丹念になぞり、分析して述べたものである。一般的な仏教信者が依拠する「仏伝」をもとにすると、どうしても信仰上の超人譚や奇跡伝説が織り込まれてしまうが、本著作はそれを避け、できうる限り「スッタニパータ」等のインドの古典籍に取材している。

 元々、(たい)()浩瀚(こうかん)の学術研究書「ゴータマ・ブッダ(釈尊伝)」があり、その中の「第1編ゴータマ・ブッダの生涯」から更に一般向けの部分を摘要したのが本著作なのであるという。

気になった箇所
平凡社世界教養全集第10巻「釈尊の生涯/般若心経講義/歎異鈔講話/禅の第一義/生活と一枚の宗教」のうち、「釈尊の生涯」より引用。
他の<blockquote>タグ同じ。p.7より

 だからこの書は仏伝でもなければ、仏伝の研究でもない。いわゆる仏伝のうちには神話的な要素が多いし、また釈尊が説いたとされている教えのうちにも、後世の付加仮託になるものが非常に多い。こういう後代の要素を能うかぎり排除して、歴史的人物としての釈尊の生涯を可能な範囲において事実に近いすがたで示そうと努めた。

p.57より

 修行者が木の下で木の陰に蔽われながら坐して修行するということは、印度では古くから行われていて、原始仏教聖典にもしばしば言及されている。とくにアシヴァッタ樹(イチジク)のもとで瞑想したということは、意味が深い。インドでは古来この木はとくに尊敬されていて、アタルヴァ・ヴェーダの古歌においても不死を観察する場所であるとされている。「不死」とは天の不死の甘露を意味するが、また精神的な究極の境地をも意味する語である。この木はウパニシャッドやバガヴァッド・ギーター、その他インドの諸文芸作品において、葉や根が広がるという点でふしぎな霊樹であると考えられた。だからゴータマ・ブッダが特にこの場所を選んだということは、仏教以前からあった民間信仰のこの伝承につながっているのである。そうして釈尊がこの木の下で悟りを開いたから、アシヴァッタ樹は俗に「ボダイジュ(菩提樹)」と呼ばれるようになった。

 上の部分を読んで「アレ?はて……??」と思い、Wikipedia等を検索してみた。「菩提樹って、無花果(いちじく)のことだっけ?」と感じたからだ。

 私が怪訝に思うのもそのはずで、日本ではシナノキ科シナノキ属である菩提樹が寺などに植えられているが、同じ「菩提樹」という呼び名でも、インドの「インドボダイジュ」はクワ科イチジク属の木で、全くの別物だそうである。

p.63より

 このように悟りの内容に関して経典自体の伝えているところが非常に相違している。いったいどれがほんとうなのであろうか。経典作者によって誤り伝えられるほどに、ゴータマのえた悟りは、不安定、曖昧模糊たるものであろうか? 仏教の教えは確立していなかったのであろうか?

 まさにそのとおりである。釈尊の悟りの内容、仏教の出発点が種々に異なって伝えられているという点に、われわれは重大な問題と特性を見出すのである。

 まず第一に、仏教そのものは特定の教義というものがない。ゴータマ自身は自分の悟りの内容を定式化して説くことを欲せず、機縁に応じ、相手に応じて異なった説き方をした。だから彼の悟りの内容を推し量る人々が、いろいろ異なって伝えるにいたったのである。

 第二に、特定の教義がないということは、けっして無思想ということではない。このように悟りの内容が種々異なって伝えられているにもかかわらず、帰するところは同一である。

同じく

 第三に、人間の理法(ダルマ)なるものは固定したものではなくて、具体的な生きた人間に即して展開するものであるということを認める。実践哲学としてのこの立場は、思想的には無限の発展を可能ならしめる。後世になって仏教のうちに多種多様な思想の成立した理由を、われわれはここに見出すのである。過去の人類の思想史において、宗教はしばしば進歩を阻害するものとなった。しかし右の立場は進歩を阻害することがない。仏教諸国において宗教と合理主義、あるいは宗教と科学との対立衝突がほとんど見られなかったのは、最初期の右の立場に由来するのであると考えられる。

言葉
日暹寺

 「暹」という漢字が難しい。「セン」と読むそうで、そうすると「にっせんじ」なのだが、「日暹寺」で検索すると「日泰寺」のホームページが出てくる。

 あれっ……?と思うが、この日泰寺のホームページを見ると、理由がよくわかる。昔、シャム王国から真仏舎利をもらい受けた際にこれを記念して創建されたのがこの寺で、当時はシャムの漢字表記が「暹羅(せんら)」であったので、日暹(にっせん)()を号したものだそうだ。

 しかし、その後シャム王国は太平洋戦争前に国号を「タイ王国」に改めたため、この寺も「日泰(にったい)()」に改号したものなのだそうだ。

下線太字は佐藤俊夫による。p.116より

 右の遺骨は仏教徒であるタイ国の王室に譲りわたされたが、その一部が日本の仏教徒に分与され、現在では、名古屋の覚王山日暹寺に納められ、諸宗交替で輪番する制度になっている。

 (ちな)みに、日泰寺のサイトによれば、上引用の「輪番」は3年交代だそうである。

 たしか「龕燈(がんどう)」という、昔のサーチライトみたいなものがあったが、この「龕」って字、訓読みがあるのかな……?と思って調べてみたが、どうもこれはそのまま「ガン」でいいらしい。仏像などをおさめるもののことである。

p.117より

 「これはシャカ族の仏・世尊の遺骨のであって、名誉ある兄弟並びに姉妹・妻子どもの(奉祀せるもの)である。」

 上サイトでは一応、「ずし」との()みも掲載されているが、「龕」と「厨子」は同じものと考えてよいからだろう。

 次は二つ目の著作、「般若心経講義」(高神覚昇著)である。

読書

投稿日:

 なかなか梅雨が明けず、相変わらずよく降る。しかし、窓外の雨を時折眺めては、安らかに座って読書するのもなかなか楽しい。と言って、私の読書時間のほとんどは通勤電車内なのであるが……(苦笑)。

 引き続き60年前の古書、平凡社の世界教養全集、全38巻のうち、第9巻「基督教の起源/キリストの生涯/キリスト者の自由/信仰への苦悶/後世への最大遺物」を読んでいる。

 第9巻最後の「後世への最大遺物」(内村鑑三著)を帰宅後の自宅で読み終わった。朝の通勤電車内でこのひとつ前の「信仰への苦悶」を読み終わった後そのまま続けて読み、帰りの通勤電車内でも読み、帰宅後読み終わった。この「後世への最大遺物」は短い著作であったから、「信仰への苦悶」と(あわ)せ、その日のうちに二つの作品を読み終えた。

 著者内村鑑三は他に、「余は如何にして基督信徒となりし乎」など、キリスト者としての著書が有名である。私も、若い頃「余は如何にして基督信徒となりし乎」を読んだことがある。

 一方、本著作は明治時代に著者内村鑑三が行った講演の講演録であるが、「余は如何にして基督信徒となりし乎」を読んだときにはわからなかった、著者の漢学・国学に対する深い理解がわかって少し驚いた。「余は如何にして基督信徒となりし乎」は著者が英文で著したもので、私の読んだものは岩波の翻訳であったから、そういうことがあまり現れていなかったのである。

 そのことの表れであろう、この本の書き出しは、頼山陽の漢詩の引用から始まる。

気になった箇所
平凡社世界教養全集第9巻「基督教の起源/キリストの生涯/キリスト者の自由/信仰への苦悶/後世への最大遺物」のうち、「後世への最大遺物」より引用。
他の<blockquote>タグ同じ。p.510より

もし私に金を溜める事が出来ず、又社会は私の事業をする事を許さなければ、私はまだ一つ遺すものを持つて居ます。何んであるかと云ふと、私の思想(、、)です。

p.510より

文学といふものは我々の心に常に抱いて居るところの思想を後世に伝へる道具に相違ない。それが文学の実用だと思ひます。

p.517より

我々の文学者になれないのは筆が執れないから成れないのでは無い、我々に漢文が書けないから文学者になれないのでも無い。我々の心に鬱勃たる思想が籠つて居つて、我々が心の儘をジヨン・バンヤンがやつた様に綴ることが出来るならば、それが第一等の立派な文学であります。

p.520より

 それならば最大遺物とは何であるか。私が考へて見ますに人間が後世にのこす事の出来る、さうして是は誰にも遺す事の出来るところの遺物で利益ばかりあつて害のない遺物がある。それは何であるかならば勇ましい高尚なる生涯であると思ひます。是が本当の遺物ではないかと思ふ。他の遺物は誰にものこす事の出来る遺物ではないと思ひます。而して高尚なる勇ましい生涯とは何であるかといふと、私がこゝで申す迄もなく、諸君も我々も前から承知して居る生涯であります。即ち此の世の中は是は決して悪魔が支配する世の中にあらずして、神が支配する世の中であると云ふ事を信ずる事である。失望の世の中にあらずして、希望の世の中であることを信ずる事である。此の世の中は悲嘆の世の中でなくして、歓喜の世の中であるといふ考を我々の生涯に実行して、其の生涯を世の中の遺物として此の世を去るといふことであります。其の遺物は誰にも遺すことの出来る遺物ではないかと思ふ。

言葉
天地無始終、人生有生死

 訓読みは「天地に始終なく、人生に生死あり」である。

下線太字は佐藤俊夫による。p.496より

天地無始終、人生有生死」であります。然し生死ある人生に無死の生命を得るの途が供へてあります。

 これは本書冒頭の「改版に附する序」で述べられている言葉で、巻末の鈴木敏郎による解説にある通り、頼山陽が13歳の時に作った漢詩、

p.530(鈴木敏郎による解説)より

十有三春秋、逝く者はすでに水の如し、天地始終無し、人生生死有り、いずくんぞ古人に類して、千載青史に列するを得ん

述懐

十有三春秋
逝者已如水
天地無始終
人生有生死
安得類古人
千載列青史

……からの引用である。

 このエントリの最初の方で私が述べた、著者の漢学などへの深い理解がわかった、ということがこのあたりに表れている。

埃及

 「埃及(エジプト)」である。「埃及」という字を音読みすると「あいぎゅう」であるが、一方、ギリシア語では「エジプト」を「アイギュプトス Αἴγυπτος, Aigyptos」、ラテン語では「エージプタス Aegyptus」と(なま)ったらしい。ギリシア語の()(づら)は「エジプトス」とも読めるから、漢語の音写で「埃及(あいぎゅう)」と書いて「エジプト」だというのも納得のいくところだ。

p.499より

丁度埃及の昔の王様が己れの名が万世に伝はる様にと思うて三角塔(ピラミツド)を作つた、即ち世の中の人に彼は国の王であつたと云ふことを知らしむる為に万民の労力を使役して大きな三角塔を作つたと云ふやうなことは、実に基督信者としては持つべからざる考だと思はれます。

迚も

 「(とて)も」と()む。

p.511より

併し山陽はそんな馬鹿ではなかつた。彼は彼の在世中迚も此の事の出来ない事を知つて居たから、自身の志を日本外史に述べた。

匈牙利

 「匈牙利(ハンガリー)」である。日本語表記では「洪牙利」で、一文字で書く場合も「洪」「洪国」なのであるが、中国語では「匈奴の国」というほどの意味合いで「匈牙利」と書くのである。

p.512より

それが為に欧羅巴中が動き出して、此の十九世紀の始に於てもジヨン・ロツクの著書で欧羅巴が動いた。それから合衆国が生れた。それから仏蘭西の共和国が生れて来た。それから匈牙利の改革があつた。それから伊太利の独立があつた。実にジヨン・ロツクが欧羅巴の改革に及ぼした影響は非常であります。

仮令

 そのまま音読みで「けりょう」等とも読むが、ここでは「仮令(たとい)」である。

p.519より

仮令我々が文学者になりたい、学校の先生になりたいといふ望があつても、是れ必ずしも誰にも出来るものでは無いと思ひます。

 第9巻はこれで最後、次は第10巻「釈尊の生涯/般若心経講義/歎異鈔講話/禅の第一義/生活と一枚の宗教」である。第9巻は一巻これすべてキリスト教であったが、第10巻は見た通り仏教がテーマである。

ゲームや媒体(メディア)や手段や目的や読書や

投稿日:

ともかくモザイクで遠慮して、
画像はイメージです(笑)

 婚活サイトのネット広告で、「ゲーマーの旦那さんください」というキャッチ・コピーのものがあって、思わずクスリと笑ってしまった。

 何故(なぜ)と言って、多分、ゲーマーの旦那さん、と言っても、ゲームは既に何千万本もの種類があって、ゲームが好きだからと言って必ずしも趣味が合うとは思えないからだ。つまりゲームは媒体(メディア)なのであり、趣味の合う合わないはゲームの内容による。

 パズルゲームが大好きな婚活女子が、念願(かな)ってゲーマーのイケメン高学歴高身長高収入男子をゲットしたら、これが殺人スプラッター血みどろ内臓破裂戦場シューティングが大好きという陰惨な男で、全然話も生活も合わない、なんて、単純にありそうな話である。

 どうしてそういうふうに思うのか。

 私は、ごくクローズドな範囲の、小さい読書コミュニティの世話人をしている。この2~3年ほどそこの中核メンバーである。

 ところが、単に「読書」というタイトルで人が集まっても、これがまた、話なんざ、全く合わないのだ。なぜと言って、それは簡単な理屈で、世の中に本は何百億冊とあるからだ。そして、その内容はすべて異なる。本はメディアに過ぎず、話が合う合わないはどんなジャンルが好きかとか、今どんな内容の本を読んでいるかということに依存する。これを仮に「小説が好き」というふうにジャンルを狭めたとしても、世の中にはこれまた何億という数の小説があり、単に小説が好きというだけでは話を合わせることが難しい。

 事程(ことほど)左様(さよう)に、一口に「読書」と言っても範囲が広すぎるのだ。そのため、当初20人近くいたコミュニティのメンバーはジリジリ減少を続け、今年はわずか5~6人ほどになってしまった。

 こんな経験から、漠然とした「読書」「本」という枠組みだけではどうにもならないということが私にはよくわかる。

 そこからすると、ゲーミングも読書と同じだ。今やゲームは、本と同じ「媒体」と見てよい。ゲームは新しい分野であるとはいえ、もう既に数十年の歴史を経つつある。

 こうして考えてみると、新たなものを何か考える際、それが「プラットフォーム化」「基盤化」「媒体化」したとき、はじめて、そこから十分なお金を安定して引き出すことができるようになるのだろう。

 かつて、「無線」は、それ自体が趣味や職業として成立し得た。アマチュア無線や市民無線(CB)の免許をとり、他人と話をすることはなかなか程度の高い趣味であった。話の内容なんか、どうだっていいわけである。「無線機を使って話をするということそのもの」に意味があった。また、無線従事者の資格を持つ者は職業として幅広い選択が可能であった。だがしかし、万人が「携帯電話」という名の無線電話を持つ今となっては、アマチュア無線などもはや風前の灯火(ともしび)であり、職業無線従事者も、放送局や電話会社、あるいは特殊な公的機関の中核技術者になるのでもない限りは、資格だけで食っていくことはなかなか難しい。

 同じことはかつての「マイコン」、現在の「パソコン」にも言える。これらは、かつてはそれ自体で立派な一分野で、趣味としても、職業としても成立し得た。だが、今やそうではない。パソコンはネットへの窓口としての安価なコミュニケーション端末か、安い汎用事務機器か、ゲームマシンか、そういうものに過ぎなくなってしまった。大切なのはパソコンで何をするかである。昔のように「パソコンが趣味です」などと言っても、ほとんど意味をなさない。パソコンで絵を描くのか、著述をするのか、音楽を楽しむのか、ゲームを楽しむのか、他人とのコミュニケーションを楽しむのか、その内容による。また、パソコンが仕事です、と言って意味をなすのは、PCの設計や製造、CPUの開発に従事している、アプリケーション・ソフトのプログラミングをしている、というようなことであって、完成品のパソコンを買い漁ったり、出来合いの電源やマザーを組み合わせてパソコンを組み立てたりしても、もはやコレクションとしての意味はおろか、趣味として形をなすかどうかすら疑わしい。

 自動車も似ている。かつては自動車の所有それ自体がステイタスの誇示であり、どこへいくという目的などなくとも、「ドライブ」ということそのものに意味があった。だが、今もし意味を持ったステイタスの誇示やドライブをしたいなら、1千万円を超える高級車でも所有して、外国のハイウェイでもブッ飛ばさない限りはなんの意味もない。これだけ普及すると、自動車は物を運ぶとか、人を乗せて仕事に行くとか、そういう実用的な「媒体」の一種でしかない。こうなってくると、大事なのは自動車を使って何をするかだ、ということになる。

 こうして、人間はいろいろな手段に熟達した挙句、ふと我に返って「私はいったいこれで何をしたかったのだろう」と自問するのだろうと思う。目的のない手段、魂のない科学、中身が薄い媒体、目標のない技術、こういうものが地球上には溢れかえっている。

 ここで道は二つに分かれる。次の二説だ。

 (しか)り、失われた目標と目的をどこまでも求め続ける苦行こそ人間の役割、所詮見つかりもせぬ目標や目的の奴隷であり続けることこそ人間たるものの至上究極の義務、という説。

 (しか)らず、目標も目的も所詮は虚しいもの、如何に久しくあれこれを(あげつら)いまた追うことぞ、ならば手段や媒体、方法そのものを楽しめ、という説。

 実はこんなことは、古くから先人が論述済みである。

 私は今、(りん)()(どう)(リン・ユータン)の「生活の発見」という著作を読んでいる。このところ耽読している60年前の古書、平凡社の「世界教養全集」第4巻に収録されている。

 林語堂は明治28年(1895)~昭和51年(1976)の激動の時代に生きた中国人著述家だ。現代の共産党中国に生きる人々とは違う、古い時代の中国人のものの考え方・見方をこの「生活の発見 The Importance of Living」で著述した。

 彼が述べる中国人の考え方や姿勢は、雑に言うことが許されるなら、「手段や媒体そのものを楽しめ」である。花鳥風月を愛でることや茶や酒や書や詩や絵画や道具や居宅、日月山川、そういうものを生活として再発見し、生活そのものに人間の存在意義としての価値を認め、それによって幸福に生涯を送れ、としている。

 しかし、西洋哲学はどうも違う。同じ全集シリーズの最初の方は、ソクラテスから始まって、ジョージ・サンタヤーナなどまでに至る西洋哲学体系であったが、これらは人間の目的、人間の精神の存在、魂や神など、形而上に意義と目標を求め続けるというような、そういうものであった。

 実は林語堂は、これを襤褸(ボロ)(カス)()き下ろしている。曰く、「一ソクラテスの生まれたことは、西洋文明にとって一大災厄であった」と。この一言に、林語堂の動かぬ立場のすべてが尽くされている。

 さんざんヨーロッパの形而上学を読まされた後だと、林語堂のこうした喝破(かっぱ)は、私などにとって、誠に心が安らぐものなのである。同様の安らぎは鈴木大拙(だいせつ)の「無心ということ」を読んだ時にも覚えたが、さすがに鈴木大拙はそこまで対立的ではなく、日本人的な理解と包摂の姿勢であった。

 もしここで、イスラムの古い哲学などを読むと、またいろいろと違うのだろうな、と思う。それには、ヨーロッパが十字軍遠征などを通じて持ち帰ったイスラムの膨大な書籍がどのようにヨーロッパの学問に取り込まれていったのか、ということに関する詳しい理解が下敷きとして必要だろう。

読書

投稿日:

 引き続き60年前の古書を読んでいる。平凡社の「世界教養全集」だ。目下3冊目の「第3」を読んでいる。

 「第3」には収載作品が五つある。その内、倉田百三の「愛と認識との出発」、鈴木大拙の「無心ということ」、芥川龍之介の「侏儒(しゅじゅ)の言葉」の三つを読み終わった。

 「侏儒の言葉」は、子供の頃にこの本で一度読んだことがある。その頃は皮肉な感じが好もしく感じられたが、今はそれを、あまり魅力とは感じられなくなっている。子供の頃の読後感に比べると、どうしても、自殺直前に書かれたという作品の性格の方が、皮肉さよりも気になってしまう。

 作品の後半に向かって「芥川龍之介が堕ちていく感じ」が、大人になって芥川龍之介の自殺のことを、子供の頃よりも深刻な事件として再認識している私には、何やら薄ら恐ろしく感じられ、寒々とした荒涼を覚えざるを得ない。

言葉
綵衣(さいい)

 「美しい模様のある衣服」とか「種々の色で模様を施した衣」等と辞書等にはある。

 しかし、どうやらそれだけの意味ではないようだ。漢籍に「綵衣(もっ)て親を(たのしま)しむ」などとあり、これはある人が老年になっても親を楽しませるために子供の服を着て(じゃ)れて見せたという親孝行の故事である。

 そこからすると、この「綵衣」という言葉には、「幼児が着る明るい色の衣服」というような意味合いがあるようだ。

筋斗(きんと)

 「筋斗(きんと)」と聞いてすぐに思い浮かぶのは西遊記だ。孫悟空が乗る自由自在のエア・ビークルが「筋斗雲(きんとうん)」である。

 しかし、今「筋斗雲」で検索すると、大ヒットアニメ「ドラゴンボール」に関することばかりが出てくる。

 「ドラゴンボール」については、私はよく知らないから話を戻す。

 単に「筋斗」という場合は、これは筋斗雲のことではない。

 「筋」というのは「觔」の別字だそうな。筋斗雲も本当は「觔斗雲」と書くのが正しいらしい。で、この「觔」というのは、木を切る道具のことだそうである。「頭が重く柄が軽い道具」らしい、ということまではネットでわかるが、どのような形のどういう物かまではよくわからない。

 さておき、この道具は頭が重いために「くるくるとよく回る」ものだそうである。回して使う物なのかどうかもよくわからないが、ともかくそういうものだそうだ。そう言えば、頭が大きくしっぽが小さいオタマジャクシのことを「蝌斗(かと)」と書くが、このことと関係があるかも知れぬ。

 ともあれ、上述のようなことから、「とんぼ返りを打つ」ことを「筋斗を打つ」と言うそうな。「筋斗」とだけ書いて「とんぼ」と()ませる例もあるようだ。

(『侏儒の言葉』(芥川龍之介)から引用。他のBlockquoteも特記しない場合同じ。)

 わたしはこの綵衣(さいい)(まと)い、この筋斗(きんと)()(けん)じ、この太平(たいへい)を楽しんでいれば不足のない侏儒(しゅじゅ)でございます。

 文脈から推し測るに、「侏儒(しゅじゅ)」というと辞書的には「こびと」とあるが、ここで言う「侏儒」は、お祭りや盛り場で軽業(かるわざ)を見せて生業(なりわい)にしているような道化者、ピエロとか芸人などのことを言っているようだ。これが派手な「綵衣」を着て、「筋斗の戯」、つまりとんぼ返りなどの軽業を見せているわけである。「綵衣」にせよ、子供のような面白おかしい服、というような意味合いを含めているのだと思われる。

 更に前後の文脈を読むと、要するに芥川龍之介は志も何も持たない鼓腹(こふく)撃壌(げきじょう)太平楽(たいへいらく)の「賤業の者」の代表として「侏儒」を選んでいるように思う。

 そして、作品を「侏儒の言葉」と題しているのは、もちろん反語的皮肉であろう。

管鮑(かんぽう)の交わり

 これは学校の国語で習うから、確認は無用だ。次のサイトさんに詳しい。

……(いにし)えの管鮑(かんぽう)(まじ)わり(いえど)破綻(はたん)を生ぜずにはいなかったであろう。

啓吉の誘惑

 文中にも菊池寛の作品であることは触れられている。

 しかし、この「啓吉の誘惑」なる作品のあらすじは、ネットでチョイと検索したくらいでは出てこず、また作品も青空文庫等にはない。無料(タダ)では確認できないような感じがする。

 しかし、ご安心あれ。「啓吉の誘惑」は、「国会図書館デジタルコレクション」を使えば、無料で読むことができる。

 「啓吉の誘惑」は、上の「啓吉物語」の後ろの方、401ページから収録されている。「コマ番号」は全245コマ中第207コマから229コマまでだ。

 短編で、すぐ読める分量だ。私もたった今読んでみた。

 なるほど、触れられている通りの作品である。題名からだと啓吉という人が誰かを誘惑した物語であるように感じられるが、そうではなく、啓吉が誘惑を感じる、あるいは誘惑される、という筋書きで、むしろ「啓吉の『誘惑』」と括弧つきで題するか、単に「誘惑」とのみ題するか、どちらかが相応(ふさわ)しいような内容だ。

 以下「啓吉の誘惑」のあらすじ(ネタバレ注意)

 作家の啓吉は妻と幼児の三人家族で暮らしている。育児も手がかかって大変であるため、かねがね女中を雇い入れたいと考えていた。

 そこへ啓吉のファンであるという美しい女が雇ってほしいと訪ねて来る。地方から上京してきたその女は妻とも打ち解けて仲良くなり、歓迎されて啓吉の家の女中となる。やがて、啓吉はその女の無邪気さに心惹かれてゆく。

 女は妻にも気に入られているため、啓吉は妻公認で女を連れて浅草へオペラを見に行くことになる。その際、女の着物が地方から着てきたままのみすぼらしいものだったので、妻は快く女に着物を貸す。

 オペラの帰り、女と夜の隅田川辺りを歩いた啓吉は、夜のムードもあって恋愛の感情が女に対して高まるのを覚える。しかし、女の着物が妻からの借り着であるのを見、妻のことを考え直して自制する。

 やがて女は地方へ帰ってしまう。

 しばらく経って、風の噂に、その地方では女の評判は好ましくなく、「高級淫売」ではないかとの推測もあることを啓吉は聞き、嫌な後味を感じるとともに、女の誘惑に乗らず、自制してよかったとも思うのであった。

 (ちな)みに菊池寛はこの啓吉という人物が登場する作品をシリーズで残しており、ファンはこれを「啓吉もの」と称するようである。

 少なくとも女人の服装は女人(にょにん)自身の一部である。啓吉(けいきち)誘惑(ゆうわく)(おちい)らなかったのは勿論道念にも依ったのであろう。

庸才(ようさい)

 「凡才」と読み替えても差し支えない。

 しかし、「凡庸」などという言葉などもあるものの、「凡才」というほどには馬鹿者・愚か者的な蔑視感はなく、なんとはない才能もなくはないが、全然人並みだ、というようなニュアンスを含めて「庸才」と言っているように思う。

 庸才(ようさい)の作品は大作にもせよ、必ず窓のない部屋に似ている。人生の展望は少しも利かない。

木に()って魚を求む

 意味は簡単で、「手段を誤っていること」だ。

 だが、文中での用法はなかなか反語的で味わい深いというか、理解しづらいところがある。

「この『半肯定論法』は『全否定論法』或は『木に()って魚を求むる論法』よりも信用を(はく)(やす)いかと思います。……

偏頗(へんぱ)

 「かたよること」だ。

 「偏」は「かたよる」だが、「頗」は「(すこぶ)る」とも「(かたよ)る」とも、どちらでも()む。

  •  (漢字ペディア)

 まあ、「すこぶる偏り、(かたよ)ること」で間違いはない。

……『全否定論法』或は『木に縁って魚を求むる論法』は痛快を極めている代りに、時には偏頗(へんぱ)の疑いを招かないとも限りません。

 この難しい「偏頗」なる言葉、「偏頗返済」「偏頗行為」などと言って、債権~債務などにかかわる法律用語である。

陳套(ちんとう)

 「陳」という字は仮名を「い」と送って「(ふる)い」と()み、又同様に「ねる」と送って「()ねる」とも訓む。「(ひね)る」の意ではなく、「()ねる」の意である。従って、「陳腐」というよく見聞きする言葉の意味を言えば、「古くて腐り果てている」という程のことになろうか。

 一方、「(とう)」という字は「外套(がいとう)」「手套(しゅとう)(てぶくろ)」という言葉からもわかるように、覆い、重ねることを言う。こうしたことを踏まえつつ、「常套句」という言葉を味わってみるとわかる通り、「套」という字には、何度も何度も同じように繰り返し重ねるという意味が生じる。そこで、「套」という字そのものにも、何度も同じことを繰り返していて古臭い、という意味を含めるようになった。

 こうした意味・字義から、「陳套語」とは、古くて古臭い、新鮮味もクソもない言葉のことを言う。

……東洋の画家には(いま)(かつ)落款(らくかん)の場所を軽視したるものはない。落款の場所を注意せよなどというのは陳套(ちんとう)()である。それを特筆するムアァを思うと、(そぞろ)に東西の差を感ぜざるを得ない。

雷霆(らいてい)

 「雷」は言わずと知れた「カミナリ」であるが、「(てい)」という字にも同じく雷の意味がある。

……哲学者胡適氏はこの価値の前に多少氏の雷霆の怒りを(やわ)らげる(わけ)には()かないであろうか?

 「雷のような怒り」と書けばよいところをわざわざ「雷霆の怒り」と書くのは、雷よりもなお雷であるところの大きな激しさ、また文学上の誇張・拡張・表現をガッチリと詰めた書き方と思えばよかろうか。

一籌(いっちゅう)()する

 「籌」とは竹でできた算木のことだそうだ。

 「輸」の字の方には、「輸送」という言葉があることから見ても解る通り、「おくる」「はこぶ」という意味があるが、また別に「負ける」「敗れる」の意味があるそうな。

 その心は、(いくさ)などに敗れ、財物をそっくり「もっていかれてしまう」(すなわち輸送されてしまう)というところにある。それで、「輸」という字には「負け」という意味が生じてくる。

 ここで、「一籌を輸する」である。上記を併せて味わうと解るように、「ひとつ、もっていかれてしまう」即ち「一歩負ける」という意味なのである。

 わたしも(また)あらゆる芸術家のように(むし)(うそ)には巧みだった。がいつも彼女には一籌を輸する外はなかった。彼女は実に去年の譃をも五分前の譃のように覚えていた。

恒産(こうさん)恒心(こうしん)

 一定の収入(恒産)のない者は安定した穏やかな心や変わらぬ忠誠心(恒心)を持つことは難しい、という意味で「恒産なくして恒心無し」との故事成語がある。「衣食足りて礼節を知る」と似たような意味であろう。

 (ただ)し、出典の漢籍「孟子」には、「たとえ恒産がなくても恒心を持っているのは立派な人のみであり、一般の人々にこれは無理というものである」というようなことが書かれていて、もう少し複雑な意味のことを言っているようだ。

 恒産(こうさん)のないものに恒心のなかったのは二千年ばかり昔のことである。今日(こんにち)では恒産のあるものは(むし)ろ恒心のないものらしい。

メーテルリンク

 ノーベル文学賞作家。江戸時代~大東亜戦争終戦後くらいまで。

……「知慧と運命」を書いたメーテルリンクも知慧や運命を知らなかった。

新生

 「新生」というのは、ここでは島崎藤村の同題の小説のことを指しているが、芥川龍之介はこれをたった数語で痛烈に批評している。

 「新生」読後

 果たして「新生」はあったであろうか?

 島崎藤村は相当にダメな人物で、よりにもよって自分の姪を妊娠させてフランスへ逃亡し、(あまつさ)えそれを小説「新生」に書いて発表し、自分だけ目立ちまくって名声を得、姪の人生はメチャクチャにしてしまった。

 当時、芥川龍之介はこのことを批判して()まなかった。このあたりのことは、当時の文壇では知れ渡った醜聞(スキャンダル)であったようである。

ストリントベリィ

 スウェーデンの変人小説家。ニーチェの影響を受けていた。

 ストリントベリィの生涯の悲劇は「観覧随意」だった悲劇である。

マインレンデル

 ニーチェがむしろ愛しているふしのある、ドイツの哲学家。

 マインレンデル(すこぶ)る正確に死の魅力(みりょく)を記述している。

スウィツル

 「スウィツル」。これがまた、サッパリわからない。

 或日本人の言葉

 我にスウィツルを与えよ。(しか)らずんば言論の自由を与えよ。

 検索してみると、どうやら「スイッツル」というのは古い「スイス」の呼び方のようではあるのだが、だが、もしそうだとして「私にスイスを下さい。そうでないなら言論の自由を下さい」というふうにこの文を理解しても、その真意や背景がまるで判らないので、意味もサッパリ解らない。

ジュピター

 またしても、サッパリわからない。

 いや、ジュピターは言わずと知れた「木星」、ローマ神話の主神「ユピテル」のことではあるのだが、問題はそれが現れる文脈である。

 希臘人

 復讐(ふくしゅう)の神をジュピターの上に置いた希臘(ギリシャ)人よ。君たちは何も()も知り(つく)していた。

 ローマ神話をさかのぼるギリシャ神話で、復讐神をジュピターの上に置いていたのかどうかがわからない。だから、この一節の言わんとするところが全然わからない。

 ともかく、そんなことで「侏儒の言葉」は全部読み終わった。

 目下、次の著作、三木清の「人生論ノート」を読み進めつつある。半分ほど読んだろうか。

読書

投稿日:

 引き続き60年近く前の古書、平凡社の世界教養全集第3「愛と認識との出発/無心ということ/侏儒の言葉/人生論ノート/愛の無常について」を読んでいる。

 第1巻から延々と西洋哲学を読んできて、この第3巻でやっと日本人の著作に来たと思ったら、よりにもよって最初が倉田百三である。

 ドイツ哲学へドップリ傾倒しつつなぜかプロテスタンティズムへも我が身をなすり込んで慟哭し、しまいには親鸞に(すが)って啼泣(ていきゅう)するという、倉田百三のもはや何が何だかわけの分からぬ懊悩満載の文章に、多少うんざりしていた私である。

 そこへ、やっと来ました、鈴木大拙師の「無心と言うこと」。

 心に沁みる。疲労がたまりにたまっていたところへ、温かい茶を一服のむような安らいだ感じがする。この達観、達意。どうだろう。

 この「平凡社世界教養全集」、38巻あるうちのまだ3巻目に手を付けたにしか過ぎないが、当時の編集陣による配列の妙に驚嘆せざるを得ない。

言葉
(以下、引用(blockquote)は特に断りなき限り、平凡社世界教養全集第3(昭和35年(1960)11月29日初版)所収の「無心ということ」(鈴木大拙著)からの引用である)
一竹葉堦を掃って塵動かず

 本書の文中には

(ふりがなは筆者)

 よく禅宗の人の言う句にこういうのがある。

 「一竹葉(いっちくよう)(かい)(はら)って(ちり)動かず、(つき)潭底(たんてい)穿(うが)ちて水に(あと)なし

……というふうに書かれているが、どうも「一竹葉」というところなどが「……?」と思えなくもない。

 検索してみると、「竹影掃堦塵不動、月穿潭底水無痕」(竹影(ちくえい)(かい)(はら)って(ちり)動かず、(つき)潭底(たんてい)穿(うが)ちて水に(あと)無し)等とあり、出典も明記されているところから、おそらくこちらが正しいのであろう。

 意義は読んで字のごとく、竹の影が石の(きざはし)をはらっても塵が動くわけではなく、月の光が(ふかみ)の底を照らしても水に波一つ立つわけではない、というほどの意味である。なかなか味わいのある禅語である。

 この泰然自若、この不動、不変。自称「改革派」などに聞かせてやりたいと思う。

止揚(しよう)

 そういえばこの言葉、以前にどこかで見たなと思った。開高健の「最後の晩餐」で読んだのだった。

 ドイツ語の「Aufheben(アウフヘーベン)」である。

……今の哲学者の言葉で言うと、揚棄するとか、止揚するとでもするか。

応無所住、而生其心

 「まさに住する所なくしてその心を生ずべし」と()み下す。

 ところが無住ということが『金剛経』の中にある、『般若経』はどれでもそういう思想だが、ことに禅宗の人はよく「応無所住、而生其心」と申します。よほど面白いと思うのです。

 (作品中では返り点が打ってあるのだが、このブログでは返り点の表現は無理なので、上記引用には打っていない。)

 で、この言葉の意味よりも、「応」という字は確か漢文では「再読文字」なのだが、忘れてしまっていて、パッと()み下すことができなかった、というそのことが気になって、ここに書き出した。

 これは「まさに~べし」である。

 漢文を読んでいると、この「応(まさに~べし)」もよく出てくるが、他に、

  •  「将」(まさに~んとす)
  •  「且」(まさに~んとす)
  •  「当」(まさに~べし)
  •  「須」(すべからく~べし)
  •  「宜」(よろしく~べし)
  •  「未」(いまだ~ず)
  •  「蓋」(なんぞ~ざる)
  •  「猶」(なお~がごとし、なお~の
  • ごとし)

  •  「由」(なお~がごとし、なお~のごとし)

……なんてのがあって、覚えておきたいが、……いや、忘れる(笑)。忘れるからここに書いとく。

 これもなんだっけ、再読なんだったっけどうだったっけ、……と少し考えてから、ああ、「而」なんかと同じ「置き字」だった、……と思い出す。それほど気にして読まなくてもいい字だ。音読は「兮(ケイ・ゲ)」である。同じ置き字でも、「而」などは「て」とか「して」と()ませる場合も多いが、置き字の中でもこの「兮」だけは漢語での音読上の調子を整えるために置かれることが多く、日本語の()み下しではほとんど無視されるという気の毒そのものの字である。

 本文中には

大道寂無相、万像窃無名。

……とあった。()み下し文は付されていなかったのだが、多分、「大道(たいどう)(さび)れて(おもて)無く、万像(ばんぞう)(ひそ)やかにして()無し。」と()むものと思う。

表詮(ひょうせん)

 ネットではこの語の意味はわからず、手元の三省堂広辞林を引いても見当たらず、同じく手元の「仏教語辞典」を引いてもわからなかった。

 但し、「表」は見た通り「(あらわ)す」であり、「詮」は「あきらか」という訓読があるので、「明確に示す」というような意味でよかろうかと思われる。

……道元禅師が静止の状態を道破したとすれば、この方は活躍の様子を表詮(ひょうせん)しているといってよかろうと思います。

肯綮(こうけい)

 「腱」のことのようである。転じて、ものごとのポイント、そのものずばりの急所のことを「肯綮」と言うそうな。

……また甲と乙と同じ世界だ、自他あるいは自と非自というものが一つになった、それが実在の世界だといっても、どうも肯綮(こうけい)に当たらぬのです。

(せん)新羅(しんら)を過ぐ

 これがまた、検索してもサッパリわからない単語である。

……動くものが見えるときには、対立の世界がおのずから消えてゆく、すなわちこの世界は(せん)新羅(しんら)を過ぎて作り上げたものになってしまう。

 唯一、このサイトに解らしきものがあった。

(上記「佛學大辭典」より引用)

(譬喻)新羅遠在支那東方,若放矢遠過新羅去,則誰知其落處,以喻物之落著難知。

 「((たと)(たと)う)新羅は支那の東方遠くに()り,()し矢を(はな)ちて遠く新羅を過ぎて去らば、(すなわ)()()の落つる(ところ)を知る、()って物の落ち()くところ知り(がた)きを(たと)う。」

……とでも()み下すのであろうか。

 そうすると「この世界は箭新羅を過ぎて作り上げたものになってしまう」という文は、この世界は目標や着地点がまったくわからないまま作り上げられたものになってしまう、……という意味になろうか。

 本書中では「(せん)新羅を過ぎる」とルビが振ってあったが、サイトによっては「()新羅を過ぎる」と訓読しているところもあるようだ。

只麼(しも)にいる

 これもまた、実に難しい言葉である。只々(ただただ)、麼(ちっぽけ、矮小)、というほどの意味であるようだ。

……独坐大雄峰とは、ここにこうしている、ただ何となくいる、只麼(しも)にいるということ、これが一番不思議なのだ。

蹉過(さか)(りょう)

 「蹉過(さか)」というのは「無駄にしてしまうこと」だそうである。「蹉」という字にはつまづく、足がもつれる、というような意味がある

 してみると、「蹉過了」というのは「蹉過し(おわ)る」ということであるから、「とうとう全部が無駄だ」とでもいうような意味であろうか。

……これほど摩訶不思議なことはないのだ。こうしているというと、もうすでに蹉過了というべきだが、しかしそういわぬと、人間としてはまた仕方がない。

読書

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 平凡社の世界教養全集第3巻のうち、最初の収録、倉田百三の「愛と認識との出発」を読み終わる。

 現代かなづかいに直してあるので読みにくくはないが、内容は苛烈・苦悩・極端・懊悩・煩悶・煩悩と言ったもので、私に限っては心地よい共感や同感はなかった。「こういう腹の立つ若い奴って、実際にいるよな」などとも思えて、なじめない。

 キリスト教者で文芸評論家の佐古純一郎は解説において本作を「誰しもが若き日の過程において通る道筋」とでも言わぬばかりに大肯定しているのだが、若き日の私はこんな小難しくてかつ惰弱(だじゃく)な性情は持っていなかったし、そんな奴は嫌いでもあった。

 しかも作品を通底しているのはキリスト教礼讃である。それも、まるで、「畢竟人間など皆原罪を持つのだから、生まれ落ちた瞬間から詫び続けろ、謝れ!」と、こっちを睨み据え、唸り、迫り続けているように感じられる。そこには切々とした詩というものがまるでない。

 性欲を霊的なものと勘違いしたような興奮を「異性の内に自己を見出さんとする心」に書き付けたかと思えば、あっという間に冷めて、一部が表題ともなっている「恋を失うた者の歩む道――愛と認識との出発――」では、所詮ただの失恋を、またイジイジ恋々(れんれん)と言い訳している。見ちゃおれないほど痛い。

 中でも、「地上の男女」なる一篇などは、私にとっては狂人の所説、しかも完全に狂っていないだけに始末の悪い屁理屈にしか思えず、到底共感することはできなかった。こんな世迷言を若者に薦めることも到底いたしかねる。

 なによりも、この著作は女性を蔑んでいる。女性を大事なものの如くに気を付けて文章を書き付けていながら、その蔑視の内心がまるで隠せていない。江戸時代の文章であるならまだしも、せいぜい戦前の著作でこれでは、落胆せざるを得ない。

 こんなものがよく記念せられるべき古典として後世に残ったものだと思う。

 ただ一点だけ、少しここは良いかな、と同意できたのは、キリスト教を全面狂信というのではなしに、汎宗教のようにとらえ、同時に仏教、特に浄土真宗、親鸞と言った方向にも深い愛着を寄せていることである。実際、倉田百三の代表作「出家とその弟子」は親鸞伝をモチーフにした文学作品である。

言葉

 「愛と認識との出発」の文章は、今日び(きょうび)見かけない難解語のオンパレードである。漢字・漢語だけでなく、ドイツ語の哲学術語が多く使われ、前後のコンテキストだけに頼って読み進めることは極めて難しかった。辞書なしで読むのは無理である。通勤電車内の読書だから、まさか広辞苑・ドイツ語辞書・漢和辞典・英和辞典・和英辞典の5冊を担ぎ込むわけにもいかない。いきおい、スマホでネットの辞書を頼りながら読むこととなった。

オブスキュリチー

 Obscurity曖昧(あいまい)さ。

……身オブスキュリチーに隠るるとも自己の性格と仕事との価値を自ら認識して自ら満足しなくては、とても寂しい思索生活は永続しはしない。

(えら)

 これで「えらい」と訓むそうな。

……エミネンシイに対する欲求も無理とは言わない、がそこを忍耐しなくては豪い哲学者にはなれない。

エミネンシイ

 Eminency。傑出。

……後生だからエミネンシイとポピュラリチーとの欲求を抑制してくれたまえ。

向陵(こうりょう)

 向陵と言うのは、旧制一高のことだそうである。

……月日の((ママ))つのは早いものだ。君が向陵の人となってから、小一年になるではないか。

エルヘーベン

 Erheben。高揚。

 今年の私のこの心持は一層にエルヘーベンされたのである。

デスペレート

 Desperate。絶望、自暴自棄、やけ。

……君は(すく)なからず蕭殺(しょうさつ)たる色相とデスペレートな気分とを帯びてる((ママ))如く見えたからである。

インディフェレント

 Indifferent。無関心。

……私だって快楽にインディフェレントなほどに冷淡な男では万万ない。

自爾(みずから)

 これで「みずから」と訓む。連体詞のような副詞のような。

「現象の裡には始終物自爾(みずから)がくっついているのだから驚いた次の刹那にはその方へ廻って、その驚きを埋め合わせるほどの静けさが味わいたい」と私が言った。

 「始終物自爾」で始終(しじゅう)(もの)自爾(みずから)、である。

口を(かん)して

 「口を()じて」の誤植かな、とも思ったが、音読みどおりの「口を(かん)して」でよいようだ。

 私は口を(かん)してじっと考えた。((ママ))け放した障子の間から吹き込む夜風は又しても蚊帳の裾を翻した。

ザイン

 Sein。実在。

……自然は生死に関しては「ザイン」そのままを傲然として主張するのだ。

ヴント

 ヴィルヘルム・ヴント。

……氏はむしろヴント等と立脚地を同じくせる絶対論者である。

プラグマチズム

 Pragmatism。実用主義、実利主義。

……氏は誠にプラグマチズムの弊風を一身に集めた哲学者である。

Wollen(ウォルレン)Sollen(ゾルレン)

 主体と客体、主観と客観、というようなことだそうで、特に「Sollen」はドイツ語の難しいところであるようだ。自分の主張か、他人がそう主張しているか、というような解説もネット上にはある。

……実にこの本然の要求こそ我等自身の本体である。Wollenを離れてはSollenは無意義である。

斧鑿(ふさく)

 文字通り斧と(のみ)のことであり、転じて技巧のことを言うそうであるが、鑿の音読みが「サク」であるとは知らなかった。

  •  斧鑿(デジタル大辞泉)

……何等斧鑿の痕を((ママ))めざる純一無雑なる自然あるのみである。

Vorstellung

 フォーシュテルン。「表象」である。

……私はどう思っても主観のVorstellungとしての外は他人の存在を認めることができなかった。

Nachdenken・Vordenken

 ナハデンケン・フォーデンケン。内的な思考と他に関連する思考、とでも言うような意味か。特にVordenkenについては、抽象的な解しかなく、なんだかよくわからない。

……苦しんでも悶えてもいい考えは出なかった。先人の残した足跡を辿って、わずかにnachdenkenするばかりで、自ら進んでvordenkenすることなどはできなかった。

 わかりにくいぞ百三ッ!(笑)。

Leben・Denken

 リーブン。「生活」である。

 デンケン。「思考」である。

……私は子供心にも何か物を考えるような人になりたいと思って大きくなった。私はlebenせんためにはdenkenしなければならないと思った。

 ……いや、あの、百三(モモゾー)さぁ、なんで「生きていくためには思考しなければならないと思った」ではダメなわけ?変だよ、お前(笑)。

裂罅(れっか)

 なんと難しい、一般の日本語の文脈では見かけぬ単語であることか。しかし意味はそんなに難しくなく、「裂けてできた隙間」のことである。「裂」はそのままの意味、「()」は訓読みすれば「(ひび)」と()む。

……知識と情意とは相背いてる((ママ))。私の生命には裂罅がある。生々(なまなま)とした割れ目がある。

 別件だが、上の引用の「生々とした」という語が変換できなかったので、IMEに素早く登録しようとして品詞で困った。「生々」が語幹なら、これは「だろ・だっ・で・に……」の活用が完全にできない不完全形容動詞になるが、「生々し」が語幹になると「かろ・かっ・く・い・い……」と活用できる形容詞になる。

 似た単語としては「堂々」がある。普通の形容動詞のように「堂々だろう」なんていう使い方はないのだが、これは口語文法ではうまく整理できない。ところが、文語文法だと「堂々たる」「堂々たり」という「タリ」活用というのがあって、これは形容動詞である。では「生々」は「生々たる」なんて言い方があるかというとどうも怪しく、分類が難しい。

 「生々と」までを語幹としてその後を活用させず、「する」を動詞と見れば「副詞」だ、という整理もできる。

(ひそ)める

 「屏風(びょうぶ)」の「屏」の字に「める」を送った言葉である。

 この()み方はどうもネットの辞書等には見当たらない。「屏」の訓読みは「(おお)う・(かき)(しりぞ)く・(しりぞ)ける・(ついたて)」が一般的であるようだ。

 しかし、前後の文脈から言って「ひそめる」が最も妥当な読み方だと思う。

 私は何も読まず、何も書かず、ただ家の中にごろごろしたり、堪えかねては山を徘徊したりした。私の生命は呼吸を屏めて何物かを凝視していた。

コンヴェンショナル

 Conventional。月並み・ありきたり。

 私の傍を種々なる女の影が通りすぎた。私はまず女のコンベンショナルなのに驚いた。

ツァルト

 Zart。優しい。

……自分が今日キリスト者に対して、あるツァルトな感情を抱いているのは君に負う処が多い。

ウィッセンシャフトリッヒ

Wissenschaftlich。科学的。

……私はもっとしっかりした歩調で歩けるであろう。それには私の思索をもっとウィッセンシャフトリッヒにしなければならない。

……なんで普通に「科学的」って書かないかな、百三ェ……(笑)。

シュルド

 Schuld。有罪、借金、責任、……等々の意味がある。

……自分のある友は「彼と交わってよかったことは無い。自分は彼との交わりをシュルドとして感ずる」と言ったそうである。

 前後の文脈から言って「責任」「負い目」「責め」というふうに解するのが適当であろうか。

ベギールデ・ミスチーヴァス

 Begierde。欲望。

 Mischievous。いたずらな。人を傷つけるような。

……自分のやり方でこの少女の運命はいかに傷つけられるかも知れない。いわんやときにはベギールデが働いたり、ミスチーヴァスな気持ちになりかねない自分等が、平気で少女に対することができようか。

遑々(こうこう)として

 「煌々として」かな、と思ったら全然違っていて、部首が「しんにょう」である。意味も全然違う。「煌々」は「きらきら光り輝く様子」のことだが、「遑々として」というのは慌ただしく心が落ち着かないことを言う。

……親鸞はその夢を追うて九十歳まで遑々として生きたのであろうか。

Tugend

 トゥゲント。徳。

……社会に階級があるのが不服なのはその階級がTugendの高下に従っていないからである。

インニッヒ

 innig。心からの、真心の、誠実な、等々の意味がある。

 第四、肉交したために愛がインニッヒになるのは肉交の愛であることとは別事である。

 しかし、この文脈から言って、ここは「睦まじい」というふうに解するのが適切か。

Seelenunglücklichkeit

 ジーレンオングリックリッヒカイト。魂の不幸。

 文中ではSeelenunglücklichkeitと長大な一単語として書かれてあるが、Seelen unglücklichkeitという二つの言葉であるようだ。

……かかるseelenunglücklichkeitは人間が、真に人間として願うべき願いが満たされない地上の運命を感ずるところから起こる。

レフュージ

 Refuge。避難所。

……仕事場にあっても、家庭にあっても、教会にあっても、絶えず心がいらいらする、レフュージを芸術に求むれば胸を刺し貫くようなことが何の痛ましげも、なだめるような調子もなく、むしろそれを喜ぶように書いてある。

 文脈から言って「逃げ道」とでも解するのが適切か。

イルネーチュアード

 Ill-natured。意地の悪い。不健全な。

……文壇はその門をくぐる人をイルネーチュアードにさせる空気を醸しているようにみえる。

 これも前後の文脈から言って、「意地悪」と解するのが適切だろう。それにしても、その数行前には

 一、私の尊敬している少数の人々も周囲に対するときは意地の悪い文章を書く。

……という文章が現れるのだが、ではなんで百三(ヒャクゾー)っち、ここでは「意地悪」と書かずにわざわざ「イルネーチュアード」なんて書くのか。まるで意味がワカンネェ(笑)。

ハンブル

 Humble。謙虚な。控えめな。謙遜な。

 『出家とその弟子』がこのたび当地で上演されることについては、私はいま本当にハンブルな心持になっている。

ハンドルング

 Handlung。筋書き。

……それもハンドルングばかりに動かされるようなことではあの作は面白くないに違いない。

次の収録作

 さて、平凡社世界教養全集第3の次の収録作は、鈴木大拙(だいせつ)の「無心と言うこと」である。今度は少し爽やかな読書になるだろうと思う。倉田百三は私には合わない。