短日の
神に
#jtbt
皆様こんばんは。佐藤俊夫です。「じたばた句会」の席題です。
今回は「ハ行」の活用の動詞を必ず入れて詠んでください。
【例】頬の泥ぬぐふ手あらず蓮掘女 片山由美子 (ぬぐ「ふ」)
季は春夏秋冬正月問いません。ヤ行の動詞と間違わないように。
さあ、いわば「形式詠」、レッツじたばた!— SatoToshio (@SatoToshio) January 29, 2022
「夏雲システム」で関谷氏が運営しておられる「じたばた句会」に投句したものです。
オッサンは生きている。
#jtbt
皆様こんばんは。佐藤俊夫です。「じたばた句会」の席題です。
今回は「ハ行」の活用の動詞を必ず入れて詠んでください。
【例】頬の泥ぬぐふ手あらず蓮掘女 片山由美子 (ぬぐ「ふ」)
季は春夏秋冬正月問いません。ヤ行の動詞と間違わないように。
さあ、いわば「形式詠」、レッツじたばた!— SatoToshio (@SatoToshio) January 29, 2022
「夏雲システム」で関谷氏が運営しておられる「じたばた句会」に投句したものです。
テーマ詠:平和
本日11月27日は「ノーベル賞制定記念日」。
科学者ノーベルが「自らの発明したダイナマイトで得た富を人類に貢献した人に与えたい」という遺言を書いた日だそうです。
ノーベル平和賞にちなみ、心、人類、虫、獣、地球…様々な平和に思いを馳せましょう。では、let’s #jtbt !!— 碧西里 (@hekiseiri5) November 27, 2021
「夏雲システム」で関谷氏が運営しておられる「じたばた句会」で、碧西里さんが令和3年(2021)11月27日(土)に出題されたテーマなのですが、私は当日残念ながら参加できず、翌日Twitter上で別に詠んだものです。
「春は花、花は桜」という。
愛用の歳時記、角川の合本の「花」の見出しを見ると、傍題季語には、
……と、ゆかしい言葉が並んでいる。花そのものでなければ、「花疲れ」「花
今年の桜は既に咲いたが、今日は雪が降っている。「花の雪」という言葉は歳時記に載っていないが、あってもおかしくないな、と思う。
傍題ではなしに、見出し季語で「花冷え」という言葉もある。そこからすると今日などまさしく花冷えと言える。
三春九十日と言う。立春
ところが今日は冷え込み、太平洋側に低気圧が現れて、思いもよらぬ春の雪となった。昼にますます気温が下がり、手先が冷える。それと共に雪の
躑躅に春の雪、とはなかなか
60年前の古書、平凡社世界教養全集第6巻「日本的性格/大和古寺風物誌/陰翳禮讃/無常といふ事/茶の本」のうち、谷崎潤一郎の「
ひとつ前の収録作品「大和古寺風物誌」も非常によく私の体質に合い、読んで楽しかったが、こちらも非常に楽しかった。大和古寺風物誌は純粋な古寺古佛への信仰と美への
収録は標記の「陰翳禮讃」の他、「現代口語文の
非常に多くのボリュームを割いて、昔の日本式便所への懐古と愛着を再度にわたって述べているところなど、それこそ読んでいて昔の旧家の厠のほのかな臭いまで漂ってきそうで、おもわずクスリと笑ってしまった。
本作品には「われわれ」「いろいろ」といった言葉に、かつてよくあった「くの字点」の使用が多い。「くの字点」とは、縦組み活字に見られる次のような「繰り返し記号」のことである。
あるいは、
縦組みだと上のようにそれほど違和感はないのだが、横組みにすると「旅のいろ〳〵」「顔のいろ〳〵」となり、どうにも収まりが悪い。しかし、原文にできるだけ忠実に写すため、やむを得ず以下の如くとなった。
水洗式の場合は、自分で自分の落したものを厭でもハツキリ見ることになる。殊に西洋式の腰掛でなく、跨ぐやうにした日本式のでは、水を流すまでは直ぐ臀の下にとぐろを卷いてゐるのである。これは不消化物を食べた時など容易に發見することが出來て、保健の目的には叶ふけれども、考へて見れば不作法な話で、少くとも
雲鬢花顔 の東洋式美人などには、かう云ふ便所へ這入つて貰ひたくない。やんごとない上臈などゝ云ふものは、自分のおゐどから出るものがどんな形をしてゐるか知らない方がよく、譃でも知らない振りをしてゐて貰ひたい。
料理屋やお茶屋などで、臭氣止めに丁子を焚いてゐる家があるが、矢張厠は在來の樟腦かナフタリンを使つて厠らしい上品な匂をさせる程度に止め、あまり好い薰りのする香料を用ひない方がよい。でないと、白檀が花柳病の藥に用ひられてから一向有難味がなくなつたやうになるからである。丁子と云へば昔はなまめかしい連想を伴ふ香料であつたのに、そいつに厠の連想が結び着いてはおしまひである。丁子風呂などゝ云つたつて、誰も漬かる奴がなくなつてしまふ。私は丁子の香を愛するが故に、特に忠告する次第である。
長谷川如是閑の文章の引用が出てきた。この巻の最初の収録作品は長谷川如是閑の「日本的性格」であった。
「西洋人の顔にはどこか人間以外の
獸 臭い感じがある、眞に人間の顔らしい顔をしてゐるのは中國人である」――もとの言葉はわすれましたけれども、嘗てさう云ふ意味のことを長谷川如是閑さんが仰つしやつたことがございました。随分古いことで、ずうつと昔朝日新聞記者時代にお出しになつた「倫敦」と申す著書の中にあつたのではないかと存じますが、あれはまことに名言だと存じましたので、今以て時々思ひ出すことがございますので、何かの機會にもう何囘となく引用させていたゞいたことがございました。
昔は黄色人種の方が世界文明の中心であつた時代もあるやうに承つてをりますが、そのせゐかどうか中國人は勿論のことゝいたしまして、縁に繋がるわれ〳〵日本人たちも、少くとも容貌姿態の點に於て白人に劣つてゐるとは思へませんな。
この間或る亞米利加の進駐軍の將校が、何の芝居であつたか歌舞伎の切腹の場面を見て、腹を切つてからあんなに長い間ものを云つてゐるのは可笑しい、と云つたと云ふ話を聞いたが、われ〳〵も幼年の頃、父母につれられて初めて舊劇を見た時分には等しく此のことを異様に感じたものであつた。たゞわれ〳〵はその後たび〳〵さう云ふ場面を、明治以來數々の名優の名演技に依つて繰返し見せられてゐるうちに、次第に歌舞伎とはさう云ふものだと思ひ込ませられ、それを訝しむ神經が麻痺してしまつたので、今日六代目の勘平などを見れば、訝しむどころか大いに感激するのであるが、たま〳〵外國人がさう云ふ感想を洩らすのを聞けば尤も至極に思ふばかりでなく、あの不自然さに氣がつかないで感心して見てゐるわれ〳〵日本人を、外人たちはどう思ふであらうかと、耻しくさへなるのである。
花も雪もはらへば淸き袂かな、合ほんにむかしのことよ、わが待つ人もわれを待ちけん、合
鴛鴦 の雄鳥 にもの思ひ羽 の、凍る衾 に鳴く音はさぞな、さなきだに、心も遠き夜半の金、合きくもさびしきひとり寢の、枕にひゞくあられのおとも、もしやといつそせきかねて、合おつる涙のつらゝより、合つらき命は惜しからねども、戀しき人は罪ふかく、思はぬ、合ことの悲しさに、捨てた憂き、合捨てた浮世の山かづら
「この曲の合の手は一般の三味線に於いて雪とか冬とかを現はす場合必ず用ひられることになつてゐて、義太夫、江戸唄、江戸浄瑠璃の各流までこの手が取り入れられ、芝居や寄席曲藝手品の囃子に至るまで雪の手を使つて雪や冬の氣分を生かしてゐる」
近代の人はとかく頭が論理的になつてゐるので、かういふ風な章句と章句とのあひだに幾分の間隔やズレのあるやうな詞章は作りにくく、どうしても理詰めなものになり易いのでそれだけ味のうすいものが出來てしまふ。
前びき磯邊の松に葉がくれて、沖の方へと合入る月の、光や夢の世を早う、合さめて眞如の明けき合月の都にすむやらん手事五段今は
傳 てだにおぼろ夜の、合月日ばかりはめぐり來て
私が特に聞きたいと思ふやうな曲は大概發賣されてゐない。
私の妻はショパンの夜想曲の盤を懸けてはひとり涙を流してゐたが、私は「雪」を聞きながら又と歸らぬ日のことを思ひ、嵯峨や東山あたりの風物を空想しては時間を消した。
これは、第4巻のうち、阿部次郎の「三太郎の日記 第一」を読んだときにも出てきた字で、これで「
私は前に、蒔繪と云ふものは暗い所で見て貰ふやうに作られてゐることを云つたが、かうしてみると、啻に蒔繪ばかりではない、織物などでも昔のものに金銀の糸がふんだんに使つてあるのは、同じ理由に基づくことが知れる。
これで「
そして彼の手を見ながら、しば〳〵膝の上に置いた自分の手を省みた。そして彼の手がそんなにも美しく見えるのは、手頸から指先に至る微妙な
掌 の動かし方、獨特の技巧を罩めた指のさばきにも因るのであらうが、それにしても、その皮膚の色の、内部からぽうつと明りが射してゐるやうな光澤は、何處から來るのかと訝しみに打たれた。
「
お月見の場合なんかはまあ孰方でもいゝけれども、待合、料理屋、旅館、ホテルなどが、一體に電燈を浪費し過ぎる。
「
彼處は北向きの高臺に據つてゐて、比叡山や如意ケ嶽や黑谷の塔や森や東山一帶の翠巒を一眸のうちに集め、見るからすが〳〵しい氣持のする眺めであるが、それだけになほ惜しい。
また見たことも聞いたこともない言葉である。これは「
今でもよく、たとえば琉球とか、青森とか、邊陬の地から都會へ出て來る人たちは、教育のある者であればある程、「であります口調」や新聞雑誌の文體に近い口語體で、切り口上で物を云ふのはしば〳〵見受けるところである。
見たこともない漢字で、IMEでは出すこともできなかった。これは音読みは「キョウ」だが、訓読みは「つえ」と訓む。
……なほ西の國の歌枕見まほしとて、仁安三年の秋は、葦がちる難波を經て、須磨明石の浦ふく風を身にしめつも、行く行く讃岐の眞尾坂の林と云ふにしばらく笻を停む。……
「genius」は「天才」だが、文脈では「雰囲気や特性、風潮、精神」というような意味で使用している。
もと〳〵西洋と日本では言葉のジニアスが違ふのであるから、模倣したところで程度は知れたものである。
「
ところが、この「陰翳禮讃」でも「鷗外漁史」と、森鴎外を指してこの語を使っているが、各辞書類の例文なども、ほとんどが「鷗外漁史」を例として挙げており、どうも、森鷗外の他に使うところはないような感じである。
「漁」には「あさる」の意、「史」には「ふびと」すなわち文筆家の意味がある。文筆に徹底する人、とでもいう意味となろうか。
もしわれわれが西洋物を譯するのに直譯體に依らないで純然たる日本風の表現法を取るとしたら、むしろ原文より短
か いくらゐになることは、鷗外漁史の「即興詩人」などを見ても分る。
「
久保田氏の方はそれと反對に、出來るだけ言葉を愼しみ、云はないで濟むことは成るたけ云はないやうにして、守錢奴が錢を吝むやうに一語一語を惜しみつゝ暗示的に使つてゐる。
「タれんとする」ではない。これで「
爾來二十有餘年に
垂 んとするけれども、まだ此の英語は實地に應用する機會がない。
「
この字も、このブログでは、以前読んだ阿部次郎の「三太郎の日記 第一」の読書記録に出てきている。
p.316より
これは寔に矛盾した話で、たまたま泊りあはせた宿が大そう居心地がよかつたり……
「
成る程、大阪人は此の點に於いて東京人よりも慥にだらしがない。
「
「卑しくも」とはまるで意味が異なることは言わずもがなで、「苟」の字には「かりそめ」との訓みがあり、そこから「かりにも」「かりそめにも」といった意味合い、「いやしくも教師たるもの」というような、身分や地位にふさわしい規範が求められるような表現に使うものだ。
苟も接客業者たるものはそのくらゐな用意があつて然るべきではないであらうか。
読んで字のごとく、国が合併することであるが、ここでは義太夫節の「
Youtubeあたりで演奏が見られないかと探してみたが、どうも見当たらないようだ。
摂州合邦辻は歌舞伎の演目にもあり、中国のサイトで昭和31年に中村時蔵・芝雀によって演じられたもののモノクロ動画があることはある。歌舞伎の
全體的に見て合邦と云ふ義太夫がいかに馬鹿々々しいものであるかは、多分此れを聞いたことのある人は誰でも氣が付いてゐる筈であるが、しかし所謂痴呆の藝術のうちでも此れなぞは最も典型的なものであるから、今試みにその馬鹿々々しさの二三を指摘して見よう。
それにしても、なんと散々な評し方であること。
#kigo #jhaiku #haiku #saezuriha
さえずり季題【424】は「雪」です。
雪は我々地球人にとっては取り立てて珍しいものではありません。
しかし、よく考えてみると、実に精妙な宇宙の神秘が隠されている。いくたびも雪の深さを尋ねけり 子規
降る雪や玉のごとくにランプ拭く 蛇笏#saezuriha #saezuriha_odai— Blueberry7015 (@NHotozuka) January 19, 2019
#kigo #jhaiku #haiku #saezuriha
さえずり季題【367】は(雪) です。雪国では厄介者の一面もありますが、沖縄では憧れを抱く人も多いとか。トナカイもサンタも準備中です。例句( ゆつくりと目鼻をつけよ雪達磨 中原道夫) #saezuriha_odai #saezuriha pic.twitter.com/UBjVNz0FrQ
— 平坂謙次 (@hedekupauda) December 15, 2017
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