障害者と感動とキリスト教

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 何か、NHKの番組が評判になっている。今夜放送されるという。評判になっている理由は、例の24時間なんちゃらの裏番組としてぶつけるべく作られた、「ケンカ売っとんのか」みたいな番組だから、らしい。

 さておき、私が思うには、「本来、障害者は人を感動させるべき人たちである」という決めつけに違和感を覚えるのは、それが聖書・マタイ伝にある、

(以下、聖書『マタイ傳』より引用)

幸福(さひわひ)なるかな、心の貧しき者。天國はその人のものなり。幸福なるかな、悲しむ者。その人は慰められん。幸福なるかな、柔和なる者。その人は地を()がん。幸福なるかな、義に飢ゑ渇く者。その人は飽くことを得ん。幸福なるかな、憐憫(あはれみ)ある者。その人は憐憫を得ん。幸福なるかな、心の清き者。その人は神を見ん。幸福なるかな、平和ならしむる者。その人は神の子と(たた)へられん。幸福なるかな、義のために責められたる者。天國はその人のものなり。我がために、人なんぢらを罵り、また責め、(いつは)りて各樣(さまざま)()しきことを言ふときは、汝ら幸福なり。」

……というような観念、つまり、「(めし)ひたる者は(さひは)ひなる(かな)、そは神により許されたればなり」というキリスト教的な価値観念に通じているからではないだろうか。

 つまり、このことに関する違和感は、それはキリスト教に対する違和感であると思えばよい、と私は思う。