読書

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 冬物の黒ズボンをもう一本、ユニクロのオンラインストアで注文した。気に入ったサイズのものがなかったので、1サイズほど小さいものを選んだ。気に入っているサイズがなかったのは残念だが、いつも選ぶのはピッタリよりもだいぶ大きいサイズのものなので、1サイズ小さくしたからと言って着るのに多分支障はないだろう。

 さておき、60年前の古書、平凡社世界教養全集第5巻。引き続きゆっくり読んでいる。

 収録著作の二つ目、フランスのモラリスト作家、ボナール(Abel Bonnard)の「友情論」を朝の通勤電車で読み終わった。

 友情を至高の精神的境地として扱っており、うわべの友情や、男女間の友情を徹底的にこき下ろしている。また、昔の著作であるため、女性を低く見ているように感じられ、多分このような点は現代では受け入れられないだろう。

 本著作は全部で6部からなるが、その第5部で「男女間の友情」について友人との対話の形式で書いている。友人とは論が対立し、結論は出していないが、友人は「男女の間の友情など成立しない。男女間の友情など恋愛の劣化品に過ぎない。そして、女同士の友情は男同士のそれのようには高みに達し得ない」と言い、著者はこれに有効な反論ができない。しかし、こうした論を嫌う人は、現代には多いと思う。

 内容とはあまり関係がないことだが、どうも翻訳が良くないようだ。論が(にわ)かには理解し(がた)い。

気に入った箇所
平凡社世界教養全集第5巻(昭和36年(1961))「友情論」(A・ボナール著、安東次男訳)より引用。以下、他の<blockquote>タグ同じ。
p.180より

ほんとうの友達は、たがいの隠れた類似から近づくが、凡庸な友達は、うわっ面の類似で近づくものだ。

p.199より

 友情が嘘のおかげで滅びることがあるように、恋愛は、本当のことのせいで滅びることがある。

p.203より

 感情を害しやすい人々の行為には一つの深い理由がある。つまり、かれらが言いわけを聞くのを厭がるのは、持っているつもりの不平の種が消えてしまうのを恐れるからだ。しかるに、それこそ、かれらが何よりも避けたがっていることなのだ。泣き言の種をつねに大げさに言いたがり、そのくせけっしてはっきりとはさせたがらない。かれらは不幸であることを望む。こうした心情の策謀家たちには、忿懣や言いがかりや誤解が必要であって、このような気質はある種の人々にあっては、一種の偏執か悪徳にまで達することさえある。結局のところ、かれらが友情を愛するのは、ただ仲たがいするためにすぎない。

 次の部分は、籠池何某氏に対する菅野(すがの)(たもつ)氏の関係のような感じが、何となく、した。

p.205より

 偽りの友情が偽りの恋愛よりはるかに少ないのは当然のことである。というのは、恋愛などおよそがらに合わない人間でも、肉体の力でそれに引きこまれることもあるからだ。これに反して友情の場合は、たいてい、そんな能力のない人間は、かかり合わない。とはいえ、単に計算や利害だけでは説明のつかぬもっと奇妙な性質の、偽りの友情も存在する。ある種の人々はわれわれに対して、同情のない好奇心ともいうべきものを感じる。かれらは、われわれが正しいというのでもなく、われわれの味方になるのでもないが、まちがっているともあえて言わぬ。けっして助けてくれようとはせず、生きるという劇をわれわれがどんなふうに切り抜けていくかを、見たがっているようだ。世捨て人の生活をいとなむ人々でさえその孤独を囲む生垣の隙から、こうした注意深い間諜の目が光っているのを目にするものだ。この連中は、われわれの友達というよりも、敵のまわし者である。世間は、かれらがわれわれのもとに出入りするから、われわれのことをよく識っていると思うし、じじつかれらは、他人に一切の情報を、そのおかげで世間がわれわれの真の姿を見失うような情報を、提供する役目をひき受ける。かれら慈悲深い中傷家、愛情にみちた裏切者が、われわれの弁護をしてくれることもあるが、それは、一瞬あとでは、かれらの感情の高潔さとともにわれわれに関する悪評の正しさを聞き手に確認させるような性質のものである。こういう連中に対しては、かれらをよく識るということ以外の復讐をしてはならない。われわれの心がかれらから離れる一方、かれらの姿はわれわれの目に喜劇と映る。ときとして、あまりひどい悪口を言ったときなど、かれらは、われわれと出会うとすっかりまごつく。そんなときは、はっきり顔を見つめることができないものだから、握手に力をこめ、やたら甘言をふりまきいきなり、当のわれわれに向かって、他の人にはけっして言うまいと思われるほど、あらゆる賛辞を並べたてる。しかしわれわれは、じつはそれが悪口の裏返しにすぎないというぐらいのことは、すでに見抜いているから、それを聞いて微笑を禁じ得ない。

 次の部分は全論の結語部である。これが「揚棄(アウフヘーヴェン)」というようなことなのかな、と感じられた。

p.236より

 たしかに、人間は、自由で晴朗で高雅な方法でのみ、おのれの力を証明する。かれはこれによってひき起こされる孤独に耐える。だが、もしあまり容易にこの孤独に至りつけば、そんな孤独には何の価値もないであろう。まずはじめに、ありとあらゆる欲求を感じていたということが必要なのだ。その性質が進展していくにつれて、もはや自分とだけしか真の交わりを結べぬまでにいたったときでさえも、いま一度、この状態と、人間嫌いとを、絶対に区別しなければならない。人間嫌いは、怒りっぽくなり、いじけてくる。孤独は、おのれをくりひろげ、純化する。人間嫌いは、相変わらず人間たちの間にとどまりながら、人間たちにバリケードをきずく。孤独な人は、おのれを高めるのであって、閉じこもるのではない。かれの魂は、茨に守られた家ではない。高所にはあるが、いつでも出入り自由な宮殿なのだ。そこには、誰ひとり姿を現さぬとしても、やはり、客を喜び迎えることに変りはない。われわれとともに楽しみにくるはずのあのすばらしい君子たちのために、毎夜、饗宴は催されるのである。すでに発ったが、ひどく遠いところから来るためにすこし遅れるあの婦人のためには、彼女の部屋の豪華な内部装飾まで、すっかり準備が整っている。この祝祭に列するのが、祝祭を開いた当人ひとりだけという結果になっても、やはりこのうたげが、〈友情〉や〈愛〉に対して開かれていたことには変りはあるまい。生きる(すべ)とは、あらゆるものを迎え入れる力を持ちながら、何ものをも持たずに済ますすべを学ぶことである。

言葉

 翻訳なので、難しい言葉はそんなになかったが、しかし古い時代の翻訳であるから、中には読み慣れないものもあった。

穹窿(きゅうりゅう)

 建設・建築方面の言葉で、欧州の古寺院にあるような丸天井のことである。

 さて、次は3つ目の著作「恋愛論」である。同じくフランスの作家、スタンダール(Stendhal)の著作だ。スタンダールと言えば「赤と黒」などの小説が有名だが、自分では小説家ではなく哲学者だと思っていたのだそうで、そのためこの「恋愛論」などの著作もあるのだという。