読書

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 引き続き60年前の古書、平凡社の世界教養全集を読み進めている。

 第11巻「芸術の歴史」(H.ヴァン・ルーン著)を読み終わった。

 著者のH.ヴァン・ルーン Hendrik Willem Van Loon と言うと、この全集第8巻で読んだ「聖書物語」の著者である。

 人類有史以来の芸術について平明簡易に語り進めるもので、絵画・建築・彫刻・音楽は言うに及ばず、宗教や思想など、芸術にかかわることのほとんどすべてを論じている。欧州の芸術に軸足を置いて論じてはいるが、その視野は漏れなくインド・中国・日本などのアジア、また南北米大陸にも及んでいる。

 この本を読んで強く感じたのは、芸術というものが技術開発と密接不離に進歩するものだということだ。技術と、それを使用した表現に、貴族・武士と言った一部の階層からの保護が与えられて、芸術が今日の大成を見るに至ったのだということである。もちろん大衆の支持もあるが、本書が芸術として取り扱っているものに関しては、金のない大衆は芸術にはあまり寄与していない。そのことを振り返ると、例えば漫画やゲーム、ネットコンテンツも、将来、一定の助成などが与えられて初めて芸術として認められていくのではなかろうかと思われる。

 ルーンは、個人にあっては、天分よりも、絶えざる錬磨、技術の向上が芸術の大成には必要である、と繰り返し説いている。

 他に、この本には、書かれた時代(昭和12年(1937)、すなわち第2次世界大戦直前のナチス・ドイツ台頭期)が色濃く反映されていると感じられた。作品の随所でヒトラーを批判するのみならず、ヒトラーが崇拝するワグナーなどの芸術をも批判する雰囲気が濃厚である。「坊主憎けりゃ……」なんとやら、というところか。

 翻訳は(たま)()(はじめ)という人で、この人が解説も書いている。玉城氏は自由主義者で多少左傾の(おもむき)もあったのか、戦前、「企画院事件」などというものに関係して逮捕されている。本書の翻訳は戦中、昭和18年に着手されたのであるが、検閲などの苦労があったらしく、解説には本書の見出しの翻訳について、「『インド・中国・日本』という翻訳を、『日本、支那および印度』と書き直させられた。あまりにもばかばかしい」という意味の愚痴を書き連ねている。今となってはむしろ微笑ましくすら感じられる。

気になった箇所
平凡社世界教養全集第11巻「芸術の歴史」より引用。
他の<blockquote>タグ同じ。p.96より

 私はアマチュア大賛成である。けれどもよいアマチュアは「アマチュアくさく」なることを注意深く避けている。それはどういう意味なのか。そうだ、ちょっとした才能くらいで気の毒なほどの技術の欠如を克服できると考えるのは生意気というものである。

 どんな男、女、子どもでも自分を独自の方法で表現する権利があるということをこのごろよく聞く。私は一瞬間でもその立派な権利を否定するものではない。ただしその作品はしまっておいてもらいたい。というのは技術をもたない天才は、目にも耳にも、余りにも痛々しいからである。

 二十年前ならばこの点を強調する必要はなかったかもしれない。生活のあらゆる部面で現に進行しつつあるあらゆる古い価値の大きな再評価は、わが音楽家、画家、詩人の卵たちの中にもはっきり現われ、人々はよく尋ねるのである、「どうして相も変わらずこんな技術をくりかえすのか、『古典的方法』とやらにこだわるのか。天才だけで十分ではないか」と。

 いや、天才だけでは十分ではないのだ。

p.181より

 今日レ・ボー(フランスのブーシュ・デュ・ローヌ県の町――訳者)の廃きょ(墟)をたずねると、昔ここがエルサレムを支配した王の都だったとは想像しにくい。そして諸君がたとえぼう大な石の堆積の下に、小さな、悲しくも忘れ去られた庭園を見出したとしても、それがかつては愛の園で、貴族のトルバドゥール(十一世紀から十三世紀末ごろまで、南フランスや北イタリアに起こった抒情詩人――訳者)たちが集まっては、その選んだ貴婦人の完璧な美しさを誰がもっともうまくうたえるかを競い合っていたところだとは、よもや信ぜられないであろう。

 ところがそこはそういう場所であったのだ。まさにその小さな庭園ではじめて、蕃族の卑しめられた土語の一つが、それまであらゆる文学や詩が書かれていた公用のラテン語と対等にはり合う機会を得たのである。まさにここの、今茂っているオリーヴの樹の祖先たちの下で、世界の他の人々が罪深いこの世の快楽に対してかたくなに背を向けていたとき、プロヴァンス人たちは美と笑いと幸福への権利を大胆に主張していたのである。

p.183より

しかし騎士道は、単なる戦士にすぎない連中は相手にしなかった。騎士道は特権よりもむしろ騎士の義務を重んじたのである。騎士道は、騎士が一段と高い地位にあるがゆえに、かれらが群をぬいていんぎんで、礼儀正しく、寛大な態度をとるように要求した。こうしたことは西方世界ではずっと昔から聞いたことのあるものではないのであって、ハルン・アル・ラシッド王時代にしばしばバグダッドの宮廷を訪れるのを常とした騎士たちの尊重した理想と、非常に似たものをもっていた。

p.217より

 諸君も認めるように、ローマ帝国というものはそれだけでも実はたいしたものであった。たとえ廃きょ(墟)となっていても。精神的な観点からいえば、それは西洋文明の中心地としての昔の地位を維持することをけっしてやめなかった。それが今ではまたもや、世界じゅうのあらゆる「近代人」がそれによって家や事務所を建てなければならず、さもなければ救いがたい旧式だと思われるような新しい建築様式を指示することができるようになったのである。というのは、その新様式が流行の対象となったからである。ちょうどゴシックやアン女王時代の様式が、毎日のようにわが国の大学を建てている博愛主義者諸君の流行の対象となっているように。次の二世紀の間にそれは大陸の隅々にまで浸透した。そしてその勝利をおおいに助け、後押ししたのは、芸術の領域への新来者――職業的建築家であった。

p.252より

 さてこの辺でおなじみのウッツェロ、すなわち小鳥飼いのパオロにかえろう。かれの名は透視法の発見と永久に結びついているからである。

p.260より

どんな芸術にも平凡な、普通のきまりきった仕事がどえらく積み重ねられている。近道はないのだ。ピアノを弾いたり、ソナタを作曲したり、彫刻をしたり、いい散文を書いたりすることを諸君が本当に学びたいならば、ただ同じことを何度も何度も、何時間も、何日も、何年もくりかえさなければならない。一生かかっても絶対の完成に達するにはたりないからである。そして趣味というものは鑑賞する能力にすぎないのだから、諸君が本当に一流芸術家になりたければ、見聞きすべきあらゆるものを見たり聞いたりしておかなければならない。そして神様が諸君にも恵みを給うならば、いつの日にかは大芸術家になる望みも出てくるであろう。けれどもそのことは仕事を意味している。さらにもっと多くの仕事、石炭荷揚げ人夫や下水掘り人夫でさえもいやになるほどの仕事を意味するのである。

p.289より

 さて芸術の本を書いているのだから、この人の労作を要約することばを二、三走り書きしておかなければなるまい。この人の作品の前に近づくとき私は妙にひざの力がなくなってゆくような感じがし、誓って私の魂とは全く無縁な謙譲の念が生まれてくる。ともかくも私には一つのことがいえる。その老いた人はそのことを理解していただろうと私には思われる。

 ミケランジェロの偉大さは気高い不満にあったのである。――他人に対してではなくて、自分自身に対する不満に。この世のあらゆる偉大な人々、ベートーヴェンやレンブラントやゴヤやヨハン・セバスティアン・バッハのように、ミケランジェロも「完璧」ということばの意味を知っていた巨人であった。そしてはるかにカナンの地を望見していたモーゼのように、自分の力でかちとることのできないものを手に入れることは、かよわいわれわれ人間にはできるものではないということを悟っていた。だからこそそれは気高い不満なのであり、それはあらゆる知恵の始めであるばかりでなく、すべての偉大な芸術の始めであり、終りでもあるのだ。

p.328より

それはどんなにうまく生き残ったものでも、国王フィリップ二世の即位までに破壊された。

 この君主ほどの権力を一手に握れば、芸術様式全体をつくることも、滅ぼすこともできる。カトリックのジョン・カルヴィンともいうべきこのあわれな狂信者は、一つのばかでっかい、単調きわまる建物――マドリッドの近くにある冷たい灰色の石のばく大なよせ集めで、エスコリアルと呼ばれる建物に自分自身を表現しようとした。

p.329より

 しかしだからといって、スペインがバロック様式の指導者になったといえば誇張であろう。スペイン人は他の人民よりいっそう多くバロック様式をヨーロッパじゅうへ普及することに貢献するはずであったが、かれらの建築時代は終わった。建築には金がかかったのに、スペインは破産したからである。外国人資産の管理についての完全に誤った考え方、非スペイン人全部(ムーア人、ユダヤ人とも、その民族の中でももっともよく働く人々であった)を排除し、経済組織の中での小農民の重要性を全く見落とした人種的うぬぼれ――こういう国は新世界の金山全部をもっていても生き残ることはとうていできなかったのである。

p.330より

 そのもっとも初期の、そして最大の画家の一人は外国人で、クレタ島から来たギリシア人であった。ドミニコス・テオトコプロスといい、ローマ(一五七〇年にかれはそこに到着した)ではドメニコ・テオトコプリとして知られ、ギリシアのこみ入ったつづりをうまく発音できなかったスペイン人たちはかれをエル・グレコと呼んだ。このことばをみても、かれらがこの人を「外国人」と見なすことをやめなかったことがわかる。

p.418より

ロシア人は建築のことになると余り工夫の才を示さなかった。かれらはイヴァン雷帝の奇怪な建物にがまんしていた。こんどはピーター大帝のバロック的ロココ趣味にも文句をいわなかった。今後もかれらはおそらく誰かが与えてくれるどんなものにもしんぼうするであろう。自分たちはまだ若いのだとかれらは弁解する。ほんの始めたばかりだからというのである。それなら一つかれらのすることをしばらく見ていようではないか。それがもっとも愛情深い立場というものである。

p.418より

 イギリスでは奇妙な発展があった。十七世紀の前半のイギリス宮廷は(チャールズ一世とその王妃のほかは)、全く不道徳で救いがたく無能であったことは疑いない。しかし美に対する非常な愛好心をもっていた。

 ……「救いがたく無能」て、いやもう、ボロカスやな(笑)。

p.434より

かれらの作品の一番よい例はアジア最大の遺跡の二つに見られる(アジアはとりわけ遺跡の多い大陸であることを想起せよ)。中部ジャヴァのボロブドウルとカンボジアのアンコール・ワット寺院の二つはともに、上から下までさまざまな彫刻におおわれており、その表現の正確さと観察の明瞭さはわが西洋のどの彫刻家の追随をも許さない。

p.434より

 初期の仏教布教者や改宗者の冒険的な生涯を描いたこれらの無数の浮彫りがいつごろつくられたものか、正確にはわかっていない。けれども回教徒がジャヴァを征服するずっと以前であったにちがいないから、シャルマーニュ王時代に当たるものであろう。この遠い国でつくられたものを見てそれをシャルマーニュ時代の建築家や彫刻家の不器用な作品と比べてみると、われわれの祖先は非常に貧弱なものしか刻んでいないし、その子孫もたいしたものにはみえない。そうでもなければこの仏教のアクロポリスともいうべき建物と、そこから数マイル離れたメンドウトの薄暗い寺院の中に千年以上もじっとすわっていた黙然たる仏陀の像とのちょうど真ん中に、どうして、きたならしいちっぽけなキリスト教の礼拝堂を建てるようなことをしたのであろうか。

p.436より

 それに中国人に特有な徳の一つである――忍耐ということもつけ加えた方がよいであろう。なぜなら、とくに青銅や硬玉細工、うわぐすり(釉)、陶磁器などで、中国人は忍耐力を示していた。それは時間の観念を全くもたないことからのみ生まれることができたものであった。

 同じことはかれらの絵画にも当てはまる。それは一つの絵をかくのに時間が非常に長くかかったということではない。かれらの絵画は書道から発達したもので、字を書くように絵を「書いた」といった方がよいものなのである。何週間も何ヵ月もかかる西洋の油絵とは対照的に、何分かあれば十分かけたにちがいない。しかし西洋の画家が一たるほどの絵の具を使い、無数の明暗の色合いでやっと表現できるものを、わずか数本の線で表現できるほどの運筆の妙を会得するのには一生かかったにちがいないのである。

p.438より

 東洋人は本質的に非科学的な人間(かれらにとっては西洋の科学は安い自動車をつくるときに必要であるほかは全くどうでもよいものなのだ)であるから、そんな抗議をすることこそばかげたことだと思うであろう。その山の精神と言うものがある。その山を見たことのある人なら誰でもすぐそれがわかるであろう。だから右の斜面にはもうひと(かたまr)の雪があるとか、左の斜面には小さな黒い岩が見えないとかを気にかける必要がどこにあろう。

p.439より

 もちろん日本人が長い間他の世界から鎖国していたことが、日本独自の様式を発展させ、中国人の先生から学んだものを忘れさせるのにきわめて有利だったということはある。けれども日本人が中国の教師たちと共通にもっていたものが一つあった。それは自然に対する大きな愛情であった。十八世紀の後半と十九世紀の前半の間に、日本の偉大な画家――歌麿、北斎、広重――は、筆をとり絵の具を混ぜてはかれらの観察した文字どおりあらゆる人や物を描きまくった――無数の風景、鳥、花、橋(かれらは西洋の中世の画家たちと同じように橋が好きだったらしい)、道、滝、波、樹、雲、そして霊峰、白雪をいただく富士山をあらゆる角度から百枚も描き、役者や女形、たこ(紙凧)をあげる少年や人形と遊ぶ少女など――事実神様が想像したものなら、何でもござれで喜んで描いたのである。

p.440より

芸術品を研究する場合にはつねに、できるだけ現物を見ることである。それについて本を読まないこと。それを見、それから比較して見よ。たとえばブリューゲル(兄)か、パティニエかニコラ・プーサンの風景画をもってきて、范寛(四百年前、征服王ウィリアムのころの人〔いわゆる宋初の三大家の一人――訳者〕)の冬景色の絵に並べて見よ。または光琳(尾形光琳、一六六一―一七一六)の花と、オランダ人ドンデケーテルかフランス人ルノアールの花を比較して見給え、そうすれば諸君は、中国と日本の芸術がいかに本質的に暗示の芸術であるかがわかるであろう。そしてペルリ提督が有名な一八五三年七月十四日に、天皇(ミカド)にフィルモア大統領の手紙を送り、西洋諸国民に対して国を開くようにとの大統領の申出に耳を傾けるよう強要したことが、実は人類のためになったかどうかに疑問を感ずるようになるであろう。おそらくペルリ提督は正しかったし、そのような発展は避けられなかったであろう。なぜならわれわれは進歩をもたなければならないからである。

p.446より

 教会が五千万人の野蛮人たちを(なま)(はん)()でもいい、ともかくキリスト教徒といわれるものに変えようというほとんど絶望的な事業にとりかかったとき、すぐわかったことは、人々の耳に訴えるだけではたりないということだった。信ずるためには目で見なければならなかった。そこで教会は、芸術を異教徒の遺産の一部として毛ぎらいしていた態度を改めた。教会は画家、彫刻家、真ちゅう、金、銅、銀、絹、毛織物等の細工師、製作者たちを動員して仕事にかからせ、よき牧者キリストとその地上における流浪の物語を、その意味を誰一人思いちがえないようにわかりやすい絵にするよう命じた。それが出来上がると、音楽が宣伝の方法としてつけ加えられた。十五世紀の末になると、すでに見たように、音楽は教会の束縛をのがれて独自の発展をするようになった。

p.492より

 いつも貴族のまねをしようとしていた世界は、今度は霊感を求めて貧民窟に出かけ、ごろつきのような服装をするようになった。憎むべき旧圧政者たちのズボンを人前ではいていようものなら、ギロチンにかけられても仕方がなかった。おしろいや石けんは、真の愛国者が触れるべきものではなかった。その代わりに汚れた古い長ズボンをはいて仕事に出かけた、それが完全な市民的廉直さを服装で証明するものと見なされていた。これらの長ズボンは元来ガリー船の奴隷が着ていたものである。事実、かれらが()をこぐときはこのズボンしかはいていなかった。後にイギリスの水夫たちもこの幅の広い長いズボンを愛用するようになった。それはぬれた甲板の上を歩かなければならぬときには一番気持ちがよいものだった。というのは十七世紀のぴったりとしたズボンよりはるかに乾きが速かったからである。そのズボンが「パンタルーン」と呼ばれたのは、十六世紀以来イタリアの笑劇にいつも出てくる人物の一人にパンタローネという男がいて、それが長ズボンをはいて登場すると、きまって小屋中を爆笑させたからである。

p.545より

 フランツ・リストは一八八六年に死んだ。かれのような人は今までどこにもいなかった。それに近い人はいたが、本当に同じくらいな人物はいなかった。

言葉
フロレンス

 「フロレンス」というイタリアの街のことが出てきたが、「はて……?」と戸惑った。フロレンス Florence というのはフィレンツェ Firenze の英語名なのだ。

 日本では外国の地名を表音するとき、「北京」を「ほくきょう」とは読まず「ペキン」、「平壌」を「へいじょう」とは読まず「ピョンヤン」と読むとおり、現地の発音で呼ぶことになっているが、米英ではそうでなく、「日本」を「にほん」とは読まず「ジャパン」と勝手な命名で読む。この例のとおり、「フィレンツェ」も「フロレンス」と呼ぶのだそうである。

 全然知らなかった。

 そのため、数十ページも読み進めている間、「フロレンス、……て、何?どこ?」と、ピンと来なくて戸惑った。この本は古いので、表記にこのようなブレが多少あるのである。

下線太字は佐藤俊夫による。p.228より

 「すべての道はローマに通ずる」

 これは中世の人々がいいならわしたことばであるが、それは正しかった。なぜなら、ローマはもはや世界帝国の中心地ではなかったけれども、依然として精神的な首都であって、人々の心を支配していたからである。だから皇帝でも、国王でも、僧正でも、僧侶でも、またもっとも卑しい市民でも、法王に願いがあるか、とりあげてもらいたい苦情があるときは遅かれ早かれ、四世紀から法王の公邸となっていた古いラテランの宮殿に赴くために、遠い危険な旅をしなければならなかった。このことは、フロレンスの町でもしばらくの日時を過ごさなければならないことを意味した。というのは、フロレンスは北や東や西からの道がすべて集まってくるところで、人人はここで旅行の最後の身仕度をととのえ、弁護士や銀行家と必要な最後の打合せをしたからである。

タスカニー

 これも英語の「フロレンス」Florence が伊語の「フィレンツェ」 Firenze のことであるのと同様、英語の「タスカニー」 Tuscany は伊語の「トスカーナ」 Toscana のことなのである。

下線太字は佐藤俊夫による。p.538より

その子の母というのはパガニーニがタスカニーの人里離れた城館で一しょに神秘的な四年間を過ごし、あるとき怒りの発作で絞め殺してしまった貴婦人だったと信じこんでいた。

 ただ、今の日本でタスカニーという時には、どうも、男性用化粧品の大手ブランド「アラミス」が出しているオー・ド・トワレの製品「タスカニー」のことを指しているようだ。Googleで「タスカニー」を検索すると、上位の検索結果は全部、このオー・ド・トワレの広告である。

 次は第12巻「美の本体(岸田劉生)/芸術に関する101章(アラン)/ロダンの言葉(A.ロダン)/ゴッホの手紙(V.ゴッホ)/回想のセザンヌ(E.ベルナール)/ベートーヴェンの生涯(ロマン・ロラン)」である。

 引き続き、主として西洋芸術を中心に編まれた巻だ。

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 引き続き約60年前の古書、平凡社の世界教養全集第10巻「釈尊の生涯/般若心経講義/歎異鈔講話/禅の第一義/生活と一枚の宗教」を読んでいたが、最後の収載作品「生活と一枚の宗教」(倉田百三著)を先ほど読み終わった。

 いつもは通勤電車の中で読み終わるので、今日のように自宅で読み終わるのは珍しい。

 さて、倉田百三の作品は、この全集第3巻に収載されている「愛と認識との出発」を昨年読んだところだ。本作「生活と一枚の宗教」は「愛と認識との出発」を著してから10年後の著作であるという。

 戦前の講演録だそうである。

 表題の「生活と一枚の宗教」の「生活」という言葉を、著者は「宇宙」というような意味で使っている。すなわち、「自」「他」の対立を去り、自分が宇宙の一部として他と渾然一体となっていることに気づいた途端、宇宙全体が如来である以上、自分もまた仏であるということになる。宇宙と自分が一枚になっている、自分の生活は宇宙と一枚になっている、自分が既にそうして仏でありさえすれば、もはや他に何を作為して求める必要があろう……本書で切々と述べられる倉田百三の信仰の大意は、そういう理解で外れていないと思う。

気になった箇所
平凡社世界教養全集第10巻「釈尊の生涯/般若心経講義/歎異鈔講話/禅の第一義/生活と一枚の宗教」のうち、「生活と一枚の宗教」より引用。
他の<blockquote>タグ同じ。p.481より

 たとえば如来でありますが、私の信仰ではみなさんはみな如来であります。一人一人が如来であります。それで仏と申しますのは、如来――自分がこのままで如来であるということを気づいたときにそれが仏であります。

言葉
ゾルレン

 ドイツ語の哲学用語で、日本語で言えば「(とう)()」である。わかりづらいが、「こうでなければならない、こうしなければならない、というようなことを意思でもってやる」ということが「当為」だと思えばよい。

 ゾルレンとは(コトバンク)

 このように意味を書くと、我々現代人には「それは立派なことだ」というようなポジティブな言葉であるように感じるが、倉田百三は全然違う意味でこの言葉を用いている。すなわち、単に「ゾルレン」と書かれているのではなく「ゾルレン臭」と、「臭」をつけ、遠ざけるべき、自分の信仰と相容れないものとして使っている。

下線太字は佐藤俊夫による。p.545より

念仏申さるるようにということはやはり一つの当為であります。これがやはり私の一つの当為癖であります。それは自分がすべきだというくせであります。あるいはゾルレン臭。自分と仏との間で言えば一つの水くささ、信仰のうえからいえば、かすであります。

 引き続き世界教養全集を読む。次は第11巻「芸術の歴史」(H.ヴァン・ルーン著)である。著者のH.ヴァン・ルーン Hendrik Willem Van Loon と言うと、この全集第8巻で読んだ「聖書物語」の著者である。

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 梅雨も深くなり、雨がよく降る。しかし、そんなに蒸し暑くはない日々である。時々晴れ間もあって、そんな時は素晴らしい青空が広がる。

 約60年前の古書、平凡社の世界教養全集第8巻「論語物語/聖書物語」のうち、二つ目の「聖書物語」(H.ルーン Hendrik Willem Van Loon著)を読み終わった。

 期待していた通り、本来は少年向けに書かれた読み物だけあって読みやすく、聖書の世界をわかりやすく解説しており、何より物語としてとても面白かった。私はキリスト教は嫌いであるが、ところが聖書そのものは旧約・新約とも若い頃からの愛読書なのである。

 ナザレのイエスをはじめ、(さかのぼ)ってアブラハム、モーゼ、アロン、ダビデ、ソロモン、ヨブ、バプテスマのヨハネ、聖母マリア、マグダラのマリア、イスカリオテのユダなど、魅力的な登場人物のオンパレードだ。一方、本物の聖書のほうの全体を読み通していると、つい「ダレ場」になってしまって読み飛ばしてしまい、あまり印象に残らない人物があり、それがこの「聖書物語」では生き生きと立ち上がっている。改めて「こんな人物譚があったのか」と感銘を覚えた。例えば姑ナオミと嫁ルツ、預言者のエリヤ、弟子のエリシャ、マッタチアスとその息子マカベたち、モルデカイとエステル、……等々。

 また、味のある挿絵がふんだんに盛り込まれているが、巻末「解説」によると、すべて原著者ヴァン・ルーンの手になるものなのだという。

 付録があり、同じ味わいの絵柄で「生きた年表」と題して聖書の年代をいわば「漫画年表」のような味わいで展開してある。まことに味わい深いものがある。

 但し、世界教養全集シリーズのこの巻までの他の巻に見られる丁寧な校正と異なり、誤字・脱字・誤句・誤用が多かったのは実に残念なことであった。

気になった箇所
平凡社世界教養全集第8巻「論語物語/聖書物語」のうち、「聖書物語」より引用。
他の<blockquote>タグ同じ。
p.162(まえがき)より

 『旧約聖書』のことを書くのは、わりあいとやさしいだろう。それは砂漠の民のある部族が、多年のさすらいの後に最後に西アジアの一隅を征服しそこに住みついて自分たちの国を建てた物語だ。つぎには『新約聖書』がくる。これは非常にむずかしい仕事になりそうだ。『新約』は、ただ一人の人物を中心にしている。それは人生に何物をも求めないで、すべてを与えたナザレの大工の物語だ。世間にはイエスの物語よりももっと面白いものがあるかもしれないが、わたしはまだ、そういうものを一つも読んだことがない。そこでわたしは彼の生涯を、わたしの見るままに、ごく単純に述べるとしよう――一語も加えず、一語も減らさずに。というのは、このように語られるのを、きっとその人は喜ばれるものと思われるから。

p.163より

 ピラミッドが造られてから一千年もたっていた。バビロンとニネベが大帝国の中心になっていた。

 ナイルの谷と広いユーフラテス川とチグリス川の谷が、忙しく立ち働く人々の群れで埋ずまったころ、砂漠の漂泊者のなかの一小部族が、なにか自分たちの理由で、アラビア砂漠の荒れ果てた故郷を見捨てる決心をした。そしてもっと肥えた土地を捜しに北へ向かって旅立った。

 やがてこれらの漂泊者はユダヤ人として知られることになる。

 幾世紀かの後に、彼らはすべての書物のうちのいちばん重要なもの、すなわち聖書をわれわれに与えることになる。

 もうすこし後には、彼らの女の一人が、あらゆる教師のうち、もっとも情けぶかく、もっとも偉大な人を生むことになる。

 それなのにおかしな話だが、われわれは、このふしぎな民族の起源については、何事も知らないのだ。そればかりではない。彼らはどこからともなく出てきて、人類に課せられた役割のうちいちばん大きい役割を演じながら、ある時期を境として歴史の舞台を去り、世界の諸民族のなかでの亡命者になっているのだ。

p.181より

 海岸地帯には遠いクレタ(クリート)の島から来た民族が住んでいた。彼らの首都のクノッソスは、アブラハム時代の千年前に、ある未知の敵によって破壊されていた。のがれた人々はエジプトに足場を得ようとしたが、パロの軍隊に追い払われた。そこで彼らは東に航海したが、カナン人よりもずっとよく武装していたので、この大きな海に沿った細長い土地だけは、なんとか領有することができたのであった。

 エジプト人がこの民をフィリスチン(ペリシテ)と呼んだので、彼らの方でも自分の国をフィリスチアと呼んだ。すなわち、われわれが今日いうパレスチナである。

 ペリシテ人はたえず隣人たちのすべてと戦っていた。ことにユダヤ人とは、ローマ人がやってきて彼らの独立にとどめをさすまで、争いをやめることがなかった。彼らの祖先は、ユダヤ人がまだ粗野なヒツジ飼いだった時に、西方世界でもっとも開けた国民だった。メソポタミアの百姓が棍棒や石の斧でたがいに殺し合っている時に、彼らはもはや鉄の刀を造ることを知っていた。なぜ少数のペリシテ人があんなに多くの世紀のあいだ、何千何万のカナン人やユダヤ人に対して自分たちの土地を守ることができたかを、このことは君たちに十分説明するだろう。

p.289より

 要するに、モーゼやヨシュアやダビデが拝んでいたあの残忍で執念ぶかいエホバは、西アジアの忘れられた片隅に住んでいた農民やヒツジ飼いの小さな社会における単なる部族神にすぎなかった。

 それが、亡命の予言者たちの勇気と瞑想とによって、この古いヘブライ人の神は、やがて、近代世界の人々が心理と愛との最高表現として受け入れているあの普遍的で永遠な観念「神聖なる霊」にまで発展したのであった。

p.311より

 なぜなら、この世のどんなことも、いまだかつて殺人によって成就したためしはないのだから。

p.348より

 「空の空なるかな、すべて空なり」

 これは旧約「傳道之書」冒頭からの引用で、旧約聖書の文語訳では「傳道者(でんだうしや)(いは)く (くう)(くう) (くう)(くう)なる(かな) (すべ)(くう)なり」となっている。

p.353より

 エルサレムは忘れ去られていた。だが、忘れ去られることこそ、まさしく、信心ぶかいユダヤ人がそうあれかし、と祈っていたことでもあったのだ。

p.354より

 だが、この世界にはけっしてそれで終りということのありようはずはない。そこには、つねに、永遠に「次の章」がある。

p.407より

 ともかくヨハネはすべてを「否!」という形で説いた。

 イエスは同じように熱心に「然り!」という形でこれに答えた。

言葉
よくせき

 あまり使われない、平易な言葉なのに古い言葉である。「よくよくのこと」「ほかにどうしようもやむを得ない様子」を言う。

下線太字は佐藤俊夫による。p.169より

だが、よくしたもので、人は、よくせき思案にあまると自分にわかりもしないことにもっともらしい説明をする。

おのがじし

 それぞれ、おのおの、めいめい、というような意味である。

p.433より

 弟子たちは驚いて立ち上がり、彼の周りにつめよった。そして、めいめいが、おのがじし、自分たちの潔白を誓うのだった。

 平凡社世界教養全集、ようやく第9巻に読み進む。

 第9巻は「基督教の起源」(波多野精一著)「キリストの生涯」(J.マリー著・中橋一夫訳)「キリスト者の自由」(M.ルター著・田中理夫訳)「信仰への苦悶」(P.クローデル・J.リヴィエール著・木村太郎訳)「後世への最大遺物」(内村鑑三著)である。多くの評論だ。

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 通勤路の(はな)皐月(さつき)が盛りだ。キュッと締まった(つぼみ)も赤々と(ほころ)びた花も美しい。歩くと初夏らしく汗ばむ。紫陽花(あじさい)はまだ盛りではないが、少し雨模様の日が増えつつあって、そろそろ梅雨かな、という感じもしてきた今日この頃である。

 蒸し暑く感じることが多くなり、冷たいものや酸っぱいものがしみじみと旨い。読書しつつ、冷酒を胡瓜(きゅうり)和布(わかめ)の酢の物でやっつけるのなど、大人の男の至福と言わずして他にどう言えようか。

 引き続き読み進めつつある約60年前の古書、平凡社の「世界教養全集」第8巻、2作収載のうち1作目の「論語物語」(下村湖人(こじん)著)を往路の通勤電車内で読み終わる。

 論語を題材にした二次創作、フィクションと言えば言えるが、基底にある論語は著者によってありのままに理解され、わかりやすく組み立て直されていながら、論語の魂は損なわれることなく見事な輝きを放っている。

 著者下村湖人は名作「次郎物語」の著者でもある。下村湖人の代表作はどれかと(ひと)()わば、「次郎物語」か、この「論語物語」かと論を二分するそうで、読者の幅広さで言えば「次郎物語」に、読者の深さに着眼すればこの「論語物語」に、それぞれ軍配が挙がるように感じられる。

 次は「聖書物語」(H.ヴァン・ルーン著)である。私は聖書については子供の頃から何度も読み、味わってきている。その聖書を、さながら前読「論語物語」のように噛み砕き、組み立て直したものと思えば多分間違いではあるまい。

 著者ヴァン・ルーン本人による「まえがき」をたった今読んだところであるが、ハナっから、なにかもう、ゾクッとするものを覚える。

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 躑躅(つつじ)がすべて散り、(はな)皐月(さつき)が盛りである。時疫(じえき)最中(さなか)ではあるが、時間は静謐(せいひつ)に過ぎていく。

 引き続き約60年前の古書、平凡社の世界教養全集を読んでいる。

 第7巻「秋の日本/東の国から/日本その日その日/ニッポン/菊と刀」を先ほど読み終わった。

 この巻収載の最後の作品は「菊と刀――日本文化の型」(R.ベネディクト(Ruth Benedict)著)であった。

 戦時中に研究が始められ、終戦近くから戦後すぐにかけての時期に出版された本である。著者のベネディクト博士は対日戦のために日本研究を米国政府から委嘱され、見事な手腕で研究を完成させ、戦争に寄与加担した。

 この書は終始一貫して冷ややかな目線で論理が進められていく。日本人に対する素朴な尊敬などはそこに感じられず、あまり愉快な読書とは言えなかった。また、分析されている日本人像は、日本人からすれば既に今は存在しない日本人の姿であって現在からは到底想像もつかず、かつまた、記憶に残る古き良き日本人でもなく、あるいは記憶に残っていてもよほど極端な例ではないかと思われたり、色々と違和感があった。

 例えば日本人特有の「恩」「義理」「恥」について「それは欧米にない思考原理や感情である」と論じているところなど、確かに戦前戦後一貫した歴史をそのまま歩み続けている欧米諸国にとってはハナっから恩や義理や恥なんてものは存在していないのかもしれないが、今や恩知らずの不義理人ばかりが幅を利かせ、廉恥(れんち)の心など一掬(いっきく)だに持ち合わせなくなり、欧米人の悪質な劣化コピー人種に過ぎなくなってしまった現在の日本人にはまったく当てはまらず、逆に、この「菊と刀」を元に往時の日本人をリアルに想像することは難しい。

 また、部分によってあまりにも赤裸々に事実を指摘するのであるが、その指摘の仕方が冷笑的であり、不愉快でもあった。更に不愉快なことは、戦後すぐに書かれた巻末近く、まるで予言のように現在の日本の姿を言い当てていることだ。それがズバリと当たっているだけに、ウンザリとしてしまう。

気になった箇所
平凡社世界教養全集第7巻「秋の日本/東の国から/日本その日その日/ニッポン/菊と刀」のうち、「菊と刀」より引用。
他の<blockquote>タグ同じ。
p.402より

また軍隊では家がらではなくて、本人の実力次第で誰でも一兵卒から士官の階級まで出世することができた。これほど徹底して実力主義が実現された分野はほかにはなかった。軍隊はこの点で日本人の間で非常な評判をえたが、明らかにそれだけのことはあったのである。それはたしかに、新しくできた軍隊のための一般民衆の支持をうる最良の手段であった。軍隊は多くの点において民主的地ならしの役目を果たした。また多くの点において真の国民軍であった。他の大多数の国々においては、軍隊というものは現状を守るための強い力として頼りにされるのであるが、日本では軍隊は小農階級に同情を寄せ、この同情が再三再四、軍隊をして大金融資本家や産業資本家たちに対する抗議に立たしめたのである。

 上のあたりは、五・一五事件や二・二六事件などを抽象的に指している。

p.407より

 中国語にも日本語にも、英語の`obligation'(義務)を意味するさまざまな言葉がある。これらの言葉は完全な同意語ではなく、それぞれの語がもっている特殊の意味はとうてい文字通り英語に翻訳できない。なぜなら、それらの語の表現している観念はわれわれには未知のものであるからである。大から小にいたるまで、ある人の負っている債務のすべてをいい表わす`Obligation’にあたる言葉は「オン」(恩)である。日本の習慣ではこの言葉は`Obligation’`loyalty'(忠誠)から`kindness'(親切)や`love'(愛)にいたる、種々さまざまの言葉に英訳されるが、これらの言葉はいずれも、もとの言葉の意味をゆがめている。もし「恩」がほんとうに愛、あるいは義務を意味するものであるとするならば、日本人は「子どもに対する恩」ということもできるはずであるが、そういう語法は不可能である。またそれは忠誠を意味するものでもない。日本語では忠誠はいくつかの別な言葉で表現されるし、それらの忠誠を意味する言葉はけっして「恩」と同意語ではない。「恩」にはいろいろな用法があるが、それらの用法の全部に通じる意味は、人ができるだけの力を出して背負う負担、債務、重荷である。人は目上の者から恩を受ける。そして目上、あるいはすくなくとも自分と同等であることの明らかな人以外の人から恩を受ける行為は、不愉快な劣等感を与える。日本人が「私は某に恩をきる」というのは、「私は某に対する義務の負担を負っている」という意味である。そして彼らはこの債権者、この恩恵供与者を、彼らの「恩人」と呼ぶ。

 上の部分は、むしろ逆に、「欧米には『恩』という概念がないんだ」と私に教えてくれた。道理で、欧米化が進むほどに恩知らずが増えるわけである。また、上のベネディクト博士の指摘は正しいようにも感じられるが、「恩」というものが義務とか債務とか言った嫌なものとしてとらえられており、「恩」にはそういう嫌な側面もありつつ、「恩」というものが持つ、もっとあたたかい、しみじみとした安らぎや信頼が言い当てられていないところが片手落ちであり、欠点であると思われた。

p.515より

 日本が平和国家としてたちなおるにあたって利用することのできる日本の真の強みは、ある行動方針について、「あれは失敗に終わった」といい、それから後は、別な方向にその努力を傾けることのできる能力の中に存している。日本の倫理は、あれか、しからずんばこれの倫理である。彼らは戦争によって「ふさわしい位置」をかちえようとした。そうして敗れた。いまや彼らはその方針を捨て去ることができる。それはこれまでに受けてきたいっさいの訓練が、彼らを可能な方向転換に応じうる人間につくりあげているからである。もっと絶対主義な倫理をもつ国民ならば、われわれは主義のために戦っているのだ、という信念がなければならない。勝者に降伏したときには、彼らは、「われわれの敗北とともに正義は失われた」という。そして彼らの自尊心は、彼らがつぎの機会にこの「正義」に勝利をえさしめるように努力することを要求する。でなければ、胸を打って自分の罪を懺悔する。日本人はこのどちらをもする必要を感じない。対日戦勝日の五日後、まだアメリカ軍が一兵も日本に上陸していなかった当時に、東京の有力新聞である「毎日新聞」は、敗戦と、敗戦がもたらす政治的変化を論じつつ、「しかしながら、それはすべて、日本の窮極の救いのために役だった」ということができた。この論説は、日本が完全に敗れたということを、片時も忘れてはならない、と強調した。日本をまったく武力だけにもとづいてきずきあげようとした努力が、完全な失敗に帰したのであるからして、今後日本人は平和国家としての道を歩まねばならない、というのである。いま一つの有力な東京新聞である「朝日」もまた、同じ週間に、日本の近年の「軍事力の過信」を、日本の国内政策ならびに国際政策における「重大な誤謬」とし、「うるところあまりに少なく、失うところあまりにも大であった旧来の態度を捨て、国際協調と平和愛好とに根ざした新たな態度を採用せねばならない」と論じた。

p.519より

 ヨーロッパ、もしくはアジアのいかなる国でも、今後十年間軍備を整えない国は、軍備を整える国々を凌駕する可能性がある。というのはそういう国は国富を、健全な、かつ富み栄える経済をきずきあげるために用いることができるからである。日本は、もしも軍国化ということをその予算の中に含めないとすれば、そして、もしその気があるならば、遠からずみずからの繁栄のための準備をすることができるようになる。そして東洋の通商において、必要欠くべからざる国となることができるであろう。その経済を平和の利益のうえに立脚せしめ、国民の生活水準を高めることができるであろう。そのような平和な国となった日本は、世界の国々の間において、名誉ある地位を獲得することができるであろう。そしてアメリカは、今後もひきつづきその勢力を利用して、そのような計画を支持するならば、大きな助けを与えることができるであろう。

 最初に書いた「現在の日本をズバリと言い当てている箇所」というのが上の部分と、それに引き続く、ここには引用しなかった一連の部分である。引用しなかった部分には、東西冷戦とそれへの日本のかかわり方への危惧が予言されている。ウンザリとしながらも、同時に、東西冷戦など始まる前に出された論文なのに多くは正しく将来の日本を言い当てており、その超能力者めいた的中っぷりにゾクッとする。

 否、むしろ、ベネディクト博士の提言に合わせてアメリカが対日政策を形作ったから、当然そうなったのだろうか。

言葉
夙夜

 これで「夙夜(しゅくや)」と()む。「朝から晩まで」、ひいては「常々(つねづね)」というような文脈で使う言葉である。

下線太字は佐藤俊夫による。p.378より

大義ヲ八紘ニ宣揚シ坤輿ヲ一宇タラシムルハ実ニ皇祖皇宗ノ大訓ニシテ朕カ夙夜眷々措カサル所ナリ

警め

 「(いまし)め」と訓む。「戒め」と通用には書かれるようであるが、厳密には「戒」の用字だと「処罰する」意味合いが強く、「前もって注意しておく」意味に薄い。他方、「警め」は「警告」というような単語もあるところからも分かる通り、前もって注意しておく意味合いが強い。

p.460より、ルビは佐藤俊夫による。

「例(すくな)からぬものを深く(いまし)めでやはあるべき」

 次の読書は、引き続き同じ平凡社世界教養全集から、第8巻「論語物語/聖書物語」である。