読書

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 平凡社世界教養全集第4巻収録、J.シャルドンヌ(明治17年(1884)~昭和43年(1968))著、窪田般彌訳の「愛、愛より豊かなるもの」(L’AMOUR C’EST BEAUCOUP PLUS QUE L’AMOUR)を読み終わる。

気に入った個所
 以下、平凡社世界教養全集第4収録「愛、愛よりも豊かなるもの」より引用。
 他の<blockquote>タグ同じ。
p.519より

 強烈な感情をもちうることのできる人は、ときにはまた、解脱という特異な能力を示す。こうした人は、真にわが身を持するに充分な生命力をもっているので、何の苦もなくいっさいを放棄することができるのである。それとは逆に、内的な沈滞とか、感情的な欠陥に悩むものは、慣れ親しんだ取るに足らぬ獲得物を手放すことができない。彼は律義者だが、そのために極度に疲れ果てる。

p.533より

 最良の動機でさえも、その唱道者たちによってこわされる。祖国は愛国者たちによってつぶされるものだ。常に正義を口にするものは、そのために嘲笑される。

p.563より

 あらゆる文明は、その同時代人たちには、衰退したもの、狂気じみたものと見えた。愛国者たちは、戦争で手にした宝を寺院建設に浪費するペリクレス(古代ギリシアの政治家。前四九五年ごろ―二九年)を非難した。もし、ゲーテ以後の有識者たちの嘆息を文字どおりに受け取るとすれば、ローマはつねに、野蛮人や建築家たちによって荒らされてきたということになる。が、ローマは依然として美しい都として残っている。

p.564より

 やがて、社会生活のある形態、慣習、原理、根強く残っているもろもろの感情なども、消滅してしまうことであろう。人々は、われわれが生きた社会を、死に絶えたものと思うかもしれない。もし人にして、今の社会を未来の社会にあって思い起こすならば、今の社会も、人間の歴史の魅力ある一刻として姿を見せることであろう。すると人々は次のようにいうにちがいない。《あのころはまだ、金持ちや貧乏人がいたし、占領すべき要塞や、よじ登らねばならない階級があったのだな。また、防備の壁を厚くしてその魅力を保ち続けた、人々の憧れとなったものもあったっけ。要するにあのころは、偶然という奴が、われわれにつきまとっていたわけさ》と。

p.581より

 私は新しい型の人間などは求めない。とくに、人々の手をわずらわしてつくりあげられた新しい人間などはなおのことである。私はただ、いつになってもこの世に、私が知っているような欠点と限度をもった人間たちが生まれてきてくれることを望もう。そうした連中は、人間の中にある、人間以上に偉大な何かについて考えさせてくれた。


 他に、「Ⅵ」章に記された、画家のアントワーヌとその妻ペガの物語は、美しく、残酷でもあり、読んで非常に心に残ったが、引用と称してここに書き写すには分量が多いので、心に残ったということのみをここに覚え書きしておきたい。

 さて、これで平凡社世界教養全集第4巻を読み終わった。

 この巻の中では、「三太郎の日記 第一」が最もつまらなかった。「生活の発見」、ついで「若き人々のために」「愛、愛よりも豊かなるもの」の順に私の気持ちにぴったりと合った。

 次は同じく第5巻、「幸福論/友情論/恋愛論/現代人のための結婚論」である。

読書

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 二百十日以降、狂乱のように台風や低気圧が押し寄せ、各地に甚大な被害を残したが、その後急激に気温は下がり、11月となった。来週11月8日金曜日ははや立冬だ。

 「冬隣」である。秋の小鳥が帰ってきて、美しい声で鳴きつつ飛び交っている。

 R・L・スティーヴンスン著、橋本福夫訳の「若き人々のために」を読み終わる。60年前の古書、平凡社の「世界教養全集・第4巻」に収録されている。

 R・L・スティーヴンスン(嘉永3年(1850)11月13日~明治27年(1894)12月3日)は「宝島」「ジキルとハイド」など、日本でもよく知られる小説の作者である。

気に入った個所
以下「平凡社世界教養全集4」所収「若き人々のために」より引用。他の<blockquote>タグも同じ。
p.435より

 しかし一方の性が他方の性について知る知識をあいまいなものにするだけでなく、両性間の自然的な相違を拡大させるのが、高等普通教育なるものの目的となっている。人間はパンのみによって生きるものではなくて、主として標語によって生きている。したがって単に少女たちには一連の標語を教え、少年たちには別の一連の標語を教えるというそれだけのことで、両性間のちょっとした裂け目が驚くばかりに拡げられる。少女たちにはごく狭い経験の領域が示されるにすぎず、しかも判断と行動についてはきわめてきびしい原則が教え込まれる。少年たちにはもっと広々とした生活の世界が展開され、彼らの行為の規範も比較的融通性を与えられている。男女はそれぞれ異なった美徳に従い、異なった悪徳をにくみ、お互いのための理想ですらも、異なった目標をめざすように、教えられる。このような教育の行き着く所はどこだろうか? ウマが物に驚いて駆けだし、馬車の中の二人の狼狽した人間がそれぞれ一本ずつの手綱を握っていた場合、この乗り物の行き着く所が溝のなかだろうということを我々は知っている。したがって世慣れない青年と、ういういしい少女とが増えや提琴に合わせて踊るように、この世でもっとも重大な契約にはいり、呆れるばかりにかけ離れた観念をいだいたまま人生という旅行に旅立つとき、難破するものがあっても当然であり、港に着くのがふしぎなくらいであろう。青年が男らしい微罪として得意に近い気持ちでやることを、少女は下劣な悪徳としておぞけをふるうだろう。少女にとっては日常のちょっとしたかけひきにすぎないことを、青年は恥ずべき行為として唾棄するだろう。

p.446より

 ちょっと考えても明らかに嘘っぱちであるにもかかわらず、その誤謬に偶然結びついていた別の問題についての半真理のために通用している諺があるが、甚だしい例は、嘘を吐くことはむずかしいが本当のことをいうのはやさしいという、途方もない主張を伝えている諺であろう。もしそのとおりであってくれれば、わたしなどどんなに嬉しいかわからない。しかし真理は一つである。真理はまず第一に発見されなければならず、第二に正しく正確に表現されなければならない。特にそういう目的のために工夫された器具――ものさしや水準器や経緯儀――をもってしてすら、正確であることは容易ではない。情けないことには、不正確であることの方がやさしい。秤の目盛りを見る人間から、国の面積、天の星々への距離を測る人間にいたるまで、外的な不動の物についてすらの、物質上の正確さや確実な知識に到達するには、細心周到な手段と綿密な疲れを知らない注意力とによらねばならないのである。しかし一つの山の輪郭を描くよりは、一人の人間の顔の移り変わる表情を描くほうがむずかしい。人間関係の心理はそれよりもさらにつかみにくく、まぎらわしい性質のものである。把握することがむずかしく、伝えることはさらにむずかしい。厳密な意味でなく日常対話的な意味で、事実に正直であること――実際に私は一度もイギリスより外へ出たこともないくせに、マラーバーに行ったことがあるなどといわないこと、実際には私は一語もスペイン語を知らないくせに、セルバンテスを原語で読んだなどといわないこと――こうしたことなら、実際やさしいが、それだけに本来重要でもない。この種の嘘は事情に応じて重要な場合もあれば重要でない場合もある。ある意味では、それは虚偽である場合も虚偽でない場合すらもある。常に嘘ばかりいっている人間が非常に正直な人間で、妻や友とともに誠実に暮らしているかもしれない。一方、生涯のうちに一度も形式的な嘘をいったことのない人間が、内実は嘘のかたまり――心も顔も、頭から足先まで――でないとも限らない。これは親密さを毒する種類の嘘である。その反対に感情への正直さ、人間関係での誠実さ、自分の心や友に対する真実、決して感動を装わずいつわらないこと――これは愛を可能にし、、人類を幸福にならせる真実である。

 L’art de bein dire(上手にしゃべる術)も、それが真理への奉仕に強要されないかぎりは、ただの客観的才芸にすぎない。文学の困難さは書くことにあるのではなくて、自分のいいたいことを書く点にある。

p.482より

「何人も世界を初めから終りまで探ることはできない、世界は彼の心の中にあるのであるから」とソロモンがいっている。

 次はフランスの作家、J.シャルドンヌ(明治17年(1884)~昭和43年(1968))著、窪田般彌訳の「愛、愛より豊かなるもの」(L’AMOUR C’EST BEAUCOUP PLUS QUE L’AMOUR)である。世界教養全集第4の最後の著作だ。

読書

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 引き続き60年前の古書、平凡社の世界教養全集を読んでいる。今は4冊目(第4)だ。収録著作は「三太郎の日記 第一」(阿部次郎)・「生活の発見」(林語堂・坂本勝訳)・「若き人々のために」(R.L.スティーヴンスン・橋本福夫訳)・「愛、愛より豊かなるもの」(J.シャルドンヌ・窪田般彌訳)の4つである。

 まず最初に、阿部次郎の「三太郎の日記 第一」を読み終わった。

 正直、あまり面白い読書ではなかった。理屈っぽく、ひねくりまわった文章と論理、難解な語彙、内容の()弱と懊悩(おうのう)ぶりも、私には合わなかった。

言葉
Es irrt der Mensch, solang er strebt.

 「エス・アー・デー・メンシュ、ゾラン・エー・シュトリッブツ」、内表紙の見返しにこれが書かれている。ゲーテの「ファウスト」に出る名文だそうな。

 曰く、「()に人や奮進(ふるひすす)む間は(つまづ)かざるを得ず。」(『ファウスト』前川文榮閣、高橋五郎訳(明治37年(1904)))だそうである。

 「人は努力する限り誤るもの」とでも言おうか。

(かん)零墨

 切れ切れの文章のかけら、とでも言うところか。

(『三太郎の日記 第一』(阿部次郎著、平凡社世界教養全集第4(昭和38年(1963))より引用。尚、難読の語には原文にないルビを佐藤俊夫が補った。他の『Blockquote』タグも特記しない限り同じ。)

……全体を通じてほとんど断翰零墨(だんかんれいぼく)のみであるが、いかなる断簡零墨もその時々の内生の思ひ出をともなつてゐないものはない。

 ここでは「翰」の字は「簡」と同じであるが、「翰」には鳥の羽で作った筆の意味があるのに対し、「簡」には竹をそいで作った札の意味がある。つまり、道具と媒体(メディア)、というほどの違いがある。

 昔は「書簡」よりも「書翰(しょかん)」という字の方がよく使われたが、「翰」は常用外の漢字でもあり、今はあまり見かけない。

()(あつ)

 「はばむ」ことである。

 ここで、「阻」ははばむ意味、「(あつ)」はとどめ、さえぎり、絶つ意味である。

……さうして自分は自分の内面的欲求が特にその()(あつ)さるる点において燃え立つことを経験した。

 しかし、「妨害される」とでも書けばいいところを、なんでまた「阻遏」と書くかねェ(苦笑)。古い著作であるせいか、全編を通じてこんな感じだ。

裨補(ひほ)

 助け補うことだ。

 「裨」には助ける意味の他、「小さい、いやしい」という意味もある。同じ助ける意味の漢字でも、「佐」「祐」の二つの漢字で言うと、「佐」の字に近いように思う。

  •  (漢字ペディア)

……もしこの書を貫く根本精神が多少なりとも生きてゐるならば、読者の胸中に、矛盾を正視しながら、しかもその中に活路を求むるの勇気を()(すゐ)する点において、幾分の裨補がない訳はないと思ふ。

蝕ふ

 これで「そこなう」と()む。

 「生活は生活をかみ、生命は生命を(そこな)ふ。……

フオルキュスの娘たち

……俺は今眼を失へるフオルキュスの娘たちのやうに、黄昏(たそが)れる荒野の中に自らの眼球を探し廻つてゐる。

 「フォルキュスの娘」というのはギリシャ神話に出てくる「蛇女ゴーゴン」のことなのだが、はてさて、ゴーゴンを含むフォルキュスの娘姉妹たちは、盲目だったのだったっけ、どうだっけ……。

 渉猟するうちWikipediaに、それかな、というギリシャ神話の筋を見つける。

 Wikipediaでのカナ表記は、「フオルキュス」ではなく「ポルキュース」となっている。

 しかし、阿部次郎が求道のことを、なぜグライアイに例えたのかはさっぱり不明である。ひょっとして、「ギリシャ神話の素養などをひけらかしてエエカッコしたかっただけ」なのではあるまいか。

ミネルヴァの(ふくろう)

……ヘーゲルは「ミネルヷの(ふくろふ)は夕暮に飛ぶ」と云つたと聞く。

 一般にはこの言葉、「ミネルヴァの(ふくろう)は迫り来る黄昏に飛び立つ die Eule der Minerva beginnt erst mit der einbrechenden Dämmerung ihren Flug」という一句として知られている。大哲学者ヘーゲルの「法の哲学」の序文にあるそうだ。

 いうまでもなく梟は夜行性の鳥だ。ミネルヴァの梟は知慧の象徴である。それが夕方飛び立つ、という例えで何を言いたいのかというと、自分が位置する今というのは知慧や思想の末期で、あらゆることは先哲が考えた後である。しかし、その末端に位置する「今」というこの時に、つまり「哲学の黄昏」であるこの今、まさに知慧は飛躍する、ミネルヴァの梟は飛び立つ、この時にあって、眠っていた哲学はより高みに飛び立つのだ。

 ……という意味だと、私は解釈した。

Für-sich・An-sich・Pessimismus

 この著作もそうだが、この「平凡社世界教養全集」、やたらとドイツ語の混ぜ書きをする衒学的(ペダンチック)な著作が多くて、読みにくくて困る。

 ドイツ語の「Sich」は英語の「Yourself」と同じと考えていいようだ。同じく「Für」は「For」である。また同じく「An」は「At」である。

 そういうわけで、「Für-sich(フー・ジッヒ)」は「自分自身のため」、「An-sich(アン・ジッヒ)」は「自分自身において」、つまり「自分自身」ということである。

Pessimismus(ペシミスムス)」は英語で「悲観論」である。

……Für-sichAn-sich を蚕食し陥没せしむるものと云ふことが事実ならば、しかしてこの事実を評価する者が俺のように An-sich純粋(、、)集中(、、)無意識(、、、)とを崇拝する者ならば、その者の哲学はつひに Pessimismus ならざるを得まい。

 「自分自身のためにすることが、自分自身を損なってしまうことがあるとすると残念なことだ」ということを言っているのだが、それを言うのになんでこんな書き方をするかねえ……。ま、私も人のことは言えんか(苦笑)。

コボルト

 「西洋小鬼」みたいなものか。

……嗚呼(あゝ)わが魂よ、コボルトのごとく(おど)(はね)れ。

レオパルヂ

 レオパルヂは覚え帳にかう云ふ意味の言葉を書いた。

 イタリアの文筆家で哲学者のジャコモ・レオパルディのことであろうか。

坌湧(ふんよう)

 これで「ふんゆう」ではなく「ふんよう」が正しい。

 「坌」という字は見慣れないが、これも「坌く」と書いて「わく」と訓む。よって、「わき、わくこと」が「坌湧」である。

  •  (Weblio辞書)

 自分が経験する思想の坌湧(ふんよう)は一尺ほれば湧いて来る雑水のやうなものであらう。

アスピレーション

 「aspiration 願望」である。

……疲れた親は活力に溢れた子供のアスピレーションに水をさす。

フモール

 英語の「ユーモア」のことである。

……「わが身を共に打掛(うちかけ)に、引纏(ひきまと)ひ寄せとんと寝て、抱付(だきつ)締寄(しめよ)せ」泣いてゐる美しい夕霧の後には、皺くちやな人形つかひの手がまざ〳〵と見えてゐる。かくのごとき二重意識の呪を受けた者の世界は光も(やみ)である。狂熱も嘲笑である。悲壮も滑稽である。要するに一切(いっさい)フモールである。

 蛇足だが、今、上に本文を引用するとき、縦書きの「くの字点」を横書きにするのに、少し戸惑った。このこと、ネットでも少し議論があったようだ。

 縦書きなら、

まざ〳〵と見えてゐる。

……と、このように問題ないのだが、横書きにした途端、違和感が甚だしい。

沈湎(ちんめん)

 沈み、溺れることだが、どっちかというとネガティブな意味で使うようである。

 「湎」という字にも沈むという意味がある。

  •  (漢字ペディア)

 事実の改造に絶望する時、暫く三面の交渉を絶つて静かに一面の世界に沈湎(ちんめん)せむとする時、眼をそむくるの抽象は吾人の精神に揺籃(ようらん)の歌を唱ふの天使となるのである。

(たたず)

 「ぎょうにんべん」ではない。これで「(たたず)む」と()む。

  •  (Wiktionary)

……縁に(たゝず)みて庭を眺め虫を聴き、障子を開いて森に対し月を見るの便を主とするがごときは、すなはち内より見たる自然との抱合である。

()(へい)肆意(しい)

 「()(へい)」。「萍」という字は「うきくさ」と()む。意味を重ねて、文字通り「浮萍」とは浮き草のことである。

  •  浮萍(コトバンク)
  •  (漢字ペディア)

 「肆意」。「恣意」と同じ意味である。

 「肆」という字には「さらしものにする」という意味があり、そういう意味では例えば「書肆(しょし)」という言葉があるが、その意味は本を並べて見せている、というところから本屋のことを言うのである。しかし、「さらしものにする」という意味からは「(ほしいまま)」の意味も生じてきて、「肆意」と「恣意」は同じ意味になってくるのである。

  •  (漢字ペディア)

……嗚呼(あゝ)わが魂よ、汝融和抱合の歓喜を知らざる矮小なる者よ、汝根柢にいたらずして、浮萍のごとく動揺する迷妄の影よ、肆意(しい)にして貧弱なる選択の上にその生を托する不安の子よ。

フレムト

 ドイツ語で「fremd」である。

……徹頭徹尾たゞ自己一身を挺して、端的に自然に面する者にあらざれば、真正に孤独を経験し、真正に自然の威力を経験することが出来まい。単身をもつてフレムトなる力の中に侵入して行く時、フレムトなる力の中に自己を没却してしかもその中に無限の親愛(フロイントシャフト)を開拓し行く時、((引用ママ))めて真正に自己の中に動く力の頼もしさを感ずるを得よう。

 外国の、とか、奇妙な、とか言う意味だが、ここでは「異質な」という意味で使われている。英語だと「strenge」である。

擺脱(はいだつ)

 「取り除いてしまうこと」である。「擺」という字は「く」を送って「(ひら)く」と()み、単に「ひらく」という時よりも、より強く「おしひらく」という意味がある。したがって、「擺脱」というのは、「おしひらき、取り去ってしまう」という意味である。

  •  擺脱(コトバンク)
  •  (漢字ペディア)

……彼らは畢竟(ひっきゃう)未練にすぎない。幻想にすぎない。この未練を擺脱(はいだつ)すれば、余は常に死に対して準備されてゐる。

二致あるを感じない・二致がない

 これがまた、実に込み入った、ややこしい表現である。

 「一致」という言葉を想起すればこの「二致」という言葉は分かり易い。すなわち、「一致」というのは言わずと知れた「一つの趣旨」のことだ。だから、符合することを「一致する」という。

 他方、「二致」というのは二つの趣旨のことだ。「一致」の反対である。

 そこで、「一致する」「二致しない」は、「逆×逆」で、だいたい同じ意味、ということになる。

 そうすると、「二致あるを感じない」というのは、「逆×逆」で、「一致があるのを感じる」という意味になる。同様に、「二致がない」というのは「一致がある」という意味となる。

……少なくとも純一なる主義、純一なる力をもつて自己の生活を一貫するを得ざる自らの迷妄を恥ぢざるを得ない。恋愛のために殉ずる人も、君主のために殉ずる人も、自分の不純を(むちう)つにおいては二致あるを感じないのである。

……彼を自然とし(これ)を不自然とするは論者の誤謬である。いづれにしてもその半身を求める憧憬に二致がないから――

 しかしそれにしても、「自分の不純をむちうつのは同じことだ」と言えばいいのに、なんでまた「自分の不純を鞭つにおいては二致あるを感じないのである」なんて、ヒネクリ回した書き方をするかね、この著者は(苦笑)

コンゼクヱンツ・インコンゼクヱンツ

 この著作では「コンゼクヱンツ」というふうに、「エ」をかぎのある「ヱ」に書いている。

 「コンゼクエンツ konsequenz」。「結果」という意味である。ドイツ語だ。では「インコンゼクエンツ」が結果の逆で「過程」とでもいう意味かというと違っていて、「矛盾」である。

……彼はこの性質のために自分の思想的行動経験気分を検査して一々そのコンゼクヱンツ(たゞ)さなければ気がすまなかつた。さうしてそのコンゼクヱンツを検査することは常にインコンゼクヱンツを発見する結果に終つた。

Zweisamkeit

 「zweisamkeit ツワイザムカイト」。ドイツ語で「連帯」である。

 「両性」の生活においてもこの形而上的転換を経験し得た人は、換言すれば永遠の Zweisamkeit を刹那に経験し得た人は、この刹那の経験を説明するものとしてアリストファネスの神話的仮説を笑はないであらう。

窈深(ようしん)

 窈深(ようしん)。「奥深い」ということである。

 「窈」という字には「暗い奥のほう」、というような意味がある。奥だから、暗いわけだ。

  •  (漢字ペディア)

……差別された物と物とはまつはり合ひ、からみ合ひ、もつれ合ひ、とけあつて、最後に一つの窈深(えうしん)なるものに帰する。

 本文のルビは旧仮名で「えうしん」と振ってある。

菽麦(しゅくばく)を弁ぜざるもの

 菽麦の「菽」とは豆のことを言う。

  •  (漢字ペディア)

 で、そこへ「麦」であるから、「菽麦」というのは「豆と麦」のことである。

 「豆や麦を弁じない」というのだから、「食うのに困っている者」というような意味かな、と思ったら大違いで、「豆と麦の違いもわからないばか者」のことを「菽麦を弁ぜざるもの」というのだそうである。

 しかし、この意味からすると、読み方は「弁ず・弁ぜざるもの」というよりも、「(わきま)ふ・(わきま)へざるもの」と()んだ方があっている気がするのだが……。

……私は差別することを知らざるものの――祖先の用ゐ慣れた熟語を用ゐれば、菽麦(しゅくばく)を弁ぜざるものの――いはゆる「渾一観」を信ずることが出来ない。

(ただ)

 古臭い言い方・書き方、文語では「(ただ)に」「唯に」だが、もしこれを現代語で簡単に書けば「単に」である。文字が全然違うが、意味はピッタリ同じと考えてよい。

……しかしこれらのものを強調すると称して、創造の世界における差別の認識を、生命の発動における細部の滲透を、念頭に置かざるがごとき無内容の興奮に賛成することが出来ない。否、(たゞ)に賛成ができないばかりではなく、私は彼らのいはゆる「生命」、いはゆる「創造」、いはゆる「統一」の思想の内面的充実を疑ふ。

アレゴリー

 allegory。比喩・寓喩。要するに、例えである。

 ……かくのごとき自覚の下に描かれた絵画には、筆触と色彩と構図との虐殺があるのみである。()(まど)ひのシンボリズムとアレゴリーとがあるのみである。

 さて、次は珍しく中国の作家の作品である。(りん)語堂(ごどう)の「生活の発見」(坂本勝訳)だ。