湿度が高く、光の散る晴れ方の朝だ。このところ、近所の家々の
旧暦六月十五日。十五夜だが天文観測上の望月は明後日だという。新暦7月の和名は
そろそろ梅雨明けかな、という雰囲気もあるが、あらためて天気図を見ると、列島はまだまだ長く伸びた梅雨前線の水蛇にとりまかれており、もう少し我慢というところか。
- 平成28年(2016)7月の天気図(気象庁)
関東に住んでいると、今年は
思いついて手元の歳時記を繰ると、見出し・傍題含めて、雨に関してはたくさんの季語がある。試みに書き出してみよう。
日本は高温多湿、雨が多く、四季のはっきりした風土なのだなあと改めて感じるのである。とりわけ、梅雨に関する言葉の多さときたら。
また、「雨喜び」などという季語には、本当に農民の心が表れているな、と思う。
「驟雨」という言葉には品と格があり、心に響く。それに比べて、最近「ゲリラ豪雨」という言葉が報道などで使われるが、これはまったく品もへったくれもない言葉だ。「ゲリラ」で「豪雨」だよ?いや、勿論、人的被害が出ているようなときに驟雨などと言って澄まし返っているわけにはいかないが、場面場面にちょうどよい言葉を使ってもらいたいものだ。
テレビで美しいアナウンサーが、その美しさとはうらはらに「凄いゲリラ豪雨になる可能性がアリマス!」などと言い放つと、本当にがっかりする。「凄い」もどうかと思う。まあ、被害が出るような場面での「ゲリラ豪雨」は仕方がないが、「可能性」という言葉をここで選んではいけない。せめて「強い雨が降る恐れがあります」と言うべきだ。
可能という漢語は「
こう書いて来るとまるで爺ィの繰り言だ。オッサンから爺ィになってきた。
言葉は時と人により変化していくものなのだから、あまり偏屈な繰り言は言うまい。
何か雨の面白いものは、と検索すると、Youtubeにジーン・ケリーの「雨に唄えば」があった。
名作だなあ。これでも見て、繰り言は休題にしよう。