読書

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 引き続き世界教養全集を読む。

 行きつけの蕎麦屋「SOBA満月」の帰り、スターバックスでコーヒーなど飲みつつ、第28巻の最後「わが精神の遍歴」(亀井勝一郎著)を読み終わった。以前、この全集の第6巻「大和古寺風物詩」で亀井勝一郎の文章に接したことがある。このまえ読んだ第28巻の二つ目の長谷川如是閑の文章も、以前に読んだのは同じ第6巻収載の「日本的性格」だった。

 前回の長谷川如是閑「ある心の自叙伝」もそうだったが、今回の亀井勝一郎「わが精神の遍歴」も、読了に随分時間がかかった。

 著者亀井勝一郎は共産主義者で、戦前に逮捕されて市ヶ谷の刑務所へブチ込まれている。しかし、共産主義者なのに、奈良・大和の古寺と仏像にシビれ、上述の名著「大和古寺風物詩」がある。

気になった箇所
明治時代の人は武士の子であったが、しかし
平凡社世界教養全集第28巻「わが精神の遍歴」より引用。他の<blockquote>タグ同じ。
p.442より

彼らの多くは前世紀の武士の子である。「封建的」とよばれる武士の血のなかに、かえってこのような博大な志が生きていたことを私は今日無量の感慨をもって思い出さざるをえない。明治における精神能力は、まさに一の奇跡であった。
 しかし政治的能力と財閥力は、日露戦争あたりを境として途方もない妄想を抱き、傲慢の度を増していったようである。大正の第一次大戦に「戦勝国」となったことは、これに決定的な拍車をかけた。近代文明の毒は体内にまわり、徐々に深く内部崩壊を起こしていったのはこのころからである。明治的人間は抵抗しつつしだいに死滅していった。代わって傲慢と柔弱のうちに大正的人間が生育した。それが昭和の戦争時代の中堅層を形成したのである。いっさいの罪禍、いっさいの弱点は、今度の敗戦によって曝露したわけだが、淵源はここにある。

キリスト教に対する水鏡の如き率直な感動
p.445より

 ここで基督教に対する私の態度についても一言しておきたい。私は従来もしばしば基督の教えについてかいてきたが、私はその信徒ではない。また宗派協会を認めぬ点も仏教の場合と同様である。しかし私は福音書に接して、基督その人の教えに感動しないわけにゆかないのである。私は仏教と基督教を並べて、その優劣を論じたり、綜合を考えたり、妥協を企てたりすることを軽蔑しているものだ。ただ私は福音書を読んで感動せざるをえぬという、その事実に素直に身を委ねるだけなのである。

地獄とジャーナリスト
p.446より

源信和尚の『往生要集』の地獄篇に、「妄語の人」の堕ちる地獄がある。妄語の人とは、今日でいうジャーナリストと解してよかろう。それは大叫喚地獄と称するところへ堕ちる。獄卒は赫熱した釘抜きをもって、妄語の人の舌を抜くのだ。苦悶絶叫、ようやく抜き終われば、また舌が生じ、舌が生じ終わればまたこれを抜く。これをくりかえすこと八千歳に及ぶという。私は現代の大叫喚地獄に生きているものとしてこの本をしるす。

キリスト教の峻厳
p.462より

 耶蘇はいっさいを棄ててわれに従えといった。肉親も家も財も棄てて、正直に彼の言葉に従ったものの最後の運命は十字架である。耶蘇の言葉を信じたばかりに、無数の信徒は受難の道を歩いた。もしあの極端な語調を聞かなかったならば、彼らの一生は安穏であったであろう。

名画と長靴
p.464より

 たしかにこのころであったと思うが、僕に衝撃を与えたロシアのある社会主義者の言葉がある。「雨の降るときはラファエルの名画よりも一足の長靴を」という言葉だ。雨の降るときラファエルの絵が何の役に立つか。一足の長靴こそ必要である。

逮捕後の気持ち
p.488より

 あらゆる特権は剥奪された。僕が反逆した世俗的幸福のいっさいはここに完全に拒否され、未来においても拒否されてある。家郷の人々や両親が自分に期待した「立身出世」の道は、遮断されたのである。僕は憎悪の対象に向かって、身をもって復讐をとげた。痛快な復讐がいまこそ成就したと思いこんだ。僕の入獄を、絶望の眼をもって眺め、未来に賭けたいっさいの世俗的栄誉が、空しく消え去ったのを愕然と凝視している家族たちの悲痛な面持が浮かんでくる。彼らにとって僕はいまや一種の「死骸」であり、僕にとってはこれが生の凱歌であり、少年時代からの大願いま成就したのである。

 「富める者の神の国に入るは難いかな。子たちよ、神の国に入るは難いかな。富める者の神の国に入るよりは、駱駝の針の穴通るかた、反って易し。」

 ふと耶蘇の言葉を思い出してみる。神を否定した僕は、いまいかなる「神の国」にいるのだろうか。何に入ったのだろうか。獄中に在って、僕は自分のうちに感じていたあらゆる罪の意識が一瞬消滅したことに気づいた。人生の最低線、それは世間的には乞食よりももっと卑賤で悲惨な境遇とみなされているのであるが、そこまで辿りついて、僕はかつて味わったことのない心の平安を覚えたのである。独房に坐して、深い安堵の嘆息を洩らした。

 上掲引用は、過激な共産主義活動を罪せられて逮捕された当時の筆者の所感である。

 別談。以前、刑期を終え、老いた重信房子がインタビューに応じるNHKの番組を見たことがある。その平穏そうな態度や温和な表情に違和感を覚えた。何人もの罪のない人を、しかも海外で殺戮してきたテロリストなのに、なんだこの堂々とした、まるで「良いことをした人」のような態度は、と思ったのである。

 重信がああしていけしゃあしゃあとしておれる気持ちと言うのは、実は上の亀井勝一郎の気持ちと通じる、同じようなものなのではなかったか。この頃の亀井勝一郎と同じで、重信も、あの時代に親の脛を齧って生き、大学で学ぶことのできた、つまるところ「金持ちのお嬢ちゃん」だったからである。

小悪の悪さ
p.497より

 世には大盗と小盗というものがある。これは精神の二つの形態と考えてもよい。
 はるか後年のことだが、僕は八王子少年刑務所を見学したことがあった。そのときある保護司が述懐した次のような言葉を忘れることが出来ない。「殺人とか強盗とか、一見激烈な罪を犯した者の方に良い人間がおり、更生も早い。そういう者は観念して全責任を負わんとつとめ、覚悟を決めてしまう。弁解はない。しかしもっとも始末に困るのはその配下だ。あるいは幼少のころから十銭二十銭ずつこそこそと盗んでいる小さくて陰性の常習である。彼らは本質的に悪人であり、更生の道はない。」と。

戦争
p.510より

 平和な社会とは、各人の自由意思が尊重され、万人が快く働き、快く楽しみうる社会のことだ。しかし私は歴史を閲読して、かかる平和は三千年来の人類の夢にすぎないことを知った。ルネッサンスの芸文は、政治的暗闘と殺戮と強奪と淫蕩の上に花開いたものだ。その根は中世よりもさらに暗い。わが奈良朝の絢爛たる文化は、氏族陰謀と内乱と殺人と、いわば国家解体の危機の果てに成った血染めの曼荼羅である。平和とは内攻せる血の創造の日々であるといわれるのは真実だ。そして戦争とはキリスト教徒とキリスト教徒とが、あるいは仏教徒と基督教徒とが、神仏の名を絶叫しながら殺し合うことか。どこに救いがある? どこにヒューマニテイがある? 人間の栄誉は人類の悲惨にむすびついたものかもしれない。生が死にむすびついているように。

指導者なる者への懐疑
p.514より

 根本にあるものは、強度の組織体に特有の人間紛失である。各人が各人に対して、相互的に傀儡となるのだ。個々の傀儡は加速度的に膨張し、綜合されて一個の抽象的巨人と化し、人間を脅かすに至る。かような雰囲気から生じた一の幻影、「指導者」なるものについて、私は当時次のごとく定義したことがある。「指導者とは、つねに正しいことだけをいう不正な人間、絶対に非難の余地のないような説教を絶えずくりかえす一種の拡声器にして自動人形である」と。そして拡声器に慣れた耳にとっては、人間の普通の声はすべて秘密のささやきと聞こえるらしいこともつけ加えておこう。

後進国
p.512より

日本は不幸にして後進国であったというよりは、不幸に対して後進国であったといった方がよさそうに思われる。

近代の恐怖
p.512より

 自然の暴威に対して、古代人が浮かべた恐怖の表情を、現代人は何に対して浮かべているか。自らつくった近代的武器に対してだ。

言論統制
p.522より

戦争中はものがいえなかったというのは表向きで、じつはものをいいすぎたのではなかろうか。大叫喚地獄が現出した。

悪人正機と敗戦
p.532より

 「わがこゝろのよくてころさぬにはあらず。また害せじとおもふとも、百人千人をころすことあるべし。」

p.533より

この重荷の当否について弁解はゆるされまい。罰せらるることに小心翼々として、自己の罪を計量し、「より罪すくなきもの」として生存するよりは、いっそ世界のあらゆる罪をひきうけた方がよい。侵略、残虐、殺人、強奪、姦淫、地上の罪禍をことごとく背負って、日本は世界一の悪者となり、ここに自己を定着せしめて、「悪人正機」を実証以外にあるまいと。

 上掲引用は敗戦に関して述べた部分の一部だ。親鸞の「悪人正機」を、よくここまで民族の敗北の救済にまで転想・昇華できたものだと思う。

言葉
唆る

 「そそる」と()む。

  •  (漢字倶楽部)
下線太字は佐藤俊夫による。以下の≶blockquote>タグも同じ。p.463より

その断定的な語調において、背後に至上命令をもっている点において、とくに罪悪感を唆るという点において、しかも最後は理想国でなく牢獄であるという点において。

委曲をつくす

 詳しく説明することである。

p.501より

そのおりの感慨は、僕の青春の書たる『人間教育』に委曲をつくしてあるゆえ、くりかえし述べる必要はあるまい。

 次は第29巻に進む。第29巻はこれまたガラリと趣が異なる。「百万人の科学概論 Science, Sense & Nonsense」(J・L・シング Johon Lighton Synge 著・市井三郎訳)、「科学と実験の歴史 An Illustrated History of Science」(F・S・テイラー Frank Sherwood Taylor 著・平田寛・稲沼瑞穂訳)、「物とは何か Concerning the Nature of Things」(W・H・ブラッグ William Henry Bragg 著・三宅泰雄訳)、「自然現象と奇跡 Est’ li chudesa v prirode」(V・A・メゼンツェフ Vladimir Andreevich Mezentsev 著・藤川健二訳)である。

 思想文化的な流れから、一挙に自然科学の方向へ舵が切られる。

投稿者: 佐藤俊夫

 60歳前の爺。技術者。元陸上自衛官。40年勤め上げ、2等陸佐で定年退官。ITストラテジストテクニカルエンジニア(システム管理)基本情報技術者。 セカンドライフはシステムエンジニアになって働いています。

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