「春は花、花は桜」という。
愛用の歳時記、角川の合本の「花」の見出しを見ると、傍題季語には、
花明り
花影
花時
花過ぎ
花朧
花の雨
花の山
花の昼
花の雲
花便り
花の宿
花月夜
花盗人
……と、ゆかしい言葉が並んでいる。花そのものでなければ、「花疲れ」「花
今年の桜は既に咲いたが、今日は雪が降っている。「花の雪」という言葉は歳時記に載っていないが、あってもおかしくないな、と思う。
傍題ではなしに、見出し季語で「花冷え」という言葉もある。そこからすると今日などまさしく花冷えと言える。
オッサンは生きている。
「春は花、花は桜」という。
愛用の歳時記、角川の合本の「花」の見出しを見ると、傍題季語には、
……と、ゆかしい言葉が並んでいる。花そのものでなければ、「花疲れ」「花
今年の桜は既に咲いたが、今日は雪が降っている。「花の雪」という言葉は歳時記に載っていないが、あってもおかしくないな、と思う。
傍題ではなしに、見出し季語で「花冷え」という言葉もある。そこからすると今日などまさしく花冷えと言える。
三春九十日と言う。立春
ところが今日は冷え込み、太平洋側に低気圧が現れて、思いもよらぬ春の雪となった。昼にますます気温が下がり、手先が冷える。それと共に雪の
躑躅に春の雪、とはなかなか
この
なんというか、大人の「できるかな」みたいな趣がある。
いつも見事な手際であっという間に実用品を作ってしまうのだ。その分野も、刃物、木工、金属、革製品、なんでもござれで、古い電気工作機械をリストアした時など、電流制御回路のダメになってしまっているコンデンサーやトランスを構成しなおし、ほとんどスクラッチビルドという状態で再生していた。とても素人にできることではない。
約60年前の古書、平凡社世界教養全集を読み進めつつある。第7巻「秋の日本/東の国から/日本その日その日/ニッポン/菊と刀」を読み始め、最初の「秋の日本」を読み終わった。
著者のピエール・ロチは、明治時代に何度か日本を訪れたことのあるフランスの海軍大佐で、小説家としても高名であり、数多くの作品がある。職業柄世界各地を歴訪しており、日本に題材をとったものもいくつかある。
「
彼らはマカックザルのような手つきで、どんなにその筋肉が堅いかを私たちに嘆賞させようと
膕 をピタピタたたいている。
「泰西」とはヨーロッパのことであるが、これは「極東」に対して「泰西」と言うものだ。「『東』に対する『西』」は解るが、「『極』に対する『泰』」とは一体何か。
北極星のことを「極北」と言い、ものごとがいきつくところまで行きついた状況を表す時に使う。他方、中国の名山「泰山」や、名星「北斗七星」のことを「泰斗」と言う。これは極北の逆の、ものごとの正反対の到達点を表す時にも使い、一組で「極北、泰斗」等と言うのである。
ここから、「極」「泰」と言う言葉の組が現れ、「極東」「泰西」という表現が生まれても来るわけである。
人工的な方法で大きく仕立てられた秋の花の咲き乱れているあたりの、ひっそりした空中には、我が泰西音楽の最も特異な夢がただよっている。
「インバネスコート」のことで、シャーロック・ホームズが着ているようなアレだ。
日本では戦前、あるいは古い向きは今でも、和服の上に羽織るコートとして用いられている。
そこには電車や、電鈴や、シルクハットや、二重回しなどまでが見られる。
引き続き第7巻を読む。次はラフカディオ・ハーン小泉八雲の「東の国から」である。
#kigo #jhaiku #haiku #saezuriha
さえずり季題【486】は(桜)です。冬の桜や山桜、ソメイヨシノや八重桜。花も種々あるけれど、時と所を弁えて、津々浦々に笑顔満開。例句(さまざまの事おもひ出す櫻かな 芭蕉) #jhaiku #saezuriha #saezuriha_odai pic.twitter.com/CgrrsMDGNj
— 平坂謙次 (@hedekupauda) March 27, 2020
約60年前の古書、平凡社世界教養全集第6巻「日本的性格/大和古寺風物誌/陰翳禮讃/無常といふ事/茶の本」のうち、最後の収録作、天心岡倉覚三の「茶の本」、帰りの通勤電車内で読み終わる。
晩年米国ボストン博物館内に暮らしたという異色の人物の、全文英文で
日本の茶道を、世界中での喫茶の習慣や、中国における歴史的な喫茶の風儀と関連づけて論じるとともに、禅との関係性によって定義しようとするものであった。
上のように書き出してみると現代に生きる私たちにはあまり違和感はないが、その私たちの茶道に対する認識の基礎になっているものは、他ならぬこの岡倉天心が近代において唱えたものであり、「茶の本」が著された明治時代の末頃では、むしろ異色の見解であったと言えるのではないだろうか。
茶道の影響は貴人の優雅な
閨房 にも、下賤の者の家にも行き渡ってきた。我が田夫は花を生けることを知り、我が野人も山水を愛 でるに至った。俗に「あの男は茶気 がない」という。もし人が、わが身の上におこるまじめながらの滑稽 を知らないならば。また浮世の悲劇にとんじゃくもなく、浮かれ気分で騒ぐ半可通 を「あまり茶気があり過ぎる」と言って非難する。
翻訳は常に
叛逆 であって、明朝 の一作家の言のごとく、よくいったところでただ錦 の裏を見るに過ぎぬ。縦横の糸は皆あるが色彩、意匠の精妙は見られない。が、要するに容易に説明のできるところになんの大教理が存しよう。古 の聖人は決してその教えに系統をたてなかった。
昔、
釈迦牟尼 、孔子、老子が人生の象徴酢瓶 の前に立って、おのおの指をつけてそれを味わった。実際的な孔子はそれが酸 いと知り、仏陀 はそれを苦 いと呼び、老子はそれを甘いと言った。
われわれはおのれの役を立派に勤めるためには、その芝居全体を知っていなければならぬ。個人を考えるために全体を考えることを忘れてはならない。この事を老子は「虚」という得意の
隠喩 で説明している。物の真に肝要なところはただ虚にのみ存すると彼は主張した。例えば室の本質は、屋根と壁に囲まれた空虚なところに見いだすことができるのであって、屋根や壁そのものにはない。水さしの役に立つところは水を注ぎ込むことのできる空所にあって、その形状や製品のいかんには存しない。虚はすべてのものを含有するから万能である。虚においてのみ運動が可能となる。おのれを虚にして他を自由に入らすことのできる人は、すべての立場を自由に行動することができるようになるであろう。全体は常に部分を支配することができるのである。
利休はその子
紹安 が露地を掃除 し水をまくのを見ていた。紹安が掃除を終えた時利休は「まだ充分でない。」と言ってもう一度しなおすように命じた。いやいやながら一時間もかかってからむすこは父に向かって言った、「おとうさん、もう何もすることはありません。庭石は三度洗い石燈籠 や庭木にはよく水をまき蘚苔 は生き生きした緑色に輝いています。地面には小枝一本も木の葉一枚もありません。」「ばか者、露地の掃除はそんなふうにするものではない。」と言ってその茶人はしかった。こう言って利休は庭におり立ち一樹を揺すって、庭一面に秋の錦 を片々と黄金、紅の木の葉を散りしかせた。利休の求めたものは清潔のみではなくて美と自然とであった。
実に遺憾にたえないことには、現今美術に対する表面的の熱狂は、真の感じに根拠をおいていない。われわれのこの民本主義の時代においては、人は自己の感情には
無頓着 に世間一般から最も良いと考えられている物を得ようとかしましく騒ぐ。高雅なものではなくて、高価なものを欲し、美しいものではなくて、流行品を欲するのである。一般民衆にとっては、彼らみずからの工業主義の尊い産物である絵入りの定期刊行物をながめるほうが、彼らが感心したふりをしている初期のイタリア作品や、足利 時代の傑作よりも美術鑑賞の糧 としてもっと消化しやすいであろう。
原始時代の人はその恋人に初めて花輪をささげると、それによって獣性を脱した。彼はこうして、粗野な自然の必要を超越して人間らしくなった。彼が不必要な物の微妙な用途を認めた時、彼は芸術の国にはいったのである。
「カメリヤ」とは
してみれば、カメリヤの女皇に身をささげ、その祭壇から流れ出る暖かい同情の流れを、心ゆくばかり楽しんでもよいではないか。
今、「カメリヤの女皇」で検索してみると、岡倉天心に関する論文などが上位に来る。やはり本書中でも有名な比喩なのだろう。
次は同じく世界教養全集第7巻「秋の日本/東の国から/日本その日その日/ニッポン/菊と刀」である。今度は第6巻と打って変わって、すべて外国人による日本論である。
土木技術者であり医学者であり、また自らも体と心を
これ
学術的かつ医学的な対処と、人々の訴えに応えて優しく差し伸べる手の、両様のバランスこそごくあたりまえの「両界」とは言えないか。
疫病に
おそらく、微生物禍は克服できる計算が成り立つだろう。しかし人の心はそれを
「大学の入試は、各科目について学力の部分部分を検するもので、体系的・全体的な学力・能力の検出が行われているとは言えない。したがって、東大だろうと京大だろうと、合格した者のあらゆる入学は無効である。」
「民意を測定するための世論調査は、時間とともに民意が移ろいゆくものであることから、長くても30分以内の至短時間に、約1億3千万国民の全員を対象にアンケートを行わなければまったく意味がなく、長時間をかけてせいぜい1000人ほどの抽出しかしていない朝日の世論調査や毎日の世論調査は、民意を測定しているとは到底言えず、すべて無効である。」
「新型コロナウイルスのPCR検査は抽出数が少なく……(中略)アベ(中略)オリンピック(中略)森友(以下略)」
起こってみなければわからないことについて
一部分の抽出の手段にも、浅学にしてよくは知りませんが、層化抽出技法など、いくつかの手段があると聞きます。
しかし、こと新型コロナウイルスの検査に関する限り、皆さん、立派な学校を出ている割には、そういう抽出や推定に関するセンスが全然ないんですね。
私は中卒ですが、それくらいのことは知っていますよ。
……ええ、皮肉です。
そんな折にあっても、春は深まり、梅も桃も桜も咲く。
微生物禍などどこのことだとでも言いたげな快晴、暖かな風の吹く青い空の下、読みかけの本を持ってお気に入りの蕎麦店「SOBA満月」へ行く。
街の八百屋さんやスーパーの店先には春野菜が出ているから、今日のSOBA満月では、天婦羅を頼めば何かおいしい春野菜が揚がっているかな、と思ってメニューを見ると、季節メニューで「
新潟の銘酒「
旨い。蛍烏賊の香り、歯ごたえ、軽い味。「鶴齢」を含みつつ、
酢味噌の味噌は濃い味付けに調えられている。
なにより、付け合わせの「菜の花」の程よい茹で加減、歯ごたえ、香り、申し分なしである。
飲みかつ喰い、持ってきた本を10ページばかり読む。
香り、歯ごたえ、味、のど越し、何をとってもこのお店の生粉打ちは旨い。
帰り、自宅を通り過ぎて、小一時間ばかり歩く。自宅の東の方にある「
桜は六分咲き、今が一番見頃であろうか。
青天白日、桜を見上げながらゆっくりと歩き、SOBA満月で飲んだ鶴齢の
世間の騒ぎをよそに、私の家の周囲は、かくも静謐・平和である。