「支える」異考

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 昔の言葉や文章にはあまり出てこないが最近はよく見かける、というような、「流行の言い回し・書きっぷり」というのは、たしかに、ある。どこにも取りざたはされていないが、静かに流行する言い方、書き方だ。間違った言い方とまでは必ずしも言えず、だが、なんだか、古い向きはそこで一見無意味にひっかかり、考えてしまう、というものだ。

 例えば、いわゆる「商業丁寧語」というものにそれらを多く見つけることができる。

「食器をお戻し『いただけますよう』お願い申し上げます」
「こちらが設計書に『なります』」

というのがよく気になる。「台風が上陸する『可能性』があります」とアナウンサーが言うのも、私にとってはそのひとつだ。

 そんな中に、スピーチなどでよく気になってしまう言い方がある。

「私はその時、ほんとうに上司、また部下に支えられていると思い、元気を貰って…云々」

 この言い方のどこが気になるかというと、「上司に『支えられ』ている」というところである。「…を貰う」というのも、少し気になるが、まあこれは単純な流行と思いたい。

 言葉というのは世と人により、生き、生かされているものであり、変化していくものであってみれば、そこをさながら老人めかして「最近の若者は」などと言わぬばかりにあげつらうことはすまい。

 ただ、「上司に『支え』られる」とはいかがなものか、と思うのだ。

 事実上は本当に支えてもらったのかも知れない。また、実際の上司の気持ちのあり方と姿勢というものもあるだろう。しかしここでは、それは別にしたい。

 上司というものは「上」にある。したがって、引き上げ、あるいは鞭撻するものであって、部下の体の下側に回って「支える」というものではないのではなかろうか。上司の側から「支えてやった」というのはまだいいとして、部下の側から「上司が私を支えた」と当然のように言い放つのはやっぱり違うと思う。

 言葉の上のことでなく、実際の行動で言えば、まあ、あんまりにも上のほうに君臨してばかりいて、指図だけしてまったく手など動かさず、部下の上にどっかりと打ち跨り、それこそ「支えさせて」ばかりいる上司というのは、それは感心しない。だが、日本語は人の上下関係が入る言葉なのである。

 私のこのムズムズした感じは、病院で「センセイがくれた薬を赤ちゃんに上げたら、…」と話している奥さんの言葉に違和感を覚えた時のものと似ている。そりゃあ、お医者さんだからと言って患者より無条件に目上だということはなかろうし、赤ん坊にもれっきとした人格はあるだろうけれども、ここはやはり、先生が「下さった」薬を赤ん坊に「与えた」「やった」「飲ませた」のではなかろうか、と思うのである。

無能かどうかなんて

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 「私は的確にやってのけている」と思っているのは自分だけで、実は自分以外のほとんどの人に「アイツはダメだ」と思われていた、というのは、まあ、珍しくもない、ままあることだ。

 そういうことがままあるということは、逆のこともよくある、ということである。

 つまり、「俺はダメだ、能力不足だ、物笑いのタネになっている、もうだめだ、辞めよう」などと悩んでいたら、実は自分以外の人間は「あの人はなかなかやるなあ」と評価していてくれたりするんである。このパターンは、結構よくある。

 それくらい、自分と他人は違う感じ方をする。

 注意しなければならないのは、今述べたような

自分○ 他人×
自分× 他人○

…という組み合わせがあるなら、

自分○ 他人○
自分× 他人×

…という両極端もあるということだ。

「自分○ 他人○」だったら、問題ないじゃない、いいことじゃないのそれは、という感じがするが、私はこのパターンが一番危ないと思う。死人が出るパターンだ。

「自分× 他人×」

…こういうのが大穴だったりするから、人生あなどれない。

航空大国であった日本

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 日本の戦争指導の愚劣さを糾弾する際に言われることの一つが、「装備行政のまずさ」である。特に、零式艦上戦闘機について、航続距離を稼ぐために防弾設備や機体の強度を犠牲にしたこと、無線機の劣悪、戦争末期になると劣速であったこと、などが象徴的にとりあげられる。

 このことがあんまりにも言われすぎるために、飛行機が劣悪であった、との印象を受けてしまう。

 ところがところが。

 今よりも、戦前の日本のほうが、よほど航空機技術の自立した、航空大国であった。大戦の前後だけでも開発したそれぞれ別のアーキテクチャの各種航空機は百種類にもなんなんとする。

 まず、太平洋戦争勃発時の艦上攻撃機、「九七式艦上攻撃機」をWikipediaで見てもらいたい。また、大戦末期の艦上攻撃機、「天山」「流星」なども見てもらいたい。5年足らずの間に、矢継ぎ早に三世代の開発を行っている。

 次いで、日本のもう一つの敵であったイギリスの艦上攻撃機を見てもらおう。大戦初期から大戦末期まで、一貫して使われ続けた艦上攻撃機がこれである。

○ フェアリー・ソードフィッシュ

 比べて揶揄するわけではないが、その姿形はもちろんのこと、性能すら、世代がどうとかいうレベルを逸脱している。英軍は木製布張りで雷撃をしていたというのが正直のところなのである。大海軍国のイギリスにしてからがこうなのだ。

 アメリカと日本だけが異質だったと言ってよい。

ラーメン旨い

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 妻が出掛けているので、娘どもにインスタントラーメンをつくって食わせる。

 若い頃、旭川に7、8年ほど暮らした。札幌の歓楽街は「薄野(すすきの)」と言うが、北海道第二の大都市たる旭川の歓楽街には特に名前というものはなく、ただ繁華な一帯は地番が「三条六丁目」であるので、「サンロク」と言っている。

 旭川のラーメン屋はどこに入っても旨く、安かったので当時はよく食った。休みになるとサンロクに飲みに出掛けたが、飲む前の腹ごしらえには決まってラーメンを食った。時々は、さんざん飲んで酔っぱらってから、またラーメンを食ったりした。

 サンロクに今もあるのか知らないが、私がよく入ったのは「ピリカ」というラーメン屋だ。醤油ラーメンを注文すると、大きな鉄鍋にもやしを中心とした野菜の千切りを山ほど入れて強火で炒め、そこへ「ジューッ!」と音を立ててスープを注ぎ入れて火を通し、それを太い目の麺の上にたっぷりとのせて出したもので、野菜の味が麺に馴染んで旨かった。

 今、娘どもと昼めしにするのに、インスタントラーメンをそのまま食うのも芸がないと思い、 ピリカのことを思い出して、まず胡麻油を強く熱してモヤシと豚小間を焦がし、ほどのよいところへじゅぅ~っとスープを注ぎ入れてほんの少し煮た。ゆでたインスタントラーメンの上にこの具と汁を一緒にかけまわし、茹で玉子をあしらって出来上がりである。

 娘どもは私の旭川懐古などには頓着なく、「胡麻油のいいにおいがするー!」と喜んでラーメンを食っている。

 さて私はというと、その後兵庫県の姫路市に転勤になったのだが、それから、どこのラーメン屋で食っても旭川にいた頃ほど旨いと思わなくなった。いや、食えば旨いことは旨い。姫路に行く前にしばらく福岡に暮らしたが、博多の繁華街の屋台の豚骨ラーメンなど、出色の旨さだったとは思うし、東京づとめになってからは各地の味のラーメンを試すのに不自由はないから、だいぶ色々な店のを試しもした。ことに、10年ほど前の勤め先だった恵比寿~目黒のあたりはラーメン激戦地で、旭川にいた頃から知っている「山頭火」なども出店していた。また、最近になってからの第何次かのラーメンブームでは、うまい店を挙げるのに労はないと言ってよい。

 ただ、どうも若い頃食いなれた旭川のラーメンとは比べられないのである。私の好みが変わっただけかも知れないし、あるいは旭川の安いラーメン屋より、他の土地のラーメンが不味いのかもしれない。

カミカゼ搭乗員と同じ重さの命を持った、蟻のような地上の将兵たちは、ではどうであったのか

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 一瞬にして死を決する、あまりにも悲壮ないわゆる「カミカゼ」が、しかし誤解を恐れず書けば、後世の人びとから見たとき、切腹にも似た日本人好みの潔癖な死に様のようなものがそこに見えるため、一種の美学として長く民族の精神に残り続けていることは否めない。カミカゼについて書かれたものがいかに筆を極めて作戦の愚劣さを罵っていようと、である。

 航空特攻は、空を翔る航空機と、潔い死、また、たとえ学歴はなくとも素質優秀な者をすぐった航空機搭乗員が国のために死んでいったこと、あわせて大戦末期には素質・学歴ともに優秀な学徒も陸続と参加したという事実などがさらに組み合わされる。このため、陸軍・海軍を問わず、航空特攻は余計に一種の美しさや神聖さを感じさせ、人をシビれさせてしまうのだ。

 だから、特攻はまだ、マシだ。

 カミカゼ搭乗員と同じ重さの命を持った、蟻のような地上の将兵たちは、ではどうであったのか。

 言っては反発も強いと思われるけれども、そこをあえて書けば、搭乗員の苦痛に数倍する苦痛と、かつ、また、数倍する苦痛の期間とを耐え忍び、撃たれ、銃剣に刺され、五体四裂し、焼かれ、蛆に食われ、飢え、病死しつつ、肉弾をなげうって敵陣に踊り込んでいたのが、地上の将兵たちである。航空特攻のつらさの時間軸を、数百倍にも延長したもの、と理解すればよかろう。

 苦痛の期間が一瞬でなく、時間軸が長く伸びるため、その懊悩は余計に深い。航空搭乗員が哲学的に生死について悩んでおれたのは、衣食足りておればこそである。容易なことではないにもせよ、悩みぬいた挙句に死を決することも、あるいは可能だったろう。しかし、飢餓に悩まされた多くの太平洋の島嶼では、ただただ食べたい、そんな餓鬼のようなあさましい心ばえにまで将兵は突き落とされ、物理的な苦痛に長く苛まれてとても意義や精神や愛国といったところにまで昇華できない。それでも彼らは突撃し、さながら即身仏のごとく生きながらに餓死し、また玉砕した。

 私の手元に、「昭和戦争文学全集」の一冊、巻の五「海ゆかば」がたまたまある。

 古い出版なので、ISBNもない。

 当節流行の大ヒット小説「永遠の0」の第4章「ラバウル」で、井崎という登場人物が語るラバウルの搭乗員には、西澤廣義中尉や岩本徹三中尉と言った実在の人物が多く登場するが、その中に有名な坂井三郎中尉も出てくる。彼ももちろん実在の人物だ。

612183358812521 坂井中尉は戦後、苦労して印刷業を営みつつ、出版した「大空のサムライ」がベストセラーとなり、有名になった。私は子供の頃から坂井中尉のファンであったため、手元にこのような揮毫をいただいて大切にしまってある。

 坂井中尉が戦後に書き記した「ガダルカナル空戦記録」という手記がある。この手記は、前掲の「昭和戦争文学全集」に収載されている。この手記における坂井中尉の類まれな筆力が評価され、後の「大空のサムライ」の出版へとつながっていく。つまり、「大空のサムライ」のプロトタイプが、「ガダルカナル空戦記録」である。私は「大空のサムライ」の愛読者でもあるため、この全集の一冊を手元に保管しているのだ。

 さてこの一冊には、もちろん他の作品も多く収載されている。ここでは、「(遺稿)椰子の実は流れる-陣中日誌-」という手記を取り上げてみたい。

 なぜというに、この手記は、私が先に述べたような、航空特攻と地上の苦しい戦いとの好対照を、ある面から浮き彫りにしているように思え、心に訴えるものがあるからだ。一冊の本にこの好対照の二編、「ガダルカナル空戦記録」と「椰子の実は流れる」が一緒になっていることに、何かの意味を見出さずにおれない。

 この「椰子の実は流れる」は、浅野寛という陸軍大尉の手記である。浅野大尉はビアク島で戦死している。

 まだ飢える前、昭和19年5月末の大尉の手記は、次のようなものだ。

(佐藤注:平成6年日本法著作権消滅)

五月三十日 日暮れ

命令
「支隊は全力ヲ以ツテ本夜夜襲ヲ為ス」

雨は褌まで濡レ靴の中に足を浮かす
燃料はなし
採暖する何物もなし
夜襲を前にして一杯の温湯を欲す
語る友を求む
幡軍医大尉と静かに語る
静かなり、静かなり
何物も不要なり
残るは日誌と淑子に宛てたる葉書のみ
水筒の水を日誌を焼きてわかす
一葉ごとに目を通し
過去を振り返り
思いも新たに然して直ちに
煙にする
僅かに温まりし水にて
唯一つのミルクを味わう
葉書焼かんとす
幡大尉制止して曰く
「必ず出す時あらん
残すべし」と
幡大尉と語る
「過去において何が一番楽しかりしや」
と問う
「妻と共に在りし日なり」と
我も同意同感なり
連日の雨にて軍刀は錆を生ず
決意を籠めて手入れす
今更未練なし
敵撃滅の一念あるのみ
我に我々に国家に
此の苦痛を与えし敵は
寸断せずんばやまず

 悲壮であるにもせよ、この頃はまだ、大尉の詩は力強く、美しいと私は感じる。大尉にも、多少の文飾を施す余裕もあったのだろう。

 だが、この夜襲で大尉は生き延びる。数ヶ月経ったあとの手記は、次のように変わる。

(佐藤注:昭和十九年八月十二日~八月十八日の間の手記、同様に日本法著作権消滅)

 欲求が大なる時又は程度が高いときは困窮の程度がまだ低調でないと言える。すき焼きが食いたい。酒が飲みたい。ぜんざいが味わいたいという時は飯をまがりなりにも食っていたときの言葉であった。いよいよ芋だけ一ヵ月も食べると麦飯でよいから、みそ汁と共に腹いっぱい食べたいと希うようになった。塩分が欠乏して調味品が無くなると塩のひとなめをどれ程欲求することか想像外である。今は芋でよいから腹いっぱいたべて死にたいということになるのであろう。水が飲みたいうちはよい。空気が吸いたいとなると人間も終わりである。

 これが更に、次のようになる。

(佐藤注:平成6年日本法著作権消滅)

欲望

 洗い立ての糊の良くきいた浴衣を着て、夏の夕方を散歩したい。陸軍将校ノ軍服を着て、指揮刀と軍帽をかぶってみたい。セビロも良い。合い服を着たい。たんぜんもよい。火鉢の前にどっかりあぐらをかいてみたい。いずれにしても清潔な洗いたてのものをきたい。白いシーツの糊気のあるフトンでふっかりとねてみたい。明るいスタンドの下で机にもたれ熱い紅茶を喫しながら、「光」をフカして本を読みたい。やわらかな座布団の上にすわって、冬の夜勉強をするかたわらに妻がいる光景を再現したい。酢だこで酒がのみたい。酒といえばその添え物を数限りなく思う。

 数の子、焼き松茸、刺身、すき焼きはいう迄もないこと、鳥の刺身、茄子の紫色の酢みがかったのか、きゅうりの種のあるのに醤油をかけてお茶づけにしてみたい。朝ゆらゆら湯気のあがるみそ汁に熱いご飯をああたべたいよ。

 とんかつ、てき何でもよい。おすしもよい。握りがよい。冷たいビール、ああいいなあ。夏の夕方うち水をした時、清潔な浴衣で散歩する。あの気分、冬の夜熱い部屋が一家の団らん、秋の山、春の朝、梅匂う朝、桜咲く春の日中、いいではないか。

 妻と共の事は書くのを控えよう。自分が戦死した後で、第三者に見られるような事があったら、自分たちの一番貴重なものを他人に取られたような気がするから、唯今思い出すままに第三者のわからないように書きたい。和歌、白浜、名古屋、「名古屋ではウィスキーを妻がおごってくれた事があったっけ」正月の休暇中の大阪の映画、汽車旅行、新宿、二月に妻が上京したことがあった。この時、区隊長殿の特別の取り計らいにより、外泊を許可された国分寺の一日。四月に妻が上京、美しきアパートを借りる。風呂の帰りの散歩、食後の夕涼み、いつもの食事、晩酌、ボート遊び、市内見物、買い物、赤鉛筆買い、母と共に学校に面会に来たとき、帰郷の夜汽車、奈良駅、出発の日、大阪駅、──改札口──ホーム、ホームを一時の別離とした。

 このしばらく後から大尉の手記は途絶えてしまうのだが、大尉の戦死はさらに4ヵ月後の12月15日となっている。最初の手記から後のほうの手記への内容の変化をたどれば、戦死前に大尉の心情がどのように変化していったか、さまざまに想像できる。

 主計科の、しかも将校でさえこうであれば、歩兵や砲兵の、徴兵の兵隊がどんなにつらかったかは、いわずもがなであろう。

 地上の将兵の戦いの、ある側面が現れていると思う。

 私は、航空特攻と、学徒出陣だけが、美しい日本の将兵の死に様などではなかった、と言いたい。泥まぶれの、心さえ薄汚れてしまう地上戦も、すべて同じだったと思う。

平成25年いっぱいの佐藤俊夫俳句

投稿日:

不信心ちくりと痛し松飾

初東風の鉄路に颯と強からず

声低くなりて吸ひけり雑煮椀

裏がへす賀状の赤に衝かれけり

かんなぎの爪淡白に初詣

人は皆血も骨も眼も寒に入る

寒に入ること言ひにけりいとま無し

小寒を吾子跳びはねつ帰りけり

オイと人声にてPoke寒がらす

歌といふものなく寒鴉いどみくる

覚悟など言ふまでもなし寒に入る

人日や変哲もなき明けの駅

人日の始末一本槍の如

レントゲン欅枯る如透きにけり

猿曳の半纏赤く街低し

鏡割舅ゐぬ事殊更に

遠富士も寒に入りけり私鉄線

かまくらの明り瞑りてをりにけり

息つめて言葉は万と初句会

石膏の如く白鳥をりにけり

かまくらの一つに情痴めくほむら

餅花の紅の力を得てしがな

点在のかまくらに人なかりけり

小正月廃るゝ唄の聴こえけり

阪神忌雀を慈しみて朝

去り難し霜焼けの指さよならを

妻のゐぬ夜を過しかぬ薬喰ひ

かんなぎに霜焼あらん杜暝し

鴨あそべ大和島根はかくもある

眼鏡など拭き寒喰ひの論を止む

遠野まで暗くなりけり雪もよい

大寒や身捨つるほどの意義の地に

寒椿来し方これを贈らざる

蜜柑さへ笑みてゐたりき帰りたし

採氷の湖胡麻粒の如く人

裸木の温みを知るや無垢無邪気

冬月も莞爾とベッドタウン哉

裸木の温みを知るや無邪気の手

燈明の見ゆる麓や冬安居

高楼を知らぬげの銀冬の海

釣堀に竿軟らかし春隣

凍滝に星も落つらむ音白し

嘘などもありて垂氷に憐れまる

春めくや武蔵野の雲溶けて昼

寒椿何の映画の紅さぞや

彼の影手を切る如し冬の果

春めくや掛取りの足さぞ急きて

佳き事の多かりし冬果てにけり

立春の気味鴉にも猫にも来

あけぼのに春めく音のなかりけり

立春や鉄路の夜明け煌々と

雨握る拳二月の固さかな

岩海苔やその日の五人瓶ひとつ

初午の幟彩々はれわたる

懐かしき一瓶を酌め日脚伸ぶ

クロッカス植うらむくにへ二十余里

春泥に脛汚してや半ズボン

春スキーワックス論の男共

子等の髷短し絵踏捗りぬ

鉛筆の文かするゝや春遅し

石段の角まろき谷水温む

草萌ゆる上あまりにも雲速し

あのひとに降りけむ春の雨届く

春燈の昏さ一盞おぼつかず

風呂窓に春暁入るや唄低し

朝まだき獺祭のうを干からびる

獺祭の鱗曙光にひかるらむ

ひつそりと帰るひとあり斑雪

春ショール巻きて夕べを忘れけり

バーボンのグラスかちりと冴返る

料峭の音鉄橋を渡りけり

靖国や夜々に桜の芽は充つる

魂魄もかくや椿の葉は万と

麗日の電車とろりと都心迄

蕗の芽をほろほろ噛む夜澄みゆかず

浅春の波細やかに池黒し

恋猫のジャズ・ノートにも似たりけり

春塵にいでてや光こそあらめ

春寒や隣家のあかり乃し消ゆ

焼山の型に青空切り抜かる

重空の意外に青し二月逝く

囀の色は白きや降りきたる

見ぬふりの姉妹喧嘩や古ひいな

待つことは大人のならひ春動く

半世紀瞋恚あるなし妻の雛

霾天の奥幾億の眼のひかり

朧月更地の上に痩せ細る

霊気凝るごとく花芽の忠魂碑

笑顔さへ角も取れけり霾

霾天の下老人の耳遠し

霾りの土手に蛇行の轍かな

神農の声張り上げて梅の昼

外濠を揺らしてドウと春嵐

彩々に春を載せけり停電車

春陰にがしりと重し聖橋

晴嵐に似合わぬ春の甘味かな

去る彼も居残る我と春疾風

彼も去らば風光りけりさようなら

のろのろと雨拾ひけり春の闇

人もなく罪なくげんげ野の嵐

靖国や五体を花の下に恥づ

春陰を纏ふ擬宝珠の鬱金かな

神保町顔Yシヤツもドカと春

容れらるゝこともあるべし春彼岸

春塵やをみなのきびす瞬転す

佐保姫のこゑの如しや水ながる

花曇ベッドタウンに罪あらず

むさし野を隔つ筑波の山笑ふ

はしゃぐこと静かにおさむ初桜

彼我の間に高くきららと彼岸潮

端的に不倫と言はず春の雨

週末や私鉄に沿ひて花曇

朧月ピンクノイズを胃の腑迄

満載の艀も鈍し春の川

春天にくるまれてゐる眠き哉

旅もはや終ひの車窓や残る雪

花冷えの駅やスーツは陸続と

呻吟やまた霾天の街の底

春服に居眠り蔽ふたよりなし

小娘の嵩日々変はる花の候

万愚節あの子晴野を走ってく

花筏避ける水棹の不慣れかな

雨に色つけて散りけりさくら花

拘りもあるや懐かぬ猫の夫

新社員視線投ぐるや濠の波

泣く事もありけり百花繚乱す

春荒の空へ手を振る梢かな

農のこと会議してゐる葱坊主

桃色の真逆に止みぬ春の雷

新緑や研修生の背を押す

パトカーの底も真つ赤に冴へ返る

パトカーの底も真つ赤に冴返る

新緑の下女めく無口の子

桜餅ひとつ残りて夜は朝に

今やつと街春闌けて目覚むらん

ソプラノの歌をてんでに花躑躅

わがことをまたぼんやりと木の芽和へ

山独活のあをそれほどに青くなし

言ふことの在るゆゑ躑躅この色す

花水木はや通学に慣るゝ路

啓かるゝ街に沿ひけり花水木

先生の噂花水木の街路

音もなく黒部鎮むや蜃気楼

小糠雨はや背に重し伊勢参

君の脛白し春夜の端にゐる

燕も稍遅く飛ぶ曇かな

生きて在る痛みもあらばけふ穀雨

春濤の奥に富士あり雲厚し

武蔵野や溜りも黒し残る鴨

罪の在る写像を言ふや石鹸玉

ユリノキの葉に風当てて夏隣

同じ顔してまた迎ふ花躑躅

スカートの紅さ遠かり豆の花

五月てふ上着のフード重からず

育まるもの陰連れて竹の秋

殺生もある潮の香や河豚供養

蒼天に雲生れてけふ昭和の日

春筍を買ひ来たりけり扨夜は

曇りけり勿忘草と過ぎゆきと

揺れ遅し洗濯物に四月尽く

雲独り憲法記念日は晴るゝ

夏立つや旗竿きらと軒高に

新しき茶を持ちて来よ伝多し

ベランダの左右すがしやこどもの日

つい歌ふ九夏の端や闇軽し

男の子をらでかしまし柏餅

むさし野や驟雨馬の背のみならず

新緑の工事現場や打音張る

竣工のマンションあれに風薫る

薫風やそろそろ目覚む住宅地

すみだ川黒光りして風薫る

夏蝶のゐる心地してまたゐ寝る

行水の肌もすべらにウィスキー

端居してカットグラスを見詰めけり

姉めくや同級生の洗ひ髪

韜晦に慰めありてサングラス

魂還る市ヶ谷台の木下闇

片陰も早し人その脚速し

みづ色に予報図も冷ゆ走梅雨

待人や衣更へのち笑みて来つ

帰りなむ驟雨の気味は風を染む

走梅雨ノー・ダメージと言ひにけり

一むらの笑みあかあかと花さつき

雨蛙眼の醒むる程緑濡る

庭の狭や蟷螂生るあをし濃し

ひと息にからころと置くラムネ瓶

蒼穹と吾を隔つやつばくらめ

吾がうへも汝がうへも梅雨かな

尾の揺れも大儀さうなり大緋鯉

黒鍵の響きかそけし五月闇

万緑に依れたまきはる命こそ

赤き汗拭をみなごのをるらむ

責難は成事にあらず今年竹

惜別を今年竹にも寄せにけり

あぢさゐの佳し老人の家ならむ

掌裏にくたる悔しく汗拭ひ

鳴る前に目覚まし止むや夏いたる

辛き酒注ぐ頃合ひや燈取虫

まらうどの帰る梅雨寒暮れはじむ

やご生るゝ様見入る子の頚細し

燈取虫死にて修飾ともならず

五月雨の切れ間や一書誰に宛つ

千住から日光みちを夏の月

かの人も端居するらむ酒の味

あなたとの事青梅雨の先に在る

果てもなく咲くらむ百合の谷遠し

懊悩と言ふ程でなし半夏生

高気圧パイナップルの棘に吹く

棘痛しパイナップルと高気圧

雲の峰取らば取り得る程近し

端居ふと双肌窶る事を知る

をしむべき優しき事や夜短し

木下闇正邪の論を嗤ひけり

肌白き少女の汗や晴れ上がる

ゆつくりと水飲む喉やけふ小暑

たまきはるいのちの半ば暑気払い

たまきはるいのちの半ば暑気払ひ

なすことを為すそばかすの炎暑かな

「疲れたわ」妻に梅酒を酌みにけり

父をればビール瓶さへ恐ろしき

一つ減る心配事や風涼し

地に沿へど花魁草は空のいろ

けふ終ふる期末試験や青田風

靴下も穿かず夏芝こそばゆし

甲虫ゐる気配して閨の街

我がことをいとしむべかり夏やつれ

蜜垂るゝ如く遍し夏の月

大暑てふ疲れの味も鹹き

低徊のサングラスはや正午かな

あつさりと喰らふ四十路や冷し汁

炎天にをみなはなべて色白し

百日紅赤し向かひ家孫来たる

期する事都心へ高し雲の峰

いきものの性止むを得ず夜の蝉

土用波九十九里にも高からむ

屈託を雪ぐ荒さや蝉時雨

終業や否夕焼けは澄んでゐる

蝉時雨聴きて暮るらむ人を恋ふ

宿六を起こしてどんと揚花火

かはほりを肯ふところありて夜

絞り稍開くカメラに秋隣

罪すこと秋隣にもありにけり

赦さるゝこと何時かあれ夏の果て

かなぶんのかけらはキラと街の隅

結納の済む縁先や酔芙蓉

四人にはをさまり佳き屋秋暑し

山祇も哭くや八月いくさやむ

秋暑し昭和は遠くなりにけり

夕まぐれ空のあを濃き残暑かな

新豆腐暮るれば角の濡れひかる

戸口まで送らば眩し秋旱

生るゝものみな智慧聡き葉月かな

撹乱や脚ほそぼそと押し黙る

君との間一つ置かるヽ小鰭かな

あを瓢長し似る人ありぬべし

所望する朋友ありて走蕎麦

秋扇せはしき話相手かな

稲妻やサイレンの間のおそろしき

秋口は如何にぞと文手は細し

地方都市駅舎に秋の燈は点る

あるなしの議論は昨夜盆の月

墓々にゑのころ草の生ひにけり

曙光やゝ眩しく低く涼新た

棟上の槌音硬し涼新た

犬蓼や電信柱曇天に

あかまんま笑ひ転げて口づけす

嵐未だ庭にはえ来ず青蜜柑

寒蝉の止むや漆喰塗り終る

夕暮れの雲もぽつりと震災忌

軽トラの白桃すべて産毛づく

秋涼をさもさも望之似木鶏矣(デクににやがって)

秋の燈へ帰らざらまし雨止みぬ

何事の卒る心地ぞけふ白露

山水に理路うつくしく龍田姫

南京の味の眠さや昼餉すむ

煮炊きの香弓張月を背に帰る

稲掛の向う普く陽の昇る

山祇の物言ふが如木通あく

花紅き模様の裾も秋祭

わが庭に一色足らず小鳥来る

月ひとつ喰うてしがなと帰る途

吾子の唄吸ひて月やゝ膨れけり

十六夜を母は病むらむ夜は来ぬ

空高し普請の響き消えてゆく

おゝ怖わと毒茸跨ぐ里古し

月欠けて馬鹿は死ぬやら生きるやら

指のあと残る土師器や古酒は澄む

燈ともしの頃茸飯の色を誉む

広峰を増位へ行くやましら酒

柚子ひとつ需むる舗や黄に赤に

ゐ寝てより縁をなゝめに後の月

秋霖の強きにひと日暮れにけり

走蕎麦青みはかくも還れ友

さなきだに老いは拙し菊枕

柿守の子は国道を睨みけり

酒もやゝ濃きを欲して秋湿

かの日々も芒垂れけむ戦やむ

じんと音聴こゆる程に暮の秋

むさし野のしら露に雲映りけり

やゝ濡れてゐる裾連れて秋の暮

馳す人に家もありけり秋時雨

学窓の山茶花滲む次はいつ

優男夜々燗酒を呷るとは

猪口ひとつ潤目の塩を噛みて愚痴

しぐるゝや走者眦たかく過ぐ

黝く冬麗俺を嗤うとは

時雨来る真空めいて彼の場所

火吹竹影をなゝめに黙りゐる

冬天を国際線は裂くが如

水洟に唄なぞあらず強き酒

念彼観音力冬ざれをすみだ川

枯園に重機のあぎと人は死す

まらうとは来ず大雪の日暮れかな

鰤起し撃つらむ水も膨る如

わが胸を刺さばや冴ゆる月をもて

開戦の日の悲願てふ字や淡し

核家族背もさまざまに畳換

短日やごめんなさいもさよならも

我が翳のをしくもあるよ一茶の忌

はや五年ポインセチアを呉れしこと

襟足もふと情痴めく年忘れ

玉にぬく冬至の糸を惜しみけり

年守の瞼は重し猪口ひとつ

よもやまに箸のろのろと去年今年

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