猟銃による殺人事件があった。http://dailynews.yahoo.co.jp/fc/local/sasebo_shooting_incident/
痛ましい事件であり、あたら前途ある尊い人命が失われたことを悲しむ。被害者とその遺族の心情を思うと酸鼻きわまる。亡くなった方の冥福を祈るよりほかにすべもないのが残念だ。
しかるに、事件の報道は遺憾といわずしてなんであろうか。犯行の動機の解明を待つこともなしに、ただただ「猟銃の怖さ、日本に銃があることのおそろしさ」という点へばかり傾いているのは間違っている。
もし、この犯人に銃がなく、持っていたのが包丁かナイフだったとしたらどうだろう。この被害者の敵、蔑むべき犯人は、それでもやはり人を殺しただろう。この男に包丁もナイフも無ければどうしただろうか。この男は自動車で人をはね殺しただろう。それもなければ、扼殺に及んだであろう。そのゆえに、猟銃は原因ではない。
報道は「猟銃とそれを許可した警察のみが悪い」と言い切っているではいか。
原因は犯人にある。
顧みよ、飲酒運転がようやく批判されるようになった。飲酒運転をする者は殺人者である、と、ようやく正しい規律の萌芽が日本にも見られるようになった。だが、「自動車の蔓延と恐怖」などという報道がかつてあったか?
思い見よ、猟銃による死者と自動車による死者と、どちらが多いか。
誤解を制する。私は「自動車を撲滅せよ」と言っているのではない。刃物、鈍器、否、石ころでも電気でも、いかなる物も現象も、すべて殺人兵器たりうるのだ。ご飯だって、それで赤ん坊の鼻口を塞げば、立派な殺人武器だ。「この痛ましい事件を永久に封殺するために、米の生産とご飯の調理のような野蛮で非文明的な行いは永久にやめましょう、またこのような危険なものを野放しにしている農林水産省の責任は重大であり、担当官僚を免職すべきだ」などという極端な意見が馬鹿げていることなど、いかなる人にとっても自明である。
殺人以外の目的を有しない原子爆弾も、それのみでは人を殺さない。アメリカ人という殺戮族がいてこそ、初めて殺人武器たりえた。憤ろしいことには、文明棄却の咎は原子爆弾の存在に帰せられ、アメリカ人、含んで原子爆弾を作った科学者や技術者は免責されて尊敬や羨望すらされている。こうした歪んだ情の流布を悲しむ。
なにゆえかかる謬見邪見がまかり通るのであろう。戦争でも犯罪でも、果は、いつに、人に因がある。