自衛隊を定年退官するよりもかなり前、日本ITストラテジスト協会に入ったところ、一般の会社の方々にかなり知り合いが増えた。今は日本ITストラテジスト協会も辞めてしまっているが、入会した当時、私にとっては刺激が多く、とても勉強になった。
反面、自衛隊のことで質問攻めにあうようにもなった。自衛隊は不思議な組織で、一般の人にはなんだかよくわからず、しかも “私FAQ” の続きを読む
オッサンは生きている。
自衛隊を定年退官するよりもかなり前、日本ITストラテジスト協会に入ったところ、一般の会社の方々にかなり知り合いが増えた。今は日本ITストラテジスト協会も辞めてしまっているが、入会した当時、私にとっては刺激が多く、とても勉強になった。
反面、自衛隊のことで質問攻めにあうようにもなった。自衛隊は不思議な組織で、一般の人にはなんだかよくわからず、しかも “私FAQ” の続きを読む
婚活サイトのネット広告で、「ゲーマーの旦那さんください」というキャッチ・コピーのものがあって、思わずクスリと笑ってしまった。
パズルゲームが大好きな婚活女子が、念願
どうしてそういうふうに思うのか。
私は、ごくクローズドな範囲の、小さい読書コミュニティの世話人をしている。この2~3年ほどそこの中核メンバーである。
ところが、単に「読書」というタイトルで人が集まっても、これがまた、話なんざ、全く合わないのだ。なぜと言って、それは簡単な理屈で、世の中に本は何百億冊とあるからだ。そして、その内容はすべて異なる。本はメディアに過ぎず、話が合う合わないはどんなジャンルが好きかとか、今どんな内容の本を読んでいるかということに依存する。これを仮に「小説が好き」というふうにジャンルを狭めたとしても、世の中にはこれまた何億という数の小説があり、単に小説が好きというだけでは話を合わせることが難しい。
こんな経験から、漠然とした「読書」「本」という枠組みだけではどうにもならないということが私にはよくわかる。
そこからすると、ゲーミングも読書と同じだ。今やゲームは、本と同じ「媒体」と見てよい。ゲームは新しい分野であるとはいえ、もう既に数十年の歴史を経つつある。
こうして考えてみると、新たなものを何か考える際、それが「プラットフォーム化」「基盤化」「媒体化」したとき、はじめて、そこから十分なお金を安定して引き出すことができるようになるのだろう。
かつて、「無線」は、それ自体が趣味や職業として成立し得た。アマチュア無線や市民無線(CB)の免許をとり、他人と話をすることはなかなか程度の高い趣味であった。話の内容なんか、どうだっていいわけである。「無線機を使って話をするということそのもの」に意味があった。また、無線従事者の資格を持つ者は職業として幅広い選択が可能であった。だがしかし、万人が「携帯電話」という名の無線電話を持つ今となっては、アマチュア無線などもはや風前の
同じことはかつての「マイコン」、現在の「パソコン」にも言える。これらは、かつてはそれ自体で立派な一分野で、趣味としても、職業としても成立し得た。だが、今やそうではない。パソコンはネットへの窓口としての安価なコミュニケーション端末か、安い汎用事務機器か、ゲームマシンか、そういうものに過ぎなくなってしまった。大切なのはパソコンで何をするかである。昔のように「パソコンが趣味です」などと言っても、ほとんど意味をなさない。パソコンで絵を描くのか、著述をするのか、音楽を楽しむのか、ゲームを楽しむのか、他人とのコミュニケーションを楽しむのか、その内容による。また、パソコンが仕事です、と言って意味をなすのは、PCの設計や製造、CPUの開発に従事している、アプリケーション・ソフトのプログラミングをしている、というようなことであって、完成品のパソコンを買い漁ったり、出来合いの電源やマザーを組み合わせてパソコンを組み立てたりしても、もはやコレクションとしての意味はおろか、趣味として形をなすかどうかすら疑わしい。
自動車も似ている。かつては自動車の所有それ自体がステイタスの誇示であり、どこへいくという目的などなくとも、「ドライブ」ということそのものに意味があった。だが、今もし意味を持ったステイタスの誇示やドライブをしたいなら、1千万円を超える高級車でも所有して、外国のハイウェイでもブッ飛ばさない限りはなんの意味もない。これだけ普及すると、自動車は物を運ぶとか、人を乗せて仕事に行くとか、そういう実用的な「媒体」の一種でしかない。こうなってくると、大事なのは自動車を使って何をするかだ、ということになる。
こうして、人間はいろいろな手段に熟達した挙句、ふと我に返って「私はいったいこれで何をしたかったのだろう」と自問するのだろうと思う。目的のない手段、魂のない科学、中身が薄い媒体、目標のない技術、こういうものが地球上には溢れかえっている。
ここで道は二つに分かれる。次の二説だ。
実はこんなことは、古くから先人が論述済みである。
私は今、
林語堂は明治28年(1895)~昭和51年(1976)の激動の時代に生きた中国人著述家だ。現代の共産党中国に生きる人々とは違う、古い時代の中国人のものの考え方・見方をこの「生活の発見 The Importance of Living」で著述した。
彼が述べる中国人の考え方や姿勢は、雑に言うことが許されるなら、「手段や媒体そのものを楽しめ」である。花鳥風月を愛でることや茶や酒や書や詩や絵画や道具や居宅、日月山川、そういうものを生活として再発見し、生活そのものに人間の存在意義としての価値を認め、それによって幸福に生涯を送れ、としている。
しかし、西洋哲学はどうも違う。同じ全集シリーズの最初の方は、ソクラテスから始まって、ジョージ・サンタヤーナなどまでに至る西洋哲学体系であったが、これらは人間の目的、人間の精神の存在、魂や神など、形而上に意義と目標を求め続けるというような、そういうものであった。
実は林語堂は、これを
さんざんヨーロッパの形而上学を読まされた後だと、林語堂のこうした
もしここで、イスラムの古い哲学などを読むと、またいろいろと違うのだろうな、と思う。それには、ヨーロッパが十字軍遠征などを通じて持ち帰ったイスラムの膨大な書籍がどのようにヨーロッパの学問に取り込まれていったのか、ということに関する詳しい理解が下敷きとして必要だろう。
この話、全然知らなかったが……。
よほど辟易してたんだろうねえ。
私も時々、「迷惑だなあ」と思うことがあるもんな。大怪我させたんだから、そりゃあ、賠償くらいせにゃならんだろ。……そういう種類の保険なんか、世の中にあるのかな。
このサイト、
戦前、日本の特高も落書きの調査収集に余念がなかったそうだが、中には巡査が仕事の実績を上げるため、自分で落書き書いてそれを報告するようなこともあったんだそうで。
そこから類推すれば、北朝鮮の落書きなんて、下っ端の警官がデッチ上げてンじゃねえの?
その際、憲兵隊の中佐(45)が、人質の女性の身代わりとなって容疑者と一緒にスーパー内にとどまったが、数時間後、当局がスーパーを急襲した際、容疑者に撃たれ重体となった。
他のニュースではこの部分はあまり取り上げられていないけれども、これぞ勇気ある軍人の
45歳で中佐というと、フランス陸軍にあってはそれほどのエリートでもなく、実直な軍人像が想像される。本復し、一命をとりとめるよう祈る。
Facebookは月々日々夜々仕様が変わる。最近何となく気づいていたのは、ブログに画像を置いて、その記事へのURLをシェアした時の「OGP(Open Graph protocol)画像」の扱いが変わったことだ。いつの間にか、ブログの画像が採用されなくなった。
大した話ではないので「まあいいや」で放っておいたのだが、今度は「FBページ」のほうの画像の扱いが少し変わったように思う。たくさん画像を貼ったブログ記事へのURLをポストすると、「どの画像をどの順番で出すか」ということを選択させるインターフェイスが表示され、画像の順序、表示の有無等を選べるようになった。右がそれを使ってポストした記事だ。
ブログのエントリは、Jetpackを使ってFacebookとTwitterにクロスポストしている。Facebookのクロスポスト先はFacebookページに向けることも可能だが、ページは誰も見ちゃいない(笑)ので、タイムラインに向けている。
これまで「人に見せたい写真」などをブログ側で一元管理できていたわけだが、タイムラインに写真が載らないとなるとこれが期待できないので、うーん、どうしたものかな、と思案が
今確かめてみると、Jetpackによる自動クロスポストを使わず、手動でFacebookのタイムラインにブログ記事のURLを貼ると、ブログ内画像を選ぶインターフェイスが表示されることが判った。しかし、いちいち手動で記事の共有など、面倒臭くてやってられない。
Instagramも楽しんでいるが、TwitterのタイムラインにはInstagramからのクロスポストでは写真が載らなくなった。これはつまらない。ところが、ブログからのクロスポストだと、Twitterには載る。
この辺のところ、引き続き観測が必要だ。
そう言えば最近、「水素水」とかいう文字列をFBやツイッターのフィードでも見なくなった。
やっぱりあんなものは、マヤカシのまがい物、パチモンだった、ってなところが相場なのだろう。
私などが子供の頃は、「紅茶キノコ」なんて変なものが流行して、すぐに忘れられていた。あと、超音波美顔器に、ぶら下がり健康器に、思い出すとイタいものは枚挙にいとまがない。今は消費者センターなどという公的機関が変なものをキッチリ調べるが、昔はそんな機関なんてないから、人々は新聞やテレビに踊らされ、変なものを買いあさって一喜一憂していた。
だいたい珍奇な新しいものは、パチモンだと思って間違いがない。適当に無視して買わないのがよい。時間と金の無駄だ。
一昨年からFacebookには「いいね」「超いいね!」「うけるね」「すごいね」「悲しいね」「ひどいね」の6種類の気持ちをワン・クリックで表明可能なボタンが設けられた。
その前は長い間「いいね(Like!)」のみであった。それが、ユーザの要望によって6種類に増やされたのである。私も最初はこれを歓迎した。
だがしかし、これでは足りない。中途半端な拡張だと言わざるを得ない。
Facebookでは意外に病気や怪我の報告をする人が多いが、これには「お大事に」という気持ちを送信したい。だが、アメリカ人には「お大事に」という心は理解不能らしい。
また、訃報を表明する人もある。これに対して「悲しいね」の一択というのも、いかにもアメリカ人らしい。「ご愁傷さまでした」という気持ちと「悲しい」という気持ちは違う。また、満中陰の忌明けの人に贈るべき気持ちは「悲しいね」ということのみではない。
災害などの困難をようやく切り抜けた人へ「大変でしたね」と見舞いの心を贈るのも、日本人にしかわからないらしい。こういう人に「すごいね」はないし、ようやく生活を再建しはじめた、という局面に「悲しいね」もない。だが、アメリカ人は「すごいね」で済むのだ。It’s Great、というところだろう。
「ひどいね」などというボタンも、いかにもアメリカ人らしい。このボタンでは
どだい、コミュニケーションに必要な「気持ちの表明」を世界通用標準に類型化しようなんてことは、ムリなのである。アメリカ人には「悲しい」という気持ちはあっても「ご愁傷さま」なんていう気持ちは、理解不能なのだ。逆に、戦地から帰った軍人に凱旋おめでとう、何人殺した!?……などと問いかけて祝い、「超いいね!」ボタンをクリックする気持ちなど、我々日本人には到底理解不能で、悪魔民族としか思えまい。
だから、FBのボタンは一つに戻したらいい。そして、そのボタンはもとの「いいね Like」ではなくて、「心が動いた」という選択だけにしたらいい。他の「超いいね」とか「うけるね」なんて、不要だ。
こんな研究もあるんだな、はは~ん、と単純に感心。
まあ、でも、気体をプラズマにするほどの高出力なレーザーの電源は、多分航空機には積めないんでしょうね。原子力発電所みたいなのを搭載しないと、多分ダメでしょう。
ええぞ、もっとやれ、キシシシシシ……
頑張れ頑張れ元谷~、フレーフレー右翼ぅ~っ!……てなもんである。私も無責任そのものだ。
しかしまあ、スポーツ大会関係者などが「すんません、もうちょっと穏便になりませんか?」みたいなことをAPAホテルに申し入れた、なんてのは、まあ、大人としてはしょうがないんでしょうけどねえ。
また「警察というのはデフォルトで『悪』だ!!」というような決めつけを人々に流布するような記事を見かけ、腹が立つ。
読んでみたが、要するに、「疑いも間違いもなく信号無視をしたジジイが、ゴネまくって無用の裁判沙汰まで引き起こし、公器を混乱させた挙句、ゴネ得・逃げ得になった」という許せない話であって、警察が悪いという話じゃないじゃないか。
ところが、世の中、こんなのをまた、そうだそうだ、悪いのは警察だ、警察が全部悪い、とばかり、溜飲下げつつ有り難がって読む人ばっかりなんだろうなあ、とウンザリする。
某市職員達がかなり前から生活保護不正受給を嫌うジャンパーやTシャツを作って着ていた。それが今頃になって叩かれている。
まあ、無論、小田原市の職員も、言いたいことがあるんなら、もう少し考えて言いなよ、というところはある。
しかし、私はネット一般の論調、すなわち「小田原市の職員は間違っている!謝れ!!」みたいな調子には反対だ。ただ、真向反対、というほどではない。どちらかというと反対、という程度だ。
私費で買って着ていただけで、底辺職員の自発的な、ボトムから上がっていった運動のようなものであるように見受けられるところがある、というのも、一つだ。
私費で何かをして悪いということなら、本来不党不偏であるべき地方公務員が、私費で赤旗新聞なんぞを半強制購読させられていることなどのほうがよっぽど悪い、というのも、もう一つ、まあ、ある。
世間様は、
【OK】日本死ね
【NG】(生活)保護なめんな……だそうですが。私としては、どっちも「詩的」でないので、不可。
— 佐藤俊夫 (@SatoToshio) January 20, 2017
しかし、それよりも何よりも、このジャンパーには品がない。それがいけない。端的に言うと、私がツイッターにチョイと書いた、右のようなことが私の感想だ。
「日本死ね」をOKとする人は、やはりこのジャンパー「保護なめんな」もOKとすべきだろう。
逆に、「保護なめんな」をNGとする人は、「日本死ね」もNGとすべきだろう。
「何言ってんだこのオッサン。『日本死ね』は困っている一市民が言ったことで、『保護なめんな』は公僕が市民に向かって言ったんだぞ?!、発言の向きが根本的に違う、問題が違うわ!!」
……と言われそうだが、私が言っているのはそういうことではない。品がない、詩がない、知性もヘッタクレもない、そこのところなのだ。
ある論評に違和感を持った。
一口で言えば「イジメはいけない」という単純な一事を言っているだけなので、そのことには何の異存もない。大略、まったくその通りであり、私も大きく頷くばかりである。
違和感と言うのは小さなことだ。
この人は「昔
……退治された悪人(鬼)も、改心し反省すれば味方(子分)にするという寛容さがあった。『桃太郎』がその代表作であるのだが、絵本の中の鬼は悪行を働くときは正に鬼の形相だが、懲らしめられた後の子分として追従するときの顔はやたら柔和で仏の顔の如く変身している……
……としている。
この部分について、「この人は、本当にリアルタイムで昔話を見聞したことがあるのだろうか」と感じたということが私の違和感だ。
昔話の口承は、この人が桃太郎について言うような生
例えば、かちかち山の狸は婆さんを惨殺しただけではなく、死体をバラバラに
桃太郎の鬼どもは、乗り込んできた桃太郎に
猿蟹合戦の猿は、柿をぶつけて蟹の父を殺した報復に、火傷や怪我を負わされ、毒薬を注射され(蜂ですが)、臼に腰骨を砕かれて死んでしまう。
つまり、
「狸に意地悪されたお婆さんのために、お爺さんと兎が狸をこらしめて注意し、狸が
……だとか、
「降参した鬼たちは桃太郎の村に行って反省し、宝物を差し出したので、村の人たちは鬼を許し、皆末永く仲良く暮らしました」
……であるとか、
「猿は非を認めて謝ったので許してやり、皆で仲良くおむすびと柿を分け合って食べました」
……なんていうのは、実はこの30年ほどの間に捏造され改変された、いい加減で生
昔話というのは、本来はゾッとするほど残酷なのだ。
この部分については、論者の例えの引き方は、むしろ逆のほうが良かったのではないか。
「恐ろしい罪の観念、報復の恐怖、ひとたび犯した過ちの許されなさ、こういったものが、寛容な現代社会に生きる私たちには希薄になっていないか。「イジメをしようがどうしようが、嘘でも
……というような論のほうが、昔話を引いてくるのには向いていると思う。
上司からの部下への要望事項として、この言葉を掲げている人の話を見聞した。一体どこの爺さんかな、と思ったが、それがうら若い女性だったので、へえ、若いのによい言葉を知っているな、と思った。
これは漢籍で、
しかし、
例の「福島原発いじめ」のニュースだが……。
ネット一般の批判は、「横浜教委はおかしい」と言っているふうに感じられる。
しかし、私はこのネット一般の批判には反対だ。
これには、多分、文字になっていない、報道されていないウラがある。それを視聴者読者が納得できる形にしてしまうと、たとえば個人情報やプライバシーの領域に触れてしまうため報道できない、とか、あるいは、被害者とされる側に何らかの事情があって、彼らをさらに追い込んでしまうことになってしまうからそれ以上の理由は発表や報道ができない、とか、何らかのさまざまな理由があるのではなかろうか。
そういう制限された情報で「公務員、学校、教師、役所、警察官等が悪い、ってことにしとけばオッケー。彼らはデフォルトで極悪人集団だから」のような感想を持つのはやめたほうがよい。「こんなことするか、フツー……?」というようなニュースには、何かしら、ウラがあるのだ。
自分自身がインサイダーであるニュースに接したことがある向きには、それがわかると思う。そういうニュースになったことがなければ、なった時にわかる。
ま、これも仮定に過ぎませんがね。だいたい当たらずとも遠からずでしょうよ。
例えば、こんな意見もある。
この記事の2ページ目に「福岡教師いじめ事件」の顛末が参考として挙げられている。痛ましいことだ。ニュースだけで盛り上がるとこうなるからいけない。古い話だが、「松本サリン」だって、ニュースで盛り上がった人々によって、罪のない人がさんざんな目に遭った。それをよく思い出すべきだ。新聞やテレビなんてものは、そのことに関する責任を何も取らないのだ。謝罪記事だって隅っこの目立たないところに「すんませんでした(ケッ」みたいな吐き捨て気味の一行二行を載せるだけだ。そこを攻撃すると、「自由な報道が委縮する」だのなんだのと言って逃げるのだ。従軍慰安婦報道の朝日だってそうだしな。「百人斬り」報道の毎日だってそうだ。
「1月14日(土)」を1月14日(
老眼だ。
もう、こりゃ、俺も老害の範疇だよなあ、これじゃ。
引き続き。
はしがきから、
「歴史家のベネディクト・アンダーソンが、『想像の共同体』(白石隆他訳)のなかでこんなことを書いている。
今世紀の大戦の異常さは、人々が類例のない規模で殺しあったということよりも、途方もない数の人々が自らの命を投げ出そうとしたことにある。
つまり、「祖国のために死ぬこと」の「祖国」が途方もない規模に広がっていることに、アンダーソンは首をかしげているのだ。」
……と始まって、なかなかハナッからとばす。
近代のナショナリズムに繋がる戦争史を支えたのは紛れもなく傭兵たちであったが、ところがこの男たちはナショナリズムとはまったく無縁の位置にいた。この男たちを追うことで近代のナショナリズムが解き明かせないか、というところから本書は書き起こされる。
世界最古の職業は言うまでもなく売春であることは知る人ぞ知るが、その次に古いのは傭兵である。傭兵は世界で二番目に古い職業であることを本書は指摘する。
ギリシャ、ローマの正規兵から、騎士団はだんだん傭兵化していく。時折挟み込まれる日本の事情も、遠く離れていながら実はヨーロッパの傭兵とそれほど変わらない。平家から始まる日本の武士たちも、ヨーロッパの傭兵団が略奪に精を出していたのと同じく、実は
ちょっとこれとは質が違うが、告発人と被告人が決闘で裁判の黒白をつける決闘裁判というのがある。イギリスではなんと、一八一九年まで合法とされていたこの決闘裁判ですら代理人を雇うことが多く見られた(『決闘裁判』山内進)。これも傭兵の一種と言っていいかもしれない。
ついに分裂割拠の14世紀イタリアが、傭兵たちの大金脈となる。当初、最強の戦士集団として各地の戦場になくてはならなかったスイス傭兵団であったが、次第にドイツの「ランツクネヒト」傭兵団にその座を譲っていく。
戦乱につぐ戦乱を経て、フランス革命、ナポレオン戦争へと時代が下るほどに、傭兵は国民軍に入れ替わっていく。
だが、そのような時代に至ってもまだなお、傭兵は消えない。アメリカの独立戦争において、アメリカ側にフランスが援軍を差し向けたことは誰しも知るところだが、イギリス側にはドイツ諸領が多くの傭兵を金で売っていたことなどが記されている。
現代のフランス外人部隊のことにわずかに触れたあたりで本書は終わる。本書は現代のナショナリズムを解き明かしているだろうか、と最後に著者は読者に問いかけている。
ツイッターのタイムラインだったか、FBのタイムラインだったか、どちらかで見たので、読んでみた。
標題通りの本ではない。むしろ、医師であり、かつITプロフェッショナルであるという異色の人物をはじめとする専門家集団による面白い健康本、と見た方が良い。内容はIT技術者をターゲットにしてはいるが、それだけに限る話ではなく、非常に中正な健康と医学、成人病等に関する本である。著者の一人の、肥満や心筋梗塞の治療に関する挿話は、実体験だけに面白い。
長女が高校に入学したとき、褒美にスマート・フォンを買い与えた。ガチガチにキャリアの純正回線で、結構高くついてきていた。
長女はこのスマホを使いに使い倒したので、傷んでボロボロになってしまった。USBのコネクタなどもう「スカスカ」で、もはやPCに接続ができないどころか充電さえする
そんな折、長女は先日19歳の誕生日を迎えた。「お父さん誕生プレゼントにスマホ新しくしてよ~」と言う。美大に通っているので、パソコンなども「Appleでないと話にならない」ほどの事らしく、学校のパソコンもほぼApple一色だそうな。
そのせいで、「iPhone買って~」と言うのだった。
うーん、高くつくなあ。
機種変更だと、どうしたってキャリアのiPhoneを買わなければならず、ずいぶん高い。
そこで、意を決し、長女の携帯電話は
……という、最近はやりの3点セットで買い替えることにした。
MVNOはマツコデラックスの宣伝でおなじみ、「OCN モバイル ONE」を選ぶ。実は既に次女のスマホはそうしており、スピードや品質、商品の継続性もいいと思うからだ。
iPhone SEを選び、Appleストアで注文した。同時に、「OCN モバイル ONE」も注文。音声回線付きで月々1600円ほどであり、今までの高額なキャリア回線が馬鹿々々しくなってしまう。
これまでのように「壊れてしまいました」というようなときに、とりあえず近所のドコモショップへ持っていけば何とかなる、というふうにはいかなくなったが、しかし、そんなの、iPhoneであればAppleストアに送るなり持ち込むなりすればどうにかなる理屈だ。
プッシュのキャリアメールが使えなくなるのはどうも不便なような気もするが、長女はLINEユーザで、特にそれで不便もないようだから、それでよし、となる。大学関係で使っているメールもGmailを主に使っており、まったく問題がない。
私も同じようにMVNOに乗り換えて安くしたいが、それをやってしまうと、職場の連絡にLINEとかFBを使うことになってしまう。さすがにそういうわけにはいきかねる。キャリアのメールでないと具合が悪いのだ。それで、私は長女と同じようにはできない。
そういう風にして昨日注文したiPhone SEだが、もう今日届くという素早さだ。誕生日プレゼントにするにはどうにも味もそっけもない段ボール箱で届いたので、何か適当な包み紙は、と探すが、ない。ふと棚を見ると、昨年仕事でアメリカへ行った時の古新聞があったから、それで包んでやる。そしたら、表面に来たのが偶然iPhoneの新製品発売を報じるApple関係の記事で、ちょうどよい。
私は俳句をよく
その旧暦、つまり「太陰太陽暦」だが、これは日本の場合は江戸時代に決められた「天保暦」という暦法で編まれており、明治時代までは公的に決められていた。その初めたるや遠く
明治時代に暦は「新暦」つまり今の「太陽暦」に移行したが、明治の終わり頃までは新暦がまだ人々にはピンと来なかったため、公文書の日付などには旧暦が併記されるならわしであった。
陰陽寮はなくなり、その後旧暦の併記もなくなったので、明治の終わりごろには公的に旧暦が決められることはなくなったが、国民生活や文化の諸所に旧暦が影響しているため、民間では今も旧暦が決められ、カレンダーに書き込まれるなどしているのは周知の事実である。
ところで、FBのウォール上で、ある人が記事を紹介していたことから知ったのだが、旧暦、特に日本の暦法である「天保暦」には標記の「2033年問題」なるものがあるという。
この問題、要は「
閏月とは、月の満ち欠けと地球の公転時間のずれを、時々同じ月を2回置くことで吸収するものだ。一昨年(平成26年)、「中秋の名月が2回ある」という話題があったのを覚えている人も多いと思うが、これは旧暦の九月が「閏月」で2回あったことによるものだ。
上記のようなニュースの中では、公的機関である国立天文台からの「あれこれいう立場ではない」との表明が紹介されている。
ところが、国立天文台のほうでは平成26年(2014)に早々と「理科年表」の中でこのことに詳しく触れて解説しており、「まったくの知らぬフリ」というでもないらしい。また、民間カレンダー関係者の任意の会同などに人を参加させ、ある程度関与はしているようだ。
ただ、国としては明治時代に制度として新暦に移行しているので、大っぴらにこの問題に関わるわけにいかない、というところだろう。
思うに、平成45年は旧十一月を閏月にするのが一番シンプルな解決ではあるまいか。1か所だけ、天保暦のルールの例外を認めるのである。