こいつマスク

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 Twitterで「こいつマスク」というのがトレンド入りしていて、なんだなんだと内容を見てみて、不覚にも笑ってしまった。

 上がその「こいつマスク」の記事らしいのだが、エエ歳こいた60歳近いおっさん二人(なぜか二人とも「アルバイト」とかいうのもなんだかアレだし)が殴り合いの喧嘩をして双方とも怪我を負い、二人とも逮捕されるという、なんですか小学生かお前らは、というような。

 しかしまあ、ある意味、尼崎らしい、という感じもする。

変なマナー作ろうとするな馬鹿

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 何か、「公的な場では布マスクではなく、不織布マスクを着けるのがマナー」みたいな、変な空気が醸成されようとしている。

 まったく馬鹿々々しい。

 左の動画で報告されている、理化学研究所で行われた研究がこの変な風潮の元になっているようだ。

 確かにこの動画では不織布の性能がよい、と指摘されているが、中身をよく見なければならない。動画内では顔にフィットしない不織布マスクの隙間から多くの飛沫が飛散していることも同時に指摘しているのだ。フィルター性能が高ければ高いほど、呼気の通行も妨げられるということもこの研究は指摘しており、それはすなわち、性能が高いとされるマスクでは、かえって呼気が逃げ場を求めてマスクの周囲から通行してしまう、ということをも示唆している。

 だから、この研究の上っ面だけをとらえて「不織布マスクが今後の正しいマナーだ」などと短絡するのは間違いなのだ。坪倉博士は上の動画内でも「経済性や置かれている状況その他を総合的に判断して選択するものであり、一般の人がどのような場合でも必ず不織布マスクを選択すべきだなどと言うことは一概には言えない」という意味のことを付言してもいる。

 したがって、新聞・テレビが「使い捨ての不織布マスクが新たなマナー」みたいなことを言い出すなど、支離滅裂である。さなきだに、昨年来、あれだけマスク不足だなんだと新聞・テレビが煽ったから社会が混乱したのではなかったか。今、ようやく一般人が布マスクなどで自衛することが定着したところなのだ。

 私などは、この悪性コロナウイルス騒ぎの前から自作の布製マスクを使用している。市販の不織布マスクが自分の顔の形に合わず、頬骨や目への無用の圧迫がある上、呼気のほとんどがマスク周囲の隙間から出入りしており、これでは意味がないと感じたからだ。目の間隔や鼻の高さ、顎の幅など、自分の顔の寸法を定規やノギスで測り、立体的に縫製し、顔にピッタリと合わせてあるので、周囲からの空気の漏れはほとんどなく、呼気は布を通る。なおかつ、着けていて変なところが痛むということもない。そのため、昨年のマスク不足騒ぎの時には全く痛痒なく、何の影響も受けなかった。

 これをしも「マナーに違背するから不織布マスクを着けてこい」などとされるのは、不愉快千万である。

(かん)()

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 昨夜思い付いたとおり、朝から庭に出て、花壇の敷砂利と防草シートを上げ、(かん)()を施した。

 躑躅(つつじ)皐月(さつき)(じん)(ちょう)()馬酔木(あせび)の紅白それぞれ、それから枯れたかに見える矮性の百日紅(さるすべり)の根元の周囲にも肥料を()き込み、乾き気味の土にたっぷりと水をやった。

 残念ながら、5株の折鶴蘭(オリヅルラン)は枯れたかに見える。根からまた生えればよいのだが、とわずかに希望を残し、抜かずそのままにする。

 不食(クワズ)(イモ)の葉がすっかり萎れてしまったのを鋏で伐る。これは放っておいても暖かくなるとまたニョキニョキ大きくなることは、多年にわたり実証済みである。

 白花のほうの馬酔木に少し元気がなく、ちょっと心配な感じがする。

 紅白それぞれの沈丁花は、はや、なかなか大きな芽をつけている。春が楽しみだ。

スウェーデンの親子の幸福を祈る

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 左は、()(ぶと)(たくま)しい腕をしたスウェーデンの鍛冶(かじ)屋のおっさんが、精妙・精密・繊細、なおかつ質実剛健な製菓道具を作って、それでお菓子をこしらえ、可愛いお嬢ちゃんと一緒にパクつくという動画である。

 それだけの動画に、なぜだか思わず涙ぐんでしまいそうな感動を覚えるのであった。

 今しも、スウェーデン王国は1千万人強の人口に対して悪性コロナウイルス感染症により1万人を超える死者を出し、国難の()(なか)にある。国民のうち1000人に1人が既に亡くなっているのだ。

 (ひるがえ)ってわが日本は、1億人を超える人口を(よう)する過密の国であるにもかかわらず、諸外国に比べればまだましなほうだ。今、日本が仮にスウェーデンと同じくらいの人口、総勢1千万人強の国であると仮定すると、同感染症による死者は500人強ということになる。2万人に1人が亡くなっている状況だから、スウェーデンも含めた欧米の状況とはかなり異なる。

 勿論、我が国内で不幸にも同感染症で亡くなった多くの方々には、衷心より悲しみとお悔やみを共にしたい。

 さはさりながら、諸外国と比べてこの相対状況であるならば、日本はむしろ余力のある国として、他国に救助のための手を差し伸べ、俄然奮迅努力しなければならない立場にあると思うのだ。ところが、残念ながら日本国内の状況は、緊急事態宣言に目の色を変え、有象無象の勢力が互いに批判と罵倒を繰り返し、自らの不幸を嘆き、恐怖に駆られて政府や行政を()()ろし、愚図愚図(ぐずぐず)するな助けろ馬鹿野郎などと絶叫するのみに終始するばかりか、日本よりよほど困難を極める状況にある欧米が血の(にじ)む思いで開発し終わったワクチンを「とっととよこせ、俺が先だ!」などと言って争奪騒ぎまで起こしかねぬばかりの情けない有様(ありさま)、さながら女装してタイタニック号の救命ボートに潜り込もうとする卑怯な東洋人の姿そのものであることには、ひたすら恥じ入るばかりである。眼前で蜘蛛の糸がプッツリ切れて再び真っ逆さまに地獄の奈落へ消えてゆく(カン)()()のような末路すら(かい)()見えるような気がして、暗澹(あんたん)鬱然(うつぜん)たる気持ちになるのは、私だけであろうか。

 科学者の活躍が待たれるところだが、学術会議の人事にあんなにも頑固で片意地な異を唱えた学者連中がここにきて沈黙しているのは、笑止千万と言わざるを得ぬ。どんな素人が見ようと、あれなど外患誘致の疑いによる騒動でしかない。科学者は皆、学際挙げてのあの馬鹿げた喜劇の如き狼狽(ろうばい)を恥じるべきだ。敵国への卑しい通謀(つうぼう)で得た大した額にもならぬ汚いカネなど直ちに捨て、さっさと世界の困難を救う薬品の研究を完成させ、中立と潔白、そして(みずか)らの学問の高さの証明となし、それを()()げてはじめて政府に噛みついてはどうか。

 だが、「お()(こう)馬鹿(ばか)」の揃った学者連中にそんなことなどできないことはこれも知れ切ったことで、残念ながら書いて詮無きことではある。呵々(かか)、力なく吐息混じりに哀笑せざるを得ぬ。

 スウェーデンの美しい親子の動画から、そんなことをあれこれと連想する冬の午後なのであった。

今週のさえずり季題

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保身と改革

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 革命の9割はいじめと同じ構造ではなかったろうか。

 すなわち、加担せねば自分の身が危ういという恐怖心が9割で、正義とか進歩などは残りの1割にも満たず、否、もっと言うならそんなものはどうだっていいのである。フランス革命のギロチンの(あぎと)は、それ自身が欲して圧政を噛み砕いたのではなく、恐怖に駆られた人々が自分と五十歩百歩の同類を押し込んだだけだと言えるだろう。無論、国王が賎民と同類とまでは言わないが……。

 とまれ、保身、それが革命だ。

 であるとするならば、改革も保身の一形態ではなかろうか。

読書

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 引き続き60年前の古書、平凡社の世界教養全集第13巻、「世界文学三十六講(クラブント)/文学とは何か(G.ミショー)/文学――その味わい方(A.ベネット)/世界文学をどう読むか(ヘルマン・ヘッセ)/詩をよむ若き人々のために(C.D.ルーイス)」を読んでいる。

 帰りの通勤電車の中で、二つ目の「文学とは何か Introduction à une science de la littérature」(G.ミショー Guy Michaud 著・斎藤正二訳)を読み終わった。

 文学についてそれが一般的な論なのかどうかは私はよく知らないのだが、本書で著者ミショーは、「文学の完成は8割は読者や批評家・評論家によってなされる」と主張しているように思う。実際、本書の物理的分量の、ざっと8割は読者が何をなすべきかという論に()かれており、作者がどのように作品を()むかについて書かれているのは残りの2割に過ぎない。そして、作者がどのように作品を生む「べき」かは、書かれていない。

気になった箇所
平凡社世界教養全集第13巻「文学とは何か」より引用。
他の<blockquote>タグ同じ。p.204より
厳密な意味では――文学とは「美しい文章」ということである

 上記は、下記の部分に(つな)がる一節のタイトルである。

p.205より

 そこで、われわれは、ごく狭い意味での文学を、定義づけて、こんなふうに、いおうと思う。

 「文学とはすべて、『美しい文章をさしていうのである。」と。

 しかし、それにしても、「美しい文章」の名に値するものとは何かということになると、その判定の仕方は、はなはだ困難である。それに、いったい、だれが、「美しい文章」としての価値のある無しを、聞かせてくれるのだろうか。……

p.221より

サルトル流にいうならば、“作品はまず存在し、出会い、世界のなかに出現するものなのだ”。

p.241より

太古のひとびとの心のなかでは、詩と文学とは、ひとつに溶け合っていた。そこにあるものといえば、ただ歌であり、ただリズムであり、ただ諧調であった。それというのも、太古のひとびとには、「自然」と「超自然」のけじめがつかなかったからである。たとえば、眼前(がんぜん)にめらめらと音を立てて燃える火がある場合にも、かれらには、それが物理現象としての燃焼であるのかそれとも、何かの(おん)(りょう)が焔をあげているのであるのか、このふたつのもののけじめは、はっきりとはつけられていなかったのである。

p.297より

われわれは、文学については、ハーモナイゼーション、そしてオーケストレーションを語ることが、正当の権利として、なしうるのである。じじつ、マラルメがいみじくも(かっ)()したように、文学は、ペンと紙とによって書かれたものであるという点からは、ページにおける一種の同時性が存在するとも、いいうるのである。

 上記の部分は、私には「果たしてそうか?」と感じられ、疑問である。著者はこの部分を含む章で文学を音楽と対比しているのだが、多数の楽器や声部が同時に演奏される音楽に比べ、文学はどうしても、鑑賞の瞬間瞬間には、シリアルに流れる一文字一文字の羅列を消化していかざるを得ず、同時に別のページや段落を著者ミショーが言うように味わうには、一度作品を読み終わった読者の記憶によるしかないから、どうしても音楽と同レベルのハーモニーを楽しむことはできないのではないか。

 この部分は、むしろミショーが、文学が音楽に対して劣る部分を羨望を含めて「ああ、もし文学がこうであったなら!」と言い立てているようにも感じられる。

p.299より

 結論的にいえば、ほんものの作品においては、すべてが切り離しがたく結びついているのである。そして、ひとつの書きかたしかないようにひとつの読みかたしかないのである。だから、われわれが、ひとつの作品を理解し、またその作品とともに生きようと思うならば、われわれは、つねに、作品のもつ多様性を、統一性に従属せしめうるように努めなければならないのである。

 正しい意味での“調和の追求”。これこそが、文学作品を読む唯一の仕方であり、究極の目的なのである。

 次は引き続き同じく第13巻より、「文学――その味わい方 Literary taste」(A.ベネット Arnold Bennett 著・藤本良造訳)である。

(みぞれ)(ぼう)

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 昨夕の退勤路では(みぞれ)が降った。まだまだ冬はこれから、というのが正直なところだが、気づけば来週ははや立春である。

 通勤経路上にある道路の植栽に紅白の沈丁花があるが、その芽が既に大きく膨らみ、赤や白に色づいている。去年の秋に植えた我が家の庭の沈丁花も、よく見ると芽が膨らんでいる。

 新越谷駅駅ナカの「VARIE」に出店している「澤光青果」の店先には、早いうちから菜の花が並び、昨日(きのう)一昨日(おととい)にはもう(たけのこ)の若いのが出た。

 疲れて帰宅する間の霙にすら、そんな(はる)(どなり)の感が深い。

 今日の退勤路は昨日とは打って変わった澄んだ冬夜で、東から大きな大きな月が昇ってきた。今日の暦は旧暦十二月十七日、月は十七夜なのであるが、天文学上の(ぼう)は今日の早朝、午前4時16分で、したがって望は今日と言うことになるようだ。

 月を眺めながら、明日は庭に植えた草花にそろそろ「(かん)()」を施してやろうかな、と思う。

知らないしウドンで

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 面白くなく、屈託したので、Googleに「知るかアホ」と入力してみた。

 そうしたら、「知るかバカうどん」という漫画家が出てきた。

 何が何だかサッパリわからないが、ものすごくグロナンセンスなエロ漫画家らしい。

 大阪出身の女性、とある。

 左掲のように公刊もされているようだ。覚えておいて機会があったら読んで見よう。……と言っても、国会図書館で読むことになると思うが……。

 天晴(アッパレ)という他ない、素晴らしいペンネームだと思う。