あれはたしか、定年で自衛隊を辞める1年くらい前、最終ポストの、情報セキュリティや守秘の責任室長(情報保証・保全室長)をしていた頃のことだったか。新コロの猖獗っぷりたるや、もはや最大火力と言ってよいほどの猛威を極めていたが、紙の秘密文書を司らなければならない仕事の特性上、テレワークへのシフトが難しく、私はガラ空きになってしまった通勤電車で毎朝毎晩、自宅から市ヶ谷まで通勤していた。
その日、私は早めに仕事を切り上げ帰りの電車の中の人となった。都心から北千住に向かう日比谷線は三ノ輪と南千住の間で地上に出る。次第次第に陽永となる心地よさ、暮れ泥んでいる黄色い光の中を電車はのんびりと走っていく。新コロ前のような超満員ではなく、身動きはできるし車内も見通しがきくが、だが乗客同士多少袖も摺り合おうかという、まずそこそこの混み具合と言えた。
ふと、なにか強い感じの声が向こうの方でした。私が吊革につかまって立っているところから、乗降ドアのスペースを挟んで5〜6メートル許り離れた辺りの客と思しい。だが、それきり声がしないので、何と言ったのか、誰が言ったのかも、すぐにハッキリとは分からなかった。
しばらくしてまた、声。車内の何人かがそっちを向く。でも、またしんと静まるので、今起こっている事態がなんなのか、判然としない。しかし、またしばらく様子を伺っているうち、ある乗客がくしゃみをする度に、別の乗客が何かを言っているということが判った。
男A 「クシャン!」
男B 「はIe9jah✕◯!!」
数十秒おいて、また、
男A 「クシャン!」
男B 「はIe9まah✕◯!!」
男Bの「はIe9まah✕◯!!」という謎の言は、繰り返す度に声が高く、かつ、はっきりしていくようだ。
更に二、三度目か。今度はハッキリ聞こえた。
男A 「クシャン!」
男B 「はなますくっ!!」
……男Bは「鼻マスク」と言っているのだった。もはや当事者二人も隠すふうでもなさそうだったので、私はしげしげとそちらの方を凝視した。車内のほかの客も、こっそりとそちらに注意を向けている。
くしゃみをしている男Aは、口元だけにマスクを掛けており、鼻が大きく露出していた。鼻の具合が悪いらしく、くしゃみを繰り返していたのだ。それを近くにいたアカの他人らしい男Bが「鼻マスク!!」と注意し続けていたのだった。
その二人は当時56歳だった私より、私の目には一つか二つぐらい歳下に見えた。
私は「馬鹿なおっさん達だなあ」と思った。
まず、日に焼けた顔色の、白髪ザビエルみたいな禿がシュールさを強めている鼻丸出しのおっさんからだ。新コロ以前と以後で、マスクのかけ方、くしゃみの仕方はまるっきり変わったということについていけていない。私に言わせれば、所詮不織布程度のもので杜撰に口鼻の周りを被せているに過ぎないマスクの、衛生学上よりする真の科学的効果など、そんなもの、あろうがなかろうがどうだっていい。「世の中の多くの人たちが受け入れ、それを守ることで少しでも事態をなんとかしようと努力している」という、そういう「たとえ無力であろうとみんなでなんとかしよう」としているということに対する社会的な感度、つまりアンテナが「鈍感」であるということが、みっともなく、愚鈍で馬鹿だと感じられるのだ。
次に、「日焼け白髪ザビエル禿くしゃみ」のおっさんに変な注意をしている、こっちのほうは色白の、一見物固そうに眼鏡をかけた「正義の人」みたいなおっさんも、また、馬鹿だ。間違っていると自分が信じていることを他人に勇気を出して注意しているという、そのことそのものは立派と言えなくもない。しかし、それは、相手が受け入れてこそ初めて意味をなすのだ。それをこの野郎は、「鼻マスクッ!!」などと、何度も短く吐きつけるだけというような、そんなやり方で見ず知らずの人に注意したって、受け入れられるはずがない。理解されるということをはなから放棄しているような奴が正義を振りかざしたって、そんなものは正義どころか注意ですらない。言うなら、そればかりか自慰の域にも達しない、空虚で幼稚な喃語の類だ。そんなこと、するだけ無駄である。
さておき、また一際エスカレーションの趣が加わって、「クシャン」「はッ、なッ!!マァ、スゥ、クゥッ!!!」と聞こえた。
やにわに、「くしゃみザビエル禿」こと男A、
「うるッせえんだよテメエ!さっきから聞いてりゃ、鼻マスク鼻マスク鼻マスク鼻マスク、耳元で大きい声出しやがって!!何様だバカヤローッ!」
とブチ切れて怒鳴ったものである。
クックック、こりゃ面白くなってきた。車内の他の乗客達も固唾を飲んでこの馬鹿二人の掛け合いの成り行きを見守っている。まあ、暴力沙汰にでも発展すれば私も割って入って二人を分けるより他にないが、私は警察官のようなその道の専門家ではないから、二人に怪我をさせず手加減しいしい上手に取り押さえるなどといった芸当は難しい。成り行き次第によっては、二人になにがしかの怪我を負わせて取り押さえることしか私にはできないから、警察が来て捕まった時に一番損をするのは私ということになってしまう。だがまあ、しかし、そうなればそうなったで仕方のないことだ。定年前で、免職だの停職だのは喰らいたくなかったが、運がなかったと諦念のうちに黙ればよかろうとも思った。まあ、せいぜい裸絞めで気絶させるくらいのことしかできまいけれども、そういう場合に処するための臍を決めて成り行きを面白がることにした。
無論そんな私のくだらない覚悟やら腹づもりなど知る由もないおっさん二人は、まるでヤンキーになり損なった弱小の中学生男子グループか何かのように、燃えるような、だがしかし同時に鯖の腐ったようなしょうもない目つきで顔を振り振り、額を突き出して相手を睨み据えながらジリジリと体を近づけ、ほとんど鼻先がくっつかんばかりになった。
くしゃみザビエル禿 「デケェ声で耳元でホザくんじやねえよコッチはハッキリ聞こえてんだよ馬鹿野郎!!」
そうしたら、得たりや応とばかりに男Bこと正義の低能サラリーマン、
「だったら小さい声で言ったら言うこと聞くんかィ、アァ?!」
と言って捨てたものだが、その言い方がこれまでに見たことも聞いたこともないものだった。
すなわち、正義の低能サラリーマン、「囁き声」でこれを吐き捨てたのだ。
ところが、その囁き声、普通の怒鳴り声なんかよりも車内に大きく響き渡るほどの音量を持っていたのだから世の中は広い。
ええええ、囁き声って、こんなに大きい音が出せるもんなのかッ……!
言うなれば、往年の玉置浩二が味を出して歌うときのあの声から、コヒーレントな周波数成分だけを消して、帯域幅の広いノイズ成分だけにした、そういう声である。短く言うと「玉置浩二のコヒーレント成分フリー」だ。
それをまた、二人のおっさんは声量と勢いをエスカレーションさせつつ、ご丁寧に二、三度も繰り返して周囲に娯楽を提供して見せた。もう、車内の誰もが吹き出しそうになっている。「飲食は基本ご遠慮ください」の通勤電車でよかった。これが飲食店だったら吹き出したコーヒーや牛乳やコーラ、ビールや空揚げなどで店が汚れて損害賠償だ。
ザビ禿 「ウルセェんだよ聞こえてんだよ!!」
正義低能 (ますます『これは囁き声だからデカい声は出してないゾ!』とでも言いたげな声質をことさら誇張しつつ、かつ、めっちゃ大声で)「だ、か、ら、小さい声で、言ったら、(息継ぎ)聞き入れるんかっつってんだよ!!」
おっさん二人は額をくっつけんばかりにして顔を交互に傾けつつ、アアとかコラとか言って睨み合っている。相手を威嚇しているようでいて、しかし近すぎて相手の目などお互い見えているはずもなく、そんな睨み合いにはなんの効果もないということすら、今の二人には意識の外だ。もはやおっさん二人は二人だけの世界にいて、外界から隔絶されていた。おっさんのカプセル化。こんなところでくしゃみと鼻マスクアーキテクチャによるリアルなオブジェクト指向を学習できるとは。パブリックなメンバやアクセッサなど、このクラスには皆無なのだ。
クシャミで鼻水の飛沫をまき散らすザビエル禿も勿論迷惑で可笑しいが、さりとて、正義の人を自任しているらしい低能サラリーマンも、自分が車内中に大迷惑をかけていることなど大幅に通り越して、いまや巧まずして空前の大娯楽を黄昏の通勤電車内に大盤振る舞いしてしまっていることなどまったく意識していないのだから、これも尚のこと可笑しい。
さて、コイツらどこまで私を楽しませてくれるかね、と北叟笑んでいたら、電車が北千住に着いてしまった。三ノ輪から北千住までのごく短い区間のことであるから仕方がない。
この便は北千住が終点で、他の客と一緒におっさん二人も降りざるを得なかったが、この二人の降り方ときたら、これがまた見ものであった。チンピラが映画でやるように、ポケットに両手を突っ込み、顔を突き出し額をくっつけるようにして顔を交互に左右に傾け、「アァ、コラ」「なんだとやんのかコイツ」などと悪態をつきながら、しかし、その動作を続けたまま、さながら曲芸の如く器用に電車を降りていったのだ。周りも見ずに変な睨み合いを続けたまま、電車とホームの間に脚を突っ込んで転ぶようなこともなく、それでよく電車を降りられるものだと、その高度な体技に感心した。だが反面、そんな調子だから、他の客に尻なんかがぶつかってしまう。すると、二人とも、その瞬間だけ素の小声で、尻をぶつけてしまった人に「あ、すんません」「おっとごめんなさい」と、そっちのほうを向いて小さく頭を下げて謝り、それからまた変なニラミ顔を作って相手のほうに向きなおるのである。
一見、二人っきりのカプセルに見えたおっさんオブジェクトのアクセッサ、パブリックなメンバ関数は、尻にあったかああああ!
二人は私の乗る東武線とは違う方向の、千代田線に向かう階段を降りていった。よく躓きもせず階段を降りていけるものだ。互いに何か悪態をつきながら肩をぶつけ合って「何だコラ」「クソが」「馬鹿が」と小競り合いしながら階段を降りていくのだが、取っ組み合いの殺し合いにまでは発展するでもないその姿が、いつぞやテレビで見た、ケニアあたりの草原にでもいる、なんだったか、ガゼルだかインパラだとかいう草食獣の雄が発情して雌を取り合うときの、角突き合わせての小競り合いの様子をどこか彷彿とさせ、折しも暮れ泥む駅の外から窓に差し込む夕陽が、さながらアフリカの落日をも視床下部に現出させるようで、思い掛けずキュンと音が鳴るようなエキゾチックな感傷が胸に迫るのであった。
北千住駅・中階で思い掛けず楽しむ夕暮れのアフリカ。さながら、劇団四季のライオンキングが小菅の死刑執行場の方角に向かってレクイエムの咆哮を捧げているようではないか。
私はその光景を誰かに話したくてたまらず、ウズウズしていたのだが、その後3日ほど忙しく、誰にも話せなかった。
3日後、ようやく洒落のわかる同僚のKさんと雑談をする寸暇があったので、一部始終を聞いてもらった。勿論、Kさん、クックックと含み笑いを堪えつつ、大げさに腹をよじるジェスチャーをして話を楽しんでくれた。
私が「ねえ、大の大人が、こんなみっともなくいがみ合わなくてもいいですよねえ、まったく」と言うと、Kさん、
「いや、佐藤さん、むしろその二人、むっちゃ仲いいですよ。私の見るところ、もう、ホモか何かってくらい、大の仲良しだと断言できます。多分、親友になるんじゃないですかね、その後いろいろ経た後に」
……と喝破してのけたものであった。尊敬おく能わざるKさんスゲェ。
その後、会社員になった私は相変わらず電車で長距離通勤を続けているが、北千住でケニアの夕暮れを垣間見ることは、絶えて久しく、ない。
あのアフリカの夕日は、至芸というか、名人芸によってのみ見せることができる、なんというか、噺家が蕎麦やうどんを食べるシーンを扇子一丁で演じてのけるのにも等しい完成作と言っても過言ではなかった。
当時、ザビ禿の見事な「コヒーレントフリー・ヴォイス」や、北千住駅に垣間見えたアフリカの夕日、のちに親友となって魔王城に攻め入り世界の平和をもたらすであろうホモ親友のザビ禿・正義低能について、すぐさま書き留めてネットに放流したかったのだが、もし思わぬところでザビ禿・正義低能がそれを見たら、文章の鮮度がナマすぎて毒が落ち着かず、私を特定して怒鳴り込んでこないとも限らないから書かなかった。あれから大分経ち、記憶の生地の熟成が進み、落ち着いたと感じたので、今日になってようやく書き留めた。