知性と朝日

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 私がかつて熱心な朝日新聞の読者であったなどというと、ごく最近の私を知る人は、「嘘は泥棒の始まりですよ佐藤さん」と真顔で私を(さと)そうとするのだから参ってしまう。

 だが本当だ。

 どころか、一時期は仕事上の都合もあって、朝日・読売・毎日・産経・日経はもとより、数紙の地方紙まですべての記事に目を通さねばならなかった。朝の忙しい時間にこれだけをこなすのは、苦行に近いものがあった。その頃を思い出すとホロ苦いものが去来する。

 今は、新聞はとっていないし、テレビもほとんど見ない。我ながら極端だ。

 一般認識として、「新聞は読めば読むほど賢い人だ」みたいな空気が日本にあることは否めない。「知性と報道は表裏一体、ともにある」というわけだ。

 そのことを言い立てて、元来新聞をよく読んでいた私がもともと知性のある人間だ、などと主張したいわけでは、もちろんない。むしろ私は知性など糞食らえだと思っているような変な男である。

 どうしてそんなふうに思っているかというと、日本人にとって情報の流入源が単一に近かったことはまことに悲しむべきことであった、と常々考えているからだ。知性と情報の流入が比例するのだとしたら、私が「糞食らえ」なぞと書くのも、無理のないことではないか。

 なぜか。

 朝日新聞が「立派な人は兵隊になる」と書くと、そうだそうだと皆兵隊になった。

 朝日新聞が「立派な人は大陸に攻め込み、武勇の手柄を立てるのだ」と書くと、そうだそうだと皆大陸に攻め込んだ。

 朝日新聞が「天皇陛下万歳」と叫べば、皆で天皇陛下万歳と叫んだ。

 朝日新聞が「マッカーサー様ありがとう」と落涙切々とものすれば、立ち去るマッカーサーに皆で手を振り涙を流した。

 朝日新聞が「立派な人は共産主義を学ぶ」と書くと、そうだそうだと皆共産主義者になった。

 朝日新聞が「立派な人は従軍慰安婦問題を生んだ自らを()じるべきだ」と書くと、そうだそうだと皆反省した。

 朝日新聞が「すんません従軍慰安婦全部ウソです」と書けば、皆そうだそうだ、あれ全部ウソだ!…である。

 これが流入する情報と知性の姿だ。

 こうした姿、態度を間違っているとまでは言うまい。皆が読んでいる同じ文字、同じ記事を同じように読み、そこに書かれていることを広めるように言うことが正しいと、私たちは育てられているのである。今も形を変え、「ツイッターやSNSで皆が韓国なんか嫌いだと言っているから私も嫌い」と、皆が言うことにそうだそうだと口を揃え、誰も何の疑問も持っているまい。

 単に実用上や他人との付き合いということもある。自分の考えがどうとかいうより、家族を食わせるためには己を虚しゅうしてお客さんや出先の論調に合わせなければならないという都合ももちろんあるだろうし、自分がどう思っていようと社員を食わせなければならない、そのためには正しい正しくないではなしに、世の中の潮流に敏感に社の方針をあわせていかなければならない、という経営者のとるべきドライな姿勢もあるだろう。それは生活者として正しい姿勢だ。

 たとえば私が今ここに、「英語でビジネスをすることは間違っている」などと書くと、どうしてそう思うのか、なぜそう考えるのかといった理屈などすっ飛ばして、直ちに、そして反射的に、私はキチガイ扱いされるだろう。「グローバルに日本人が飛躍しなければならないこの時代に、何を言ってるんだ馬鹿め」というわけだ。しかし、グローバル云々というその考えは、本当に自分で考えたことだろうか。

 ひょっとして、朝日新聞に「英語を身につけ、外国人と仕事をすることが正しいことだ」と書いてあったからと違いますか?

 私は知能が低いので語学は身につかず英語は喋れない。にもかかわらず、私自身の考えは前記したこととはほぼ逆である。すなわち「英語を身につけ、外国人と仕事をしていくことも重要なことだ」というのが私の考えである。だが、朝日新聞に書いてあったからそう思っているのではない。

 顧みれば、日本人は世界にもまれな識字率を誇っていた。それは入念に整備された教育制度のしからしむるところである。明治以降だけを見ても、

日本 参考・英国
明治5年(1872) 学制発足 小学校就学率28% 40%
明治33年(1900) 小学校就学率81% 81%
明治43年(1910) 小学校就学率100%、中等教育進学率12% 100%、4%

とあり、明治末年の中等教育では、当時教育先進国であると考えられていたイギリスをさえ抜き去っている。日本では文字で意識を揃えることの困難が早期にとりはらわれていたということだ。ヨーロッパより100年も後にはじめた工業化が目覚しいスピードで進捗したことは、あずかってこれが大きな要因となったことは言うまでもない。

 当のイギリスでは、日本よりもまだなお封建的であった身分制度、つまり貴族エリート、中間、底辺という3層型のヒエラルキーが教育にまで影を落とし、なかなか中等教育が普及しなかった。これはアメリカの事情も同じである。

 昔から文字による情報取得に困難のない人びと、それが日本人であった。

 だが、痛々しいのはそこから先である。少ない情報源から情報を流入させることが識字率の高さにより可能になってしまったのだ。

 もし文盲が多ければ、そうはならなかったろう。マルチメディアを指向しなければならなかったはずだ。すなわち、音にも映像にもたよらなければ、人々に情報を流入させることができず、それには技術の進歩と普及を待たねばならなかった。そう、アメリカのように……。

 印刷物配布による情報普及は、一方通行だ。フォアグラのガチョウが餌を飲み込むように情報を飲み込まされる。ガチョウの存在意義はうまいレバーを肥らせることにあるのと同様、誰かが書いた記事をそのまま飲み込んで自分の脳を他人と同じ色に染め上げるのが知性の意義の一面だ。

 世界一の発行部数を誇る朝日が書けば、まず過半数の日本人は書いてあることを飲み込む。

 もしここに、「特定の主義や主張に日本人を誘導しよう」という勢力があったとすれば、ほかの国とは違って、いろんなところをイジる必要はないから楽なものだ。日本人は賢いから、文字に書けばみんな読む。そして、みんなが読んでいるのはかの大朝日だ。朝日さえいじっておけば、それで日本人に対する工作は終わりだ。そういう時代が何十年と続いた。悲劇である。

 ネットの陰謀論者はそれは中国でしょうロシアでしょういや半島でしょうと言いたがるが、私などは終戦直後のGHQから引き続いてアメリカだろう、と踏んでいる。実際はいろんな国が複雑に関与していて、特定のどこの国の諜者がどうとかいう妄想スパイ小説みたいな単純な話ではないのだろう、とも思っている。

 知性と朝日の短絡が、日本の無意識をねじ枉げる、ということだ。

 だが、ここで、あえてくだくだしく述べよう。私は直ちにそれが排除されるべきだとは思っていない。別に、朝日と知性が短絡してたっていい。新聞をよく読んで考え込むということだって、あっていい。ネットに入り浸って考え込むことがあっていいのと同様に、それは許される。

 私は一度くらい朝日はつぶれたほうがいいのではないかと思っているが、反面、朝日が永久に排除されるべきだなどとも思っていない。一度つぶれて官僚的な社内の諸問題をきれいに片付け、エリート高学歴至上主義の鼻持ちならない空気を一掃したら、また新たにやるといいと思っている。しかも、以前よりもまして、もっとキチガイに、狂信的に、サヨクでエテ公でぶっ飛んでいて、ロックで知性ゼロのヨダレでのたくったような記事が垂れ流されたフザけた朝日になるといいとすら思っている。

 そうでないと、日本のマスコミが日本らしくなくなって、面白くないではないか。キチガイ新聞万歳だ!

 もう20年も朝日なんか読んでいない私が言うことでもないか。

ITと原爆

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 あるIT業界の人と話していて、ふとした話の流れで、私が「アメリカ人はこんな時にスプートニク・ショックを起こして、半ばパニックになったのにねえ」と言ったことがある。

 そうしたら、その人は「えっ、スプートニク・ショック、て、何ですか?」と言うのであった。

 私は驚くと同時に、業界の人にしてこれを知らぬとは、なるほど、そういう時代か、とも思った。私より若い人だったのをいいことに、「話してあげますから、ぜひ覚えてお帰りになるといいですよ、あなたも多少なりともインターネットにつながって口過ぎにしている方なのですから」と、小一時間ほども費やして一席をぶった。

 インターネットは黒船来寇からできている、と言ったら、「それは言いすぎだって」と皆笑うだろう。だが、私は真面目だ。「来航」と書かずに「来寇」と書くのも、私には気持ちがあってのことだ。

 インターネットはスプートニク・ショックを原因にして成り立ったのである。

 ニューヨークでもワシントンでも、アメリカの国土の好きな場所に、そして好きなときに、自分たちは安全なまま、「ツァーリ・ボム」、すなわち史上最強最悪の威力を持った水爆を叩き込む能力があるということを、ソ連は地球を周回する人類史上初の人工衛星スプートニクとその発信する電波信号によって証明した。

 アメリカ人はパニックに陥った。

 ただ、これだけのことならパニックにはならない。アメリカ人には拭い難い罪の意識があった。

 自分たちが戦争終結のための真摯な努力であり輝かしい人類の叡智であると強弁してやまぬ広島・長崎の惨劇と虐殺が、今度は自分たちの頭上に鉄槌のごとく振り下ろされるのだということを想像したから、パニックに陥ったのである。「今度は俺達の番だ…」というわけだ。

 スプートニク・ショックを原因としてアメリカ人が作り上げた、核戦争に備えるための疎結合ネットワークこそ、インターネットの前身のARPA Netであることは今更くだくだしくは書くまい。

 広島・長崎の惨劇はなぜ引き起こされたか。「天皇制と日本軍部の暴走のためだ」なぞいう屈折した論理は、私以外の日本人がほぼ全員言っているので、私がここであらためてわざわざ言うことはなかろう。だが、その馬鹿げた論理も、そのような教育によって注入され、思い込まされたものなのであるから、これを罪あるものということはできない。

 日本にとっての戦争の世紀の幕開けは、黒船来寇であった。黒船は開国というよりも明治の建軍につながり、それは日清・日露の役につながり、更に大陸経営、満州国、対ソ、と途切れることなくつながっていく。そして大東亜戦争につながり、広島に、長崎につながる。

 インターネットでビッグデータでウェブでクラウドでウハウハのバリバリだー、と言っているIT業界の人は、その活躍する環境、メシのたねの背景が、広島と長崎の、無辜の市民の惨劇に直接つながるのだということをよく心得ておいたほうがいい。

 こう書いてくると、「長崎型原子爆弾 “Fat Man”」、すなわちプルトニウム爆縮型原爆の最も重要な技術である、いわゆる「爆縮レンズ」を、その類稀なる数学的センスによって考案したのが、かのフォン・ノイマン、つまり我々が日々その恩恵に浴している「ノイマン型コンピュータ」の提唱者であるということも、なにやら因縁めいていよう。そして、親日であるとされていたかのアインシュタイン博士が、原爆開発へのゴーサインを後押し進言したことも、決して忘れてはなるまい。アインシュタインの相対性理論が、地球を周回するGPS衛星の時間をずらしていることを説明づけ、それによってカーナビの精度を上げると同時に無人機攻撃の精度を上げて人を殺している、と書くと、多少とがり過ぎているだろうか。

ドブネズミ

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 青雲の志に燃える若い人の純真に水を差したいわけではないが、だが言わずにはおれない。

 戦争や軍事や軍隊や軍服や銃や戦闘機や軍艦が、美しくかっこいいものだなんて思うのは、馬鹿のすることだ。

 どれもこれも、しんどく、悲しく、重く、深刻で、複雑で、汚れ、厳しく、ややこしく、嫌になるようなものばかりである。

 最近、防衛問題に関心を持つ若い人が増えているのは結構なことだが、どうも、単純に考えすぎているのではないだろうか。

 テレビに映る美しさ、新聞に書かれるかっこよさなんてものは、大げさに言えば全部嘘である。人間とは悲しいもので、嘘は美しくかっこいいから、金を払って買ってしまうのだ。だがそれを間違っているとは言うまい。逆に考えると、真実の残酷さ、リアルな汚さ、そんなものに金を払うのは酔狂には違いない。スカトロ狂が普通人の目にどのように映るかを考えれば、人々が嘘に金を払うのはやむを得ないことだと解る。

 そんなわけで、メディアには真実は載らない。

 そういったことをわきまえたうえで、「ドブネズミのように美しくなりたい」のなら、止めはしない、己の信ずるところに従うがいい。しかし、実相を知ってから「騙された」だの「やりかたが間違っている」だのとゴタクをほざくのは、馬鹿より更に愚者のすることであると知るべきである。