そうか、もうそんなに経つのか。
私は、その日は出動して救助に当たった。それが私の仕事である。当時は神戸にほど近いある町に住んでいたのだ。
被災地神戸には、そのまま100日あまりとどまり、救助活動を行なった。己の及ぶところを尽くして職責に没入した。あまりにも濃密だったそれらの日々を、ブログにすべて書くことは無理である。
某新聞に何日間か私の話が連載されたこともあったし、また、沢山の機会に自分が知ったこと、教訓、見聞を人々に伝えた。しかし、最近はそれも絶えた。
当時20歳代だった私も今や30歳代、それどころかもう40歳に手も届こうかという年齢だ。
記憶は薄れつつもある。しかし、被災地神戸の方々、家族や友人を亡くした方々には、今もまだ事態は進行中で、私ごときがその記憶を云々することは、あつかましくもあろう。
光陰あって、今私は埼玉に住まいしている。折々、家具や重量物をネジ止めもせず、日々を浮かれ不注意に暮らしゆく自分を見出す。
どうか、どうか安らかにあれ、6000有余の魂。お父さんやお母さんと死に別れた子供たちが、その後、どうか、健やかであったように、また、今後も健やかであるように。
ブログ人・日本応援地図のお題・「阪神大震災から10年・・・あの日あなたは何をしていましたか?」
月: 2005年1月
収納を作ってみる
地震にはやっぱり強いほうが良い
ツーバイフォー・中越地震
・・・やはり、地震に強いのが良い。日本は地震国だ。
ぼちぼち
庭のイチゴに「敷き藁」しなくっちゃあ。
水やりは、この嵐でしばらくしなくてもいいだろう。
死んでくれないだろうか、王とかいう中国の大使
まったく不愉快きわまる。
日本の外務省の官僚より下劣だ。
家の色
私の家の色は黄色である。黄色が好きなのだ。
私の黄色好きは、しかし、作られたものでもある。どこまでが芯からの黄色好きで、どこまでが作られた黄色好きか、自分では良くわからない。
私は3人兄弟で育った。姉、兄がいた。親が私たち子供のために何か買ってくるとする。なんでも良い、まあたとえば歯ブラシとでもしておこう。子供向けのものの色なんて、それが安いものであればなおさら、大抵決まっている。3つ買えば、まずは赤と青の二つ、そして残りが黄色か緑のどちらか。黄色が多かったと思う。まず赤は姉が取る。これは問題なし。次の青だが、これは年子の兄弟であった兄と喧嘩して取り合いになる。大抵は年長の兄が勝ち、青は取られてしまう。残りは黄色になる。だんだん大きくなってくると、この残り物の黄色がいかにも幼児用のようで、子供っぽく感じられ、イヤになった。他の色が欲しいのだが、そんなことを口に出すと、親などからも「アンタは一番年下なんやろ?黄色にしとき!」とかなんとか決め付けられてしまい、黄色になる。
そういう日々が長く続くと、今度は色なんてどうでも良くなってくる。自分が欲しい色、好きな色もなんだかわからなくなり、たまに好きなものを選べと言われてもどうでもよく、残ったものや安いもの、仮に他の色があっても、他の人と競合しそうなものを避け、人気のなさそうな変な色のものを自分で選ぶようになってしまうのである。
ある日、使っていた筆入れが破れた。たんすの引き出しに新品の真っ赤な筆入れがあったので、なにという意識もなくそれを使っていたら、今度は親に激しく怒られた。「なによ!!アテコスリみたいに!」というのである。「アンタみたいなヒョロが机の上にチョロリとこんな小娘が使うみたいな赤い筆入れ乗せてると思ったら、お母さんナサケナイわ!!」こうなってくると、もう、ワケがわからない。
私は十代の頃から今まで、ずっとユニフォームを着る仕事をしているので、好きな色の服だの好きな色のネクタイだの、好きな色の靴下だのとはまったく縁がない。
ある時、作成したコンピュータソフトのアイコンを自分で作っていて、自然それが黄色い稲妻に濃い橙色のシャドーをあしらったものになった。何を考えていたわけでもない。稲妻の形がイメージとしてまずあり、その形のイメージに合った色を選んだらそれが黄色であったと言うだけのことである。そばでそれを見ていた人に「キッツイ色かたちですねぇ。・・・色ってのは、けっこう性格なんかを現すって言いますよ」と言われた。そのことをきっかけに、「好きなように色を選べ」と言われると、なんとなく黄色を選ぶようになった。だがしかし、大人なので、さすがに服の色や靴の色は黄色と言うわけに行かない。黒や濃紺を選んでいる。
家の色は、まったく迷いもなく黄色にした。明るくて好きだ。周りの家々とのバランスを考えるということも世間ではよく言われているようだが、そんなことまったく考えもしなかった。
色のことをいろいろ書いておられる方のサイト
○ 好きな色・イメージカラー
○ 黄色が好きな人のこと
こうした説明を読むと、いちいち納得できると同時に、なんだか、「こういうふうに自分を作ろう」としていたような意識をギクリギクリと言い当てられているようで、そんな演技派な自分の浅ましさそのものを指摘されているようなふうにも感じられ、いちいち長いこと考え込まされてしまう。