人と神

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 キリスト教では人はどこまでも人であって、神にぬかづきかしずく弱い存在でしかないが、仏教の菩薩とは、仏たらんとして努力精進中の「人」のことであって、人が仏たらんとすることは仏教ではなんら不自然なことではなく、かつ可能なことである。

「武器輸出三原則」と「武器輸出三原則等」

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防衛破綻―「ガラパゴス化」する自衛隊装備 (中公新書ラクレ) 防衛破綻―「ガラパゴス化」する自衛隊装備 (中公新書ラクレ)
価格:¥ 798(税込)
発売日:2010-01-10

 以下、上記書籍198ページ~200ページまでを引用


「武器輸出三原則」と「武器輸出三原則等」

 一方で兵器の輸出にはメリットがあることも事実である。

 輸出によって市場経済にさらされれば、製品の質は向上する。特に実戦で兵器が使用されればフィードバックがあるので、技術面の向上には大変有用だ。これは否定できない事実である。

 わが国では新聞やテレビなどのマスメディア、政治家でも誤解していることが多いが、「武器輸出三原則」は、武器、即ち兵器の輸出を禁じてはいない。「武器輸出三原則」とは、次の三つの場合には武器輸出を認めないという政策をいう。

(1) 共産圏諸国向けの場合

(2) 国連決議により武器等の輸出が禁止されている国向けの場合

(3) 国際紛争の当事国またはそのおそれのある国向けの場合

 これは佐藤栄作総理大臣(当時)が一九六七年四月二十一日の衆議院決算委員会で答弁したものである。これに該当しない国々には原則輸出が可能なのである。

 一九七六年二月二十七日、三木武夫総理大臣(当時)が衆議院予算委員会における答弁で、「武器輸出に関する政府統一見解」を表明した。これは、「『武器』の輸出については、平和国家としての我が国の立場からそれによって国際紛争等を助長することを回避するため、政府としては、従来から慎重に対処しており、今後とも、次の方針により処理するものとし、その輸出を促進することはしない」というものだ。そして、

(1) 三原則対象地域については「武器」の輸出を認めない。

(2) 三原則対象地域以外の地域については、憲法および外国為替および外国貿易管理法の精神にのっとり、「武器」輸出を慎むものとする。

(3) 武器製造関連設備の輸出については、「武器」に準じて取り扱うものとする。

 としている。わが国の武器輸出政策として引用する場合、通常、「武器輸出三原則」(佐藤首相の答弁)と「武器輸出に関する政府統一見解」(三木首相の答弁)を総称して「武器輸出三原則等」と呼ばれる。

 つまり武器の禁輸は「武器輸出三原則」ではなく、「武器輸出三原則等」によって規定されているのである。「等」がつくかつかないかで、大きな違いがある。ただ、これも「三原則対象地域以外の地域について『武器』の輸出を慎むものとする」としているので、まったく禁止しているわけではないとの解釈もできる。

「パッヘルベルのカノン」、連弾ならどうか

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 「パッヘルベルのカノン」の稽古がなかなかはかどらない私である。ぽつぽつと弾いては、どうも気が進まない日も多く、遅々としている。

 他方、3年前から今の季節は、新しい曲に手を付けかけたところへ、次女との連弾のお勧めが次女のピアノの先生からある。手を付けかけた曲をとりあえずペンディングして次女との連弾に取り組み、春に発表会が終わると再び元の曲に帰る、という慣例になってきている。

 今年は、強いて先生から連弾のお勧めはないが、春の発表会のお知らせがあった。今年もお父様お母様との連弾の部を設けますよ、とお知らせにはある。これまで2年続けて次女と連弾しているから、向こうから言われたわけではないが「智香ちゃんのお父様、今年も弾かれますよね」という先生の声が聞こえるような気すらする。

 いつもいつも先生が楽譜を貸してくださるのを待っていてはどうも申し訳ないような気もする。それで、今日は向こうから言われる前にと思って、越谷レイクタウンの島村楽器へ楽譜の物色に行ってきた。

 かねて次女は、「ゆっくりした綺麗な曲よりも、楽しくて明るくて、それで『カンタンなのにちょっと上手いように聞こえる曲』がいい」などとムシのいいことを言っていたから、それも考えつつ楽譜を選ぶことにした。

 初級レベルの連弾用楽譜にもいろいろなものがある。去年弾いた「王様の行進」の載っている本には、ショパンの「別れの曲」などもあるから捨てがたい。一応買っておく。

 更に物色していると、「 クラシックアラカルト2 カノンからボレロまで たのしいおまけ伴奏つき」という楽譜集がある。

譜めくりのいらないやさしいピアノれんだん クラシックアラカルト2 カノンからボレロまで たのしいおまけ伴奏つき 譜めくりのいらないやさしいピアノれんだん クラシックアラカルト2 カノンからボレロまで たのしいおまけ伴奏つき
価格:¥ 1,575(税込)
発売日:1998-12-10

 この楽譜集の冒頭に、子供との連弾用にやさしいめに編曲した「パッヘルベルのカノン」があるではないか。

 「別れの曲」も悪くはないが、次女は明るくて楽しいのがいいと言っているし、「パッヘルベルのカノン」は次女も良く知っている曲でもある。

 2冊買って帰る。次女に2冊を前に話してみると、彼女も「『パッヘルベルのカノン』がいい」と言う。

 決まりだ。

 来週の次女のレッスン日に買った楽譜を持って行かせ、先生のご指導を聞いて決めたいと思う。

ドラマ「坂の上の雲」雑感

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 さてそれにしても、このところ、常々思っていることがある。NHKのドラマ「坂の上の雲」のことである。

 このドラマは、原作にもよく沿って作られており、なかなか大作であって評価できる。製作陣営の技術と出演者の類まれな演技力を評価したい。老若男女、誰もが見てよい。

 だが、しかし、ある一点のために、ダメになってしまっている。

 それは、正岡子規が念願かなって大陸へ従軍に出るエピソードの部分だ。

 司馬遼太郎の原作では、この部分は、「須磨の灯」という章で、たったの2ページで済まされてある。問題の部分は、1ページにも満たず、わずか4行である。なぜこのように短いかというと、この部分の主題とするところが、念願の従軍も、病勢をつのらせる原因にしかならなかったということにあるからだ。病身の正岡子規が時代の空気にいてもたってもおれず、上司をかきくどいて取材に出たものの、それは「子供の遊びのようなもの」にすぎず、ほんのおさわり程度に大陸の要地を見ただけで終わってしまい、結局は帰国の船上で大吐血してしまう。「須磨の灯」の章の冒頭部分は、これらのことを、物語の進展の上で軽く述べているに過ぎない。

 ところが、NHKドラマときたら、これはどういうことであろう。侵略者の権化のような曹長率いる一隊が、中国人の集落を我が物顔に闊歩し、徴発と称して荷駄を略奪する。正岡子規は老人や子供を守ろうとし、それに異を唱えるが、軍国主義に凝り固まった曹長が無理矢理に暴力に訴えて子規を黙らせようとする。非力病身をも省みず、思わず護身のために身につけた家伝の脇差の柄に手がかかる子規。これをたまたま居合わせた森鴎外が、平和主義の代表のような表情で止めに入る…などという、原作には存在しない挿話が無理やりねじこんであるのだ。

 これは作品に対するはなはだしい侮辱である。一体どういう脚本家だ。脚本家の仕業かプロデューサーの仕業か知らないが、ひどい作り手だ。

 頭の悪い若者がこのシーンを見れば、明治時代の日本陸軍は、腐りきった略奪者の群れであったという風に、頭から信じ込んでしまうだろう。

 時代というもの、また日露双方の当時のありように関して、彼らはあまりにも不勉強というほかはない。しかもなお、これは原作の司馬遼太郎の作品に加えられた、いわば強姦にも等しい蹂躙であり、その文学的格調を大きく失わせるものである。

 これは小さいシミのようなものではあるが、見過ごすことのできない過失である。いわば、美しい反物に落とした一滴の墨汁のようなものだ。そのシミが、せっかくうまく出来ているドラマ全体を二流品にしてしまっている。